第55話 ときめき レセプション
レセプション三日目。
家族や友人を招くという意味では、昨日が“初日”だったから、今日は二日目。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスのプレオープンイベントとしては、これが最終日になる。
スマホのアラームが鳴って、メイはゆっくりと目を開けた。
まだ少し眠たくて、まぶたが重たい。
けれど、意を決してベッドの端に座り、カーテンを開ける。
一気に差し込んできた夏の光が、まるで目を覚ませと言わんばかりに部屋の中を照らした。
窓を開けると、もわっとした空気が頬をなでていく。もうすぐ8月も終わるというのに、まだ夏はちゃんとここにいる。
どこか近くの公園から、子どもたちの声が聞こえてきた。
ああ、そうか。今日は日曜日なんだな。なんとなく、それだけで休日の空気を実感する。
今日のメイは、レセプションに“ゲストとして”参加する。
スタートは正午。だから、午前中はのんびりしていて大丈夫。
「……お昼くらいに出ようかな」
そうひとりごちて、メイはベッドから立ち上がった。
◇◇◇
朝のカフェ・ラフォーレ リーヴルス。
昨日はゲストだったスタッフたちも、今日はホスト役。
いよいよレセプション最終日――“本番直前”の空気が、ほんのりと張り詰めている。
カフェフロア中央に、スタッフが半円を描くように集まっていた。
「半分の人数だと、なんか……空いてる感じするね〜」
詩音が手を腰に当てて、少しふにゃっとした声でつぶやく。
「そうですね」
明美が横で、いつも通りきちんと返す。
「昨日もみんな、同じこと言ってたわね」
鈴原店長が落ち着いた声で笑う。
「でも、グランドオープン後は、この人数よりもうちょっと少なめで回すことになるのよ」
「……そりゃ大変だ」
詩音が顔をしかめると、鈴原店長がさらっと次の指示を出した。
「では、本日の説明、詩音ちゃんお願いね」
「はいっ!」
背筋をしゃんと伸ばす詩音。
(よし、美智子さんは今日はゲスト。副主任のわたしが、ちゃんとやらないと!)
内心で気合を入れながら、今日の段取りを一つ一つ説明していく。
「――以上のことに注意して、よろしくお願いします!」
ぴしっと締めくくったその直後。
詩音はなぜか、声をググッと低くして、
「……張り切っていくよーーっ!!」
と、ドヤ顔で叫んだ。
その場にいたスタッフ全員、ぴたりと静止。
「……どしたの、風邪?」
京子が真顔で聞く。
「……たぶん、美智子さんのモノマネですね」
ユキが淡々と分析。
「似てなさすぎる……」
明美がすかさず、しかし静かに突っ込む。
それが妙にツボったらしく、近くにいたミホが「ぷっ」と吹き出した。
それを皮切りに、みんなも笑い出す。
カフェの朝に、ふわっとした笑い声が広がった。
詩音はというと、
「えーっ、そんなに似てなかった〜?」
と、口をとがらせていた。
◇◇◇
出かける準備をしながら、メイはクローゼットの前で立ち止まっていた。
いつもなら、Tシャツにデニムでじゅうぶん。
だけど今日は――“お客様”として、ラフォーレ リーヴルスに行く日。
ほんの少しだけ、特別な装いにしたくなる。
「……どうしようかな」
ふと思い立って、クローゼットの奥からそっと取り出す。
それは、つい先日、赤レンガ倉庫の夏のバーゲンで、詩音に選んでもらった服だった。
ちょっとだけ勇気が要るけど、これにしよう。
そんなふうに心を決めて、メイはゆっくりと身支度を整えた。
玄関の姿見に映る自分。
——いつもより、少しだけ柔らかくて、少しだけ華やかな印象。
くすみピンクのブラウスは、控えめなスクエアネックに小さなフリルがついていて、
七分丈の袖はパフスリーブ気味。袖口と裾には、ふわっとレースの縁取りがされている。
合わせたのは、ミルクティー色のグレージュスカート。
ハイウエストにリボンベルトがついていて、
途中まで入ったプリーツが、歩くたびにやわらかく揺れるミモレ丈。
「……大丈夫かな、似合ってるかな」
鏡の中の自分に、そっと問いかける。
だけど――
これは、詩音が選んでくれた服だ。
なら、大丈夫。
メイはそう心の中でつぶやいて、そっと靴を履いた。
「行ってきます」
小さな声でそう言って、玄関の扉を開けた。
◇◇◇
ラフォーレ リーヴルスの前に立ったメイは、ガラス越しに中をそっとのぞき込んだ。
こういう、いわゆる“ちゃんとした”カフェやレストランに一人で入るのって――
よく考えたら、ほとんど初めてかもしれない。
ファーストフード店なら平気だったけど、ここはちょっと違う。
胸の奥に、わずかな緊張が走る。
メイは深呼吸をひとつして、扉に手をかけた。
カランコロン――。
ベルの音とともに、落ち着いた声が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ」
中に足を踏み入れると、すぐにレジカウンターの奥から、聞き慣れた声が響いた。
「メイちゃん、いらっしゃーい!」
そこには詩音が立っていた。
ぱっと顔を輝かせて、メイに手を振る。
「わー、それ、こないだの服? すっごい似合ってる!かわいい〜!」
詩音の大きな声に視線が一斉に集まり、メイは思わず肩をすくめた。
「ちょ、詩音……声、大きすぎ」
恥ずかしさで顔がじわっと熱くなる。
すぐ隣には鈴原店長が立っていて、微笑みながら静かに言った。
「落ち着きましょう、詩音ちゃん」
「でへへ……だって、うれしかったんだもん」
照れたように笑う詩音の横顔に、ちょっとだけメイの心も緩む。
「おはようございます、店長」
「おはよう、メイちゃん。本当によく似合ってるわ。いつもと雰囲気が違って素敵よ。今日は、ゆっくり楽しんでいってね」
「……ありがとうございます」
照れながらも、どこか嬉しくて、メイは小さく頭を下げた。
詩音がすっと姿勢を正す。
「お決まりですか?」
急に“営業モード”になった詩音に、メイはふっと笑ってしまう。
「えーと……キッシュ・ド・リーヴルスと、リーヴルスブレンドをホットで」
「かしこまりました。こちらのベルで――」
手際よく説明を続ける詩音。
言葉も動きも、きびきびとしていて、頼もしい。
(さすがは詩音。完璧な説明だな)
そう思っていたそのとき——
「お食事の後、スイーツな気分になったときは、いつでもお声をかけてくださいねっ」
にっこりと笑ってそう言った詩音のひと言。
それは、きっとマニュアルには載っていない、詩音のオリジナルトーク。
(……お見事)
メイは、心の中で拍手を送った。
注文を終えたメイは、手にしたバイブベルをそっと握りしめながら、店内を見渡した。
中央のテーブル席には、沙織ちゃんが友人らしき女性と楽しそうに話している。
メイに気づいた沙織が軽く手を振ってくる。メイもそれに気づいて、小さく手を振り返した。
さらに奥の窓際には、美智子さんの姿。こちらに背を向けて、二人の知人と談笑している。
どこか、あの人らしい穏やかで落ち着いた空気をまとっているのが、背中越しにも伝わってくる。
他にも、見覚えのある顔ぶれがいくつか。
たぶん本社の関係者たちだろう。
メイは少し迷ってから、カウンター席のいちばん端――本棚の近くの席を選んだ。
セルフサービスの水を取りに行き、グラスを手に戻ってくる。
カウンターの椅子に腰を下ろして、ひと息。
でも、なんだろう。
落ち着かない。
理由はよくわからないけれど、たぶん――
ひとりでカフェにいるから?
それとも、普段と違う服を着ているから?
どちらにしても、少しだけ、自分の中でペースがつかめない感じ。
思い立ったように、メイは席を立った。
展示エリアを、少しのぞいてこようと思ったのだ。
(落ち着かないの、まぎれるかもしれないし……展示の様子も、ちょっと気になってたし)
自分に言い聞かせるようにして、メイはゆっくりと奥の展示エリアへと歩き出した。
展示エリアに入ると、明美ちゃんが招待客に向けて、ちょうど説明をしているところだった。
メイは声をかけるのをやめて、少し離れたところから静かにその様子を見守る。
「……というわけで、今回の展示は、矢鞠市のおばあちゃん作家の絵本がメインテーマになっています」
明美の声は、緊張も感じさせない、落ち着いたトーンだった。
説明を受けていた数人の招待客は、なるほどね、と頷きながら談笑を交わし、
「ありがとう、楽しかったです」と言い残して、満足そうな表情で展示エリアを後にする。
「ごゆっくりどうぞ」
明美が丁寧に頭を下げたあと、顔を上げて――
そこにいたメイの姿を見て、目を丸くした。
「あ、メイさん!おはようございます!」
「おはよう、明美ちゃん」
「メイさん、その服……すごく素敵です!」
キラキラとした目で褒められて、メイは少し戸惑う。
(ああ、そうか。いつもと違う服なんだ、私)
と、今さらながら気づいて、
「そ、そうかな……ありがとう」
と、思わず照れくさくなってしまう。
視線を外すようにして、話題を切り替える。
「展示エリアのほう、順調?」
「はい!いまのところ、いい感じです。さっき、文学館の方もいらっしゃってましたよ」
「へぇ、そうなんだ。誰だったのかなぁ…」
「四十歳くらいの男性で……背がちょっと低めで、童顔な感じの方でした」
その言葉で、メイの中にすぐに浮かんだ顔がある。
田中部長――メイが密かに“タナ坊”と呼んでいる、あの人だ。
さっきカフェにはいなかったようだけど、わざわざ展示を見に来てくれたらしい。
仕事の一環だとしても、それでも……なんとなく、うれしかった。
(……まあ、人使いは荒いけど、来てくれたのはちょっと意外だったな)
そんなふうに考えていたそのとき――
手に持っていたバイブベルが、ぶるっと震えた。
「あ、できたみたいですね」
と、明美が微笑む。
「うん。じゃあ、行くね。がんばってね」
軽く手を振って、メイはカフェの受け取りカウンターへと向かった。
カフェの奥にある受け取りカウンター。
掲示板のランプに、メイが手にしているバイブベルと同じ「08」の数字が点滅していた。
それを確認してカウンターに向かうと、
京子さんが、にこやかに立っていた。
「メイちゃん、いらっしゃい。はい、これね」
優しい声とともに、料理とコーヒーの乗ったトレイを示してくれる。
「ありがとうございます」
メイは丁寧に頭を下げて、バイブベルを返すと、トレイをそっと持ち上げた。
ふわりと立ち上るコーヒーの香りに、自然と肩の力が抜ける。
その香りが、なんとも言えない安心感をくれた。
席に戻って、トレイをテーブルに置く。
ゆっくりと腰を下ろして、深くひと息ついた。
正面の大きなガラス窓から外を見渡すと、右手には駐車場や通りを走る車、ビルの影が見える。
けれど、自然と視線は左のほう――緑の多い公園のスペースへと向かっていた。
正面には、公園の入り口。
その先に広がる木々の揺れや、明るい芝生のひらけた場所が、なんとも心を和らげてくれる。
なんとなく、ほっとする。
こうしてカウンター席に座って見る外の風景は、
これまでラフォーレの中を動き回りながら、通りすがりに眺めていたものとは、少し違って見えた。
たぶん、今日は“お客”としてここにいるからだ。
鈴原店長が言っていた、「お客の立場になって、景色を見ることも大切よ」――
その言葉の意味が、なんとなく、少しだけわかった気がした。
ほんの少しだけ、世界が静かに感じられる。
◇◇◇
キッシュを食べ終えて、満腹感の余韻にひたりながらコーヒーをすする。
その香りに包まれたまま、ぼんやりとした時間を過ごしていると――
背後から、静かな声が届いた。
「こちら、おさげしてもよろしいですか?」
「あ、お願いします」
振り向くと、そこに立っていたのはユキだった。
その顔には、いつもの無表情なユキとは程遠い、やわらかい笑みが浮かんでいた。
声のトーンも、どこか優しげで、ふとメイは驚いてしまう。
「ユ、ユキちゃん……ありがとう」
戸惑い気味のメイの様子に気づいたのか、ユキはすっと目線を戻し、いつもの淡々とした調子でひと言。
「……これ、仕事用ですから」
そう言い残すというと、再びふわっとした笑みを浮かべて、空いたお皿を丁寧に下げていった。
——ある意味、プロフェッショナルだ。
あっけにとられながらも、どこか感心してしまうメイだった。
◇◇◇
お腹も満たされて、心も少しほぐれてきた。
せっかく来たんだから――そう思って、メイは立ち上がる。
ふらりと向かったのは、旅行・自然コーナーの本棚。
棚の前に立って、何気なく目を走らせていると、ディスプレイされた一冊が目に留まった。
『風のあとを、歩く』
タイトルの下には、木漏れ日の射す森の道。その真ん中に、女性がひとり、背中を向けて立っている。どこか幻想的な雰囲気の漂う表紙。
詩音が「これ大好きなの!」とイチオシしていた写真集だった。
メイはそっと手に取って、ページをパラパラとめくってみる。
……じっくり読むのは、実はこれが初めてかもしれない。
A4よりやや大きめのサイズで、ページ数も100ページほどある。
ずっしりとした重みを感じながら、それを席へと持ち帰った。
1ページ目を開くと、静かな森の中にたたずむ山小屋の写真。
次のページでは、雪をいただく山々を背景に、清流が流れている――まるで上高地のような光景。
どの写真も、人と自然とが共にある風景。
見開きいっぱいに広がるその迫力は、スマホやタブレットで見るのとはまるで違う。
そして、控えめなキャプションが、写真の世界を壊すことなく、そっと想像力をくすぐってくる。
ページを進めるたびに、静けさが深くなっていくような感覚。
やがて目に留まったのは、まだ雪の残る山々に向かって、草原を歩いていく少女の後ろ姿――
スカートの裾が風にふわりと舞っている。
どこか吸い込まれそうな、静かで力強い一枚。
そういえば、詩音が「これが一番好き」って言ってた写真だ。
(キャンプ……行ってみたいな)
ふと、詩音が言った言葉を思い出す。
「お店がオープンして、落ち着いたら……ちゃんと計画立てよう」
そう心の中でつぶやいたそのとき――
「その写真、やっぱいいよね〜」
突然の声に、びくっと肩が跳ねた。
「わっ、詩音……!」
あまりのタイミングに、思わず驚いて振り向く。
「ごめんごめん、読書中に。
でも、その写真集見てる人見ると、つい声かけたくなっちゃって。職業病かな、ハハハ」
「それ、悪くないと思うよ。ブックカフェのスタッフとしては」
メイが笑うと、詩音は少し照れくさそうに首をすくめた。
「そ、そうかなぁ……」
そして、ふと声を落として言う。
「今日さ、終わったらごはん行かない?なんか予定ある?」
「ううん、何もないよ。片付け終わるまで待ってるね」
「ほんと?やった、ありがとう!
じゃ、またあとでね。ごゆっくり〜!」
軽く手を振って、詩音は再びフロアへ戻っていった。
メイは彼女の後ろ姿を見送りながら、もう一度写真集に目を落とす。
さっきの、少女が草原を歩く写真。
その下に、こんなキャプションが添えられていた。
――歩いていれば、風が背中を押してくれる。
その言葉に、不思議と心が引っかかった。
この二ヶ月あまりにあった、いろんなことが、ふと頭をよぎる。
(……うん、確かに。その通りかも)
そっと笑みがこぼれた。
写真集を閉じた頃には、変な緊張もすっかりほぐれていた。
(そういえば、お昼からこんなにゆっくりとした時間を過ごすの、久しぶりかも)
そう思いながら、コーヒーをひと口。
確かに、自宅ではいつもひとりだったけど、このところ何かとバタバタしていて、帰ったら疲れてすぐ眠ってしまうような日々が続いていた。
もともと“ひとり時間”が好きなメイ。
友達といえば、幼なじみの涼子くらい。
仕事もプライベートも、誰かと過ごすより、自分のペースで過ごす方が合っていた――ラフォーレ リーヴルスを手伝うことになるまでは。
なんとなく、その“ひとりの感覚”が少しずつ戻ってきて、今の居心地のよさに繋がっているような気がした。
うまく言えないけれど、なんだか調子が出てきた感じ。
「何か、他の本も取ってこよう」
そう思って、メイは写真集を持って席を立つ。
さっきの本棚に戻って、丁寧にその場所に収めたあと、ふと思った。
(あ、これ返却ワゴンに返せばよかったのか。つい、仕事の癖で棚に戻しちゃった)
苦笑いしながら、少し位置を整えて、また歩き出す。
ふらふらと本棚を歩きながら、小説やエッセイのコーナーへ。
これまでは、読書といえばほとんどUFOとか超常現象ばかり。
本屋に行っても、まずその棚にしか行かなかった。
でも最近は、ラフォーレ リーヴルスの蔵書をいろいろ眺めているうちに、少しずつ興味の幅も広がってきたように思う。
そんなふうに棚を眺めていると、ふと目に飛び込んできた一冊。
『ひとりキャンプ日和』
(あ、これ。ちょっと前から気になってたやつ)
パラパラとめくってみると、やっぱり面白そう。
これは、席に戻ってじっくり読みたい――そう思ったメイは、本を手にカウンター席へと戻った。
窓の外、左手には緑の公園が見えるし、
こういう景色を眺めながらキャンプエッセイを読むなんて、ちょっといいかも。
そんなふうに少しウキウキしながら、コーヒーの横に本を置いて、ゆっくりと読みはじめた。
表紙は、湖のほとりで、ひとり焚き火を眺める女性キャンパーの姿。
開いてみると、すぐにページをめくる手が止まらなくなった。
⸻
グランドシートは、風に乗る生き物である。
テントを立てようと、地面に広げた瞬間、風にふわっと持ち上げられて、隣のサイトまで飛んでいった。
キャッチしてくれたお兄さんは、笑いながら「ただいま」と言って返してくれた。
……たぶん、キャンプってこういうところが一番好きだ。
⸻
夜のテントは思っていたよりずっと賑やかだ。
カエルの合唱が、真っ暗な空間のなかで堂々と響いてくる。
でも、しばらくするとリズムが耳に馴染んできて、いつの間にか眠っていた。
自然の音って、ちょっとクセがある。でも、悪くない。
⸻
ページをめくるたびに、あちこちで笑ってしまいそうになって、でも、それ以上に癒される。
どれもこれも、“ちょっとしたこと”ばかりなのに、不思議と心に引っかかってくる。
(これ、好きかも……)
時間の経つのも忘れて、メイは夢中になって読み進めていった。
◇◇◇
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
メイは、すっかり読書に夢中になっていた。
(やっぱ、キャンプって面白そうだな)
そう思いながら顔を上げたそのとき――
窓の右手、駐車場の一角に止まっているバイクが、ふと目に留まった。
濃いベージュに黒のアクセント。
低めのシルエット。
(あれ……)
どこかで見た気がするそのバイク。
確証はない。
でも、梓ちゃんのバイクに――よく似ている、気がした。
心臓が、すっと音を立てて波打つ。
言葉にならないざわめきが、胸の奥に広がっていく。
慌てて店内を見渡す。
でも、それらしい姿はどこにもない。
(梓ちゃん、来てるのかもしれない)
思わず立ち上がり、展示エリアへと早足で向かう。
中には、バイトのミホちゃんがいた。
「あ、メイさん。どうかしました?」
「……いや、なんでもない。ありがとう」
答えながらも、落ち着ききれない気持ちのまま、メイは本棚エリアへと足を向けた。
本棚の通路を、一つずつ、丁寧に見ていく。
でも、どこにも梓の姿は見当たらない。
カフェの中は走っちゃいけないと分かってはいるのに、足取りはどんどん速くなっていく。
もう一度、フロア全体を見渡す。
だけど、やっぱり――いない。
そんなメイの様子に、詩音が気づいた。
「メイちゃん、どうしたの?」
まともに答える余裕もなく、
「すぐ戻るから!」
それだけを叫ぶように言って、エントランスの扉を押し出す。
外の空気に触れながら、小走りでバイクのほうへ向かう。
近づくほどに、やっぱり――あの色も、あの形も、梓ちゃんのバイクに似ている。
でも、ナンバーも覚えていないし、確信は持てない。
周囲をキョロキョロと見渡す。
(梓ちゃん、どこ……?)
……本当に来てくれてたのかもしれない。
そう思いながら、もう一度店内に戻ろうと、急いでエントランスに向かう。
メイが扉を開けようとした、その瞬間——
内側からエントランスの扉が開いて、中から美智子とその連れがちょうど出てきた。
「メイ? どうした、そんなに慌てて」
「美智子さん。梓ちゃん……来てるかもしれないんです」
「え? 梓が? 来るって話だったのか?」
「いえ。来られないっていう連絡のままで……でも、さっき、あっちにバイクが見えて」
メイが指差した方向は、店の横。
ここからでは、ちょうど見えない。
「ちょっと待ってて」と言って、美智子は連れに声をかけると、メイと一緒にバイクの停めてある方へ向かった。
メイは焦る気持ちを押さえながらも、自然と歩幅が速くなる。
それに合わせるように、美智子も軽い足取りでついてくる。
店の角を曲がる。
そこに――バイクはなかった。
「あれ? さっきまで……あったのに」
周囲を見渡す。
けれど、梓の姿も、バイクの姿も――もう、どこにもなかった。
メイの胸に、じわりと失望が広がる。
「……どこにもいない」
ぽつりとつぶやいたメイに、美智子が少しだけ微笑みながら言った。
「まあ、梓がここまで来たのなら――それだけで、上出来じゃないか。あいつにしては」
「……そうですかね」
「うん。そんなもんだよ。あまり気を落とすな、メイ」
そう言って、美智子は連れのもとへ戻っていった。
静かに取り残されたメイ。
もし、本当に来てくれていたのなら――
声のひとつくらい、かけてくれたっていいのに。
胸の奥に、言葉にならない何かが残る。
メイは、ただそこに立ち尽くしていた。
◇◇◇
夕方4時。
ラフォーレ・リーヴルスの三日間にわたるレセプションが、ついに幕を閉じた。
店の控え室。
メイはひとり、ソファの端に座っていた。
胸の奥では、あの“バイク”のことがまだ引っかかっている。
「お待たせ〜!」
元気な声とともに、詩音が控え室に入ってくる。
「あ、詩音……」
力なく返すメイの顔を見て、詩音が声をひそめる。
「大丈夫? ごはん行けそう?」
「……うん、大丈夫。行こう、ごはん」
無理に笑ってみせながら、メイは立ち上がった。
◇◇◇
夕暮れの街。
オレンジ色の光が、二人の影をゆっくりと伸ばしていく。
「そっか。梓ちゃんって子、来てたんだ…」
詩音がぽつりと言う。
「うん。でも……ほんとに梓ちゃんのバイクだったかどうか、よくわからないし」
「うん」
「そもそも、梓ちゃん来てなかったかもしれないし……」
「うん」
それ以上、言葉が出てこなくなって、しばらく無言で歩く。
信号の手前で、詩音がふと立ち止まる。
「でもさ――」
と、こちらを向いて言った。
「たぶん、来てくれてたと思うよ。梓ちゃん」
「……そうかな」
「うん。私の直感!案外、当たるんだよ〜」
どやっと胸を張る詩音に、思わずメイの頬がゆるむ。
「そうなんだ……」
「気になってたと思うよ。メイちゃんのこと」
「……そうかなあ」
「そうだよ! 間違いない!」
詩音の明るい声に、少しだけ心が温かくなる。
「メイちゃんさ、梓ちゃんのRain、知ってるんでしょ?」
「うん」
「だったら、送ってみればいいじゃん。“来てくれたの?”って。直接聞いたほうがスッキリするし」
「……返事がなかったら?」
「それはそれでよし! 一方通行、出口なし!」
「え?」
「えーと、虎穴にいらずんば、虎子を食うって言うじゃん!」
「……虎子を得ず。じゃない?」
「あれ? そうだっけ?」
完全なる天然ボケに、メイがくすっと笑う。
「ほら。歩いていれば、きっと背中を押されてるから……ね」
あの写真のキャプションを、そっと思い出す。
「……うん。そうだね。Rainしてみるよ」
「うんうん、その調子!」
「……ありがとう」
「さ、行くよー! ごはん!」
詩音は元気に指をさしながら言った。
「あのね、お姉ちゃんがね、矢鞠駅の近くにある、おいしいカレー屋さん教えてくれたの。そこ行こ!」
「うん、そうしよう」
「食べすぎ、禁物ですぞ〜!」
「その言葉、そのまんま返すよ」
「およよ……」
「出たな、“およよ”」
笑いながら歩いていくふたりの声が、夕暮れの街にやさしく響いた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




