第52話 レセプションが始まるよ!
朝のラフォーレ・リーヴルスは、まだ静けさの中にあった。
外は薄い雲が広がっていて、空気もどこか湿っぽい。
開店前の店内には、昨日のコーヒーの香りがまだ少し残っていて、それがなんとなく、気持ちを落ち着けてくれた。
更衣室には、誰の気配もない。
いつもより少し早く着いたメイは、そっとロッカーを開けた。
そこには、昨日の内覧会のあと、みんなから受け取った制服がきちんと畳まれて待っていた。
カフェの制服とは違っていて、
シェフジャケット風の立ち襟に、左右非対称のボタン。
フォーマルなのに、どこかやわらかい印象があった。
アイボリーがかった光沢のあるブラウスに、黒のパンツ。
名札は、木目調のプレートで、あたたかみがあった。
(……なんか、うれしいな)
思わず、ふっと口元がゆるむ。
ゆっくりと袖を通すと、胸の奥がきゅっとなった。
鏡の前に立ち、制服のすそを軽く整えて、姿見に映る自分と目が合う。
「……似合ってる、かな」
ぽつりとこぼれた声が、更衣室の壁に溶けていく。
そのとき、
ドアを叩く音と、
「入りまーす」と、控えめな声。
ドアが開き、美智子が顔をのぞかせた。
「お、おはようございます……」
メイはとっさに鏡の前から一歩引いて、体を少しだけ隠すように会釈した。
「おはよ、メイ。……早いな、今日は」
美智子の視線が、足元からそっとメイの姿をなぞる。
「ふふ。いいじゃん。似合ってるよ」
さらりとした口調が、なんだかじんわり心に染みる。
ありがとうと言いたくて、でもうまく言葉にできなくて、メイはただ、ぺこりと小さく頭を下げた。
更衣室の外から、笑い声と「おはようございます」の挨拶が重なりながら近づいてくる。
ドアが開くと、朝の空気が一気に流れ込んできた。
「メイちゃーんっ! うわ、かっこいいじゃーん!!」
ひときわ、にぎやかな声が更衣室に響き渡る。
もちろん、詩音。
「ね、ね、やっぱり私が選んだだけある〜〜!」
「……まだ言うか!!」
後ろから沙織のツッコミが飛んできた。
「もう一度言います。決めたとき、詩音さん寝てました」
ユキの静かな声が追い打ちをかける。
「だからー、私ちゃんとイメージしてたもん! 夢で!」
昨日とまったく同じやりとりを繰り返す詩音に、まわりから思わず笑いがこぼれた。
京子が制服のボタンを留めながら、ちらりとメイを見て、やさしく話しかける。
「メイちゃん、“夢先案内人”って感じね。静かだけど、ちゃんとここに導いてくれる人っていうか……」
「なんか、ポエム〜」
明美がぼそっとつぶやいた。
「もう、明美ちゃんったら。それだけステキってことよ〜」
楽しげな更衣室が、さらに笑いでいっぱいになる。メイも、小さく笑って、少しうつむきながら髪を耳にかけた。
(……なんかメチャ、恥ずかしいんですけど)
◇◇◇
更衣室を出ると、店内はまだ午前中の静けさの中にあった。
午後から始まるレセプションに向けて、スタッフたちがそれぞれの持ち場で準備を進めている。
グラスを並べる音、足音、遠くで聞こえるコーヒーマシンの唸り。
そのどれもが、今日という日が特別なんだということを、静かに伝えているようだった。
——ちょうど、一ヶ月前のこと。
まだ照明が半分しか灯っていないカフェエリアに、スタッフたちが集まっていた。
ユニフォームのまま丸くテーブルにつき、手元の資料をめくる音があちこちから聞こえる。
「じゃあ、始めるわね」
店長の鈴原敦子が、ゆっくりと口を開いた。
その声に、空気が少しだけピンと張る。
「まずは資料の一枚目。内覧会とレセプションについて説明していきます」
何人かがページをめくる。詩音もそのひとりだった。
「まず、8月21日に内覧会があります。これは市や教育委員会、地元メディアなどの関係者をお招きして、店舗をお披露目するためのものです。副市長、教育委員長、地元のテレビ局やラジオ局も来てくださる予定です」
「副市長……なんか緊張しそうですね」
沙織が、資料から目を離さずにつぶやく。
「そうね。なかなかお会いできない方々だから、対応にも気をつけましょう。もちろん、麗華社長もお越しになります」
店長の言葉に、空気が少しだけ引き締まる。
「この日は立食パーティー形式の特別オペレーションになります。カフェスタッフ全員が動きやすいように、ホールを少し広く使います。対応は、社員スタッフとメイちゃんにお願いする形になるわね。よろしくね、メイちゃん」
「……はい。がんばります」
いきなり名前を呼ばれて、メイは思わず背筋を伸ばした。
「さて、次のページに進むわよ」
資料の紙が一斉にめくられる音が、テーブルの上で重なった。
「その翌日、8月22日から三日間にわたって、レセプションを行います」
「レセプション……?」
アルバイトのくるみが、小さく首を傾げながらつぶやく。
「そうね。聞き慣れない子もいると思うけれど、レセプションっていうのは、取引先の方や、スタッフのご家族・お友達に向けたプレオープンのようなものよ。お店としての感謝や挨拶を込めた、ちょっとしたおもてなしの場になるわ」
(へぇ……そんなのもあるんだ)
詩音は、ペンを指先で回しながら思った。
「この三日間は、お客様を実際にお迎えする流れを、通しでシミュレーションする形になります。時間帯は決めていますが、ご来店やご注文のペースはこちらでは読めません。どんな状況にも対応できるよう、実践訓練のつもりで臨みましょうね」
店長はそう言って、少しだけ笑った。
「次のページを開いて。各日ごとの対象が書いてあります」
スタッフたちが資料をめくる。
ページの端には、それぞれの日に誰がゲストを招くか、名前が並んでいた。
「22日は、お取引先や関連企業の方々。23日・24日は、皆さんのご家族やお友達をご招待ください。もちろん、アルバイトの皆さんもOKよ」
「バイトでも……いいんですか?」
アルバイトのミホが声を上げる。
「ええ、人数に制限はあるけど、親御さんやご友人に声をかけてね」
その言葉に、アルバイトたちが顔を見合わせて、小さな笑い声が広がった。
「ただし、ここが大事なところ」
店長の声が少しだけ柔らかくなる。
「それぞれの招待日は、スタッフごとに決まっているわ。資料に書いてある日を確認して、間違えないように気をつけてね」
そして、もう一つ。
「ご家族やご友人を招待するスタッフは、その日だけ“お客様”として過ごしてもらいます」
「えっ」
数人が小さく声を上げる。
「外からラフォーレを見るって、とても貴重な経験よ。どう見えるか、どう感じたか、後日ぜひ教えてもらいたいと思ってます。ミーティングで改善点を出し合えたらいいわね」
店長は、パタンと資料を閉じた。
その音が合図のように、フロアがふっと静かになる。
「なお、ご案内は電子招待状になります。Rainやメールでファイルを送って、当日はその画面を見せていただく形ね。送信方法は、資料の最後のページを確認してね」
「……ここまでで、何か質問ある?」
しばし沈黙。
誰も手を挙げることはなかった。
——あれから、もう一ヶ月。
レセプションの初日が、静かに始まろうとしていた。
◇◇◇
正午。
取引先や関連企業向けのレセプションが、ゆるやかに始まった。
カフェフロアには、スーツ姿の来客たちが数組、席に分かれて腰を下ろしている。
テーブルの上には、思い思いにオーダーした飲み物や軽食が置かれていた。それを楽しむ人もいれば、同席者に何やら真剣に話し込んでる人も見かけられる。
「いらっしゃいませ、本日はご来店ありがとうございます」
詩音の声が、いつもよりほんの少しだけ高く聞こえた。
緊張しているのか、それとも張り切っているのか。どちらかはわからないけれど、その表情は真剣そのものだった。
カフェフロアには、昨日の内覧会には入っていなかったアルバイトたちも立ち、ぎこちない動きでお客様のグラスを交換したり、プレートを下げたりしている。
その隣で京子が、落ち着いた声でさりげなくアドバイスを送っていた。
「……あの4番テーブル、本を読んでる方。今のタイミングでお皿さげて大丈夫よ」
「は、はいっ……!」
厨房では、志麻と沙織が並んで注文の流れを見ていた。
注文一覧にさっと目を通した志麻が、ぽつりとつぶやく。
「これ、フロアA。いま出すと重なるから、ちょっとずらすと楽になるよ」
「あ、なるほど……」
沙織は思わずうなずいた。
言われてみると、そのほうが確かにスムーズだ。
まだまだ学ぶことが多いな、と実感した。
本棚エリアでは、ユキがアルバイトのミホと一緒に来客の案内をしていた。
どんな棚が人気か、どこが混みやすいか、メモを片手に控えめに立ち回っている。
一方、展示エリア。
メイは真新しい制服に身を包み、展示の説明をしていた。
昨日の内覧会での経験が効いているのか、声も表情も、思ったより落ち着いている。
「……こちらは、童話作家・森野琴子の原稿展示です。現在は、実際に書かれた下書きと……」
アルバイトのくるみと並んで立ち、手元の資料を確認しながら、来場者に向けて展示の説明をしていた。
くるみがやや早口になると、メイはさりげなく間を補ったり、
視線を合わせて安心させるように、やわらかく言葉を添えたりした。
(その調子ね、くるみちゃん……)
ふと視線を上げれば、カフェの方から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
草薙社長が、業者のひとりと笑顔でコーヒーカップを手に、親しげに言葉を交わしている。
少し離れた場所からその様子を見ていた制服姿のメイは、心の中でそっとつぶやいた。
(……ちゃんと、言わなきゃ)
——レセプション初日が、何事もなく終わろうとしていた。
◇◇◇
最後のお客様を送り出したあと、店内にはふっと柔らかい空気が戻っていた。
スタッフたちの間にも、ほっとした表情が広がっていく。
「お疲れさま〜」「ふぅ、終わった……」
そんな声が、あちこちから自然にこぼれた。
そのなかで、草薙社長がふと立ち止まり、みんなの方に向き直る。
「今日もすばらしかったよ。ありがとう」
そう言って、鈴原店長に微笑みかけながら、エントランスの方へ歩き出した。
それを少し離れた展示エリアから見ていたメイ。
一拍おいてから、小さく息を吸い、メイは足を踏み出す。
草薙社長がエントランスのドアを押して外に出る。
メイもそのあとを追うように、小走りで駆け出した。
「草薙社長!」
ドアの向こう、外に出たところで呼びかける。
振り向く、草薙社長。
驚いたのか、メイの顔を見て、少しだけ表情が止まる。
一瞬の沈黙。
「あ、あの……」
(しっかり……ちゃんと言わなきゃ)
「……制服、ありがとうございました」
深く頭を下げたメイの上から、やさしい声が落ちてくる。
「平瀬……メイさん、だったかな?」
顔を上げると、社長がにこやかにこちらを見ていた。
「いつも、ラフォーレのために頑張ってくれて、ありがとう。これからも、よろしくね」
「……はい」
それだけ答えるのが、やっとだった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……それじゃあ、あとは頼むよ、敦子」
そう言い残して、草薙社長はボルボの運転席に乗り込んだ。
エンジンの音が、静かに遠ざかっていく。
並んでそれを見送っていた鈴原店長が、そっとメイの肩に手を置く。
「麗佳さん、喜んでたみたいね」
「……そうですかね」
傾きはじめた午後の陽が、エントランス前の石畳をやさしく照らしていた。
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