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第50話 ルルポの想い出


夜の部屋。

静かな秒針の音が、ときおり響く。窓の外では、虫の声がかすかに鳴いていた。


広瀬梓は、スマホを片手に、ベッドの上で片膝を立てて座っていた。

画面には、キャンプ場のレビューやブログ。

写真と地図を交互に見ながら、指先でスクロールを続ける。


「……どこにするかな」

誰に聞かせるでもない、独り言。


そのとき、不意にRainの通知が届いた。

画面の上に、平瀬メイの名前とメッセージが浮かぶ。

「急でごめん。8月24日、うちのカフェのレセプションがあるんだけど……

もし都合がよかったら、来てもらえたら嬉しいな」


梓は指を止めて、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。

それから、手のひらの力を抜くように、スマホを横に置き、仰向けにベッドへ倒れ込む。


天井を見上げ、ひとつ、息を吐く。


しばしの沈黙が、流れる。

再びスマホを手に取る。

迷うような指の動きのあと、画面に文字が打ち込まれる。


「ごめん 仕事でいけない」


送信ボタンを押すと、画面を伏せた。


天井を見たまま、梓はもう一度、小さくため息をついた。


◇◇◇


あくる日。


カフェ・ラフォーレ・リーブルスでは、目前に迫った内覧会とレセプションに向けて、スタッフたちが慌ただしく動いていた。


午前中は、スケジュールと当日の動き方についてのミーティング。

午後からは、注文ラッシュを想定したオペレーションの練習や、導線チェック。


「はい、いまのやり直し!注文受けるときは、ちゃんとお客様の目を見る!」


カウンターの奥では、美智子のキレのある声が響いていた。


メイはというと、その日は午後から展示エリアの調整と、本棚からの導線確認。

柳森さんと並んで、案内文の貼り出し位置や紹介の順序を相談していた。


「そうそう、平瀬ちゃん」

不意に、柳森さんが言う。

「この前のラジオ、聞いたわよ。よかったわ、最後のインタビュー。敦子先輩も褒めてたわ。“あんなメイちゃん、見たことない”って」


「……私も見たことないんですが」


心の中でつぶやきつつ、メイは照れくさそうに笑った。


「あれ、本当に私が話してたんですかね?なんか、記憶ないんですけど……」


「ふふ、そうなの?その割にはしっかりした口調で話してたわよね」


柳森さんが軽く笑って、冗談めかす。


「何か乗り移った?タヌキとか……」


「たぶん、きつねです」


そんなやりとりを交わしながら、展示の段取りは和やかに進んでいった。


◇◇◇


夕方。

本日のカリキュラムを全て終えて、店内はのんびりした空気に包まれていた。


メイは詩音の姿を探して、店内をぐるりと見渡す。

と、そのとき——


「ごめん、今日チワワの当番なのー!お先にー!」


更衣室のドアが勢いよく開き、詩音が叫ぶように言って、全速力で飛び出していった。


カフェフロアの奥。沙織とユキが、揃って目を見合わせる。


「誰に言ってたんだ、いまのセリフ?」


「多分……見えない誰かに……」


「やめて。帰り道に思い出すから……」


そんな二人の会話に、メイは小さく笑いながら、駅の方へ駆けていく詩音の背中を窓越しに見送った。


(梓ちゃんのこと、詩音に相談しようと思ってたのに……)


立ち尽くすメイの目に入ったのは、片付けを終えて、カフェのテーブル席で水を飲んでいる美智子の姿だった。

ひと息ついているその横顔は、いつもよりちょっとだけ穏やかに見える。


(……思い切って、いってみるか)


メイはそっと歩き出した。


「美智子さん、ちょっといいですか?」


メイがおそるおそる声をかけると、美智子は椅子にもたれたまま顔を上げた。


「あぁ、大丈夫だよ。なに?」


「あの……広瀬梓ちゃん、ご存知ですか?」


その名前を聞いた瞬間、美智子の目の色がほんの少し変わった。


「……あぁ、知ってるよ。メイは、梓のこと、知ってるんだ」


「はい。梓ちゃんとは……」


メイは、キャンプ場での出会いから、Rainを交換したこと、マウントワンで偶然再会して、ファミレスに行くことになった経緯までを、短くまとめて話した。


「へぇ、あの梓がファミレスね。珍しいな」


「そうなんですか?」


「うん。あいつ、誰かと一緒にごはん食べるなんて、滅多にないから」


メイは小さく驚いて、スマホを取り出す。


「それで、今度のレセプションに来てもらえたらって思って、昨日の夜、Rainしたんですけど……“ごめん、仕事で行けない”って返事がきて」


「そっか……」


美智子はしばらく考えるように、黙った。


そして、ゆっくりと立ち上がる。


「メイ、このあと、ちょっと時間ある?」


「え、はい。大丈夫です」


「じゃあ……ちょっと付き合ってくれないか?」


穏やかな口調でそう言って、美智子は席を離れた。


◇◇◇


矢鞠駅から少し歩いた先に、その店はあった。

地下へと続く階段の上には、木の板に彫られた『Bar Phase』の文字。

美智子が先に足を踏み入れると、ドアベルが軽く鳴った。


カラン、コロン。


乾いた音が、夜の静けさに吸い込まれていく。


店内は、ひっそりとしていた。

低く流れるジャズ。奥のボックス席にカップルがひと組いるだけで、他には誰の姿もない。


カウンターの奥では、品のいいメガネをかけたマスターが、黙々とグラスを磨いていた。

無言の所作に、場の空気が整えられていくようだった。


メイは美智子に続いて、背の高い椅子に腰を下ろした。

自然に、背筋が伸びる。


漆喰の壁は、落ち着いたベージュ。

アンティーク調の間接照明が、柔らかい光を落とす。

濃い木目のボトル棚に並ぶガラスの列と、白木のカウンターの静けさ。


まさに、“大人の空間”。

メイにとっては、完全に“別世界”だった。


カフェバーくらいなら、親友の涼子と何度か行ったことがある。

けれど、ここはそれとはまるで違う。

空気の密度も、光の加減も、何もかもが落ち着きすぎて、少し怖いくらいだった。

座っているだけで、背筋の甘さを見抜かれている気がした。

手のひらに、じんわり汗がにじむ。背中がこわばる。


「何、飲む?」


不意にかけられた声に、小さく肩が跳ねた。


「……私、あまりお酒飲めないんで」


「そっか」


美智子は微笑むようにうなずいた。


「でも……少しだけなら、大丈夫です」


メニューを手に取って、目を走らせる。

見たことのある名前を探しながら、安心できそうな一つを選ぶ。


「カシスオレンジで……お願いします」


「マスター、カシスオレンジと……ドライマティーニ。辛口で」


美智子がオーダーを告げるあいだ、メイはそっと周囲を見渡した。

その空間はやっぱり、まだ少し緊張するけれど――どこか、心地よくも感じられていた。


「よく、来るんですか? ここ」


「ラフォーレ立ち上げで矢鞠市に来たときから、ちょこちょこな」

カウンターの端を指先でなぞりながら、美智子が言う。

「でも、もうすぐ来なくなるな。ラフォーレがオープンしたら」


——あ……そっか。


応援スタッフは、グランドオープンして少ししたら、自分の店に戻ってしまうんだ。


メイは小さくうなずいた。


「お腹は?」


ふと、美智子が聞いた。


「……大丈夫です」


そう言った瞬間、ぐぅ、とお腹が鳴った。

わりと、はっきりと。


メイは一瞬で顔が熱くなるのを感じた。


美智子はくすっと笑って、メニューを手に取る。


「何か食べ物、頼もうか」


「すみません……助かります」


「軽いものでいいかな。サラダと、あとは……ジャーマンソーセージでもいっとくか」


ページをぱらぱらとめくりながら、美智子が言った。


「……実はあの時も、お腹鳴ったんですよ」


「うん?」


「梓ちゃんと、マウントワンで。アウトドアショップなんですけど……」


メイは少し照れながら、続きを話す。


「ばったり会って、ふたりとも空腹で。お腹が鳴ったのをきっかけに、なんとなく気まずさがほぐれて。結局ファミレス行ったんです」


「なるほどね……」

美智子は、遠くを見るように目を細めた。


「梓、まだキャンプやってるんだ」


そのタイミングで、ドリンクが届いた。


カシスオレンジのグラスを両手で受け取ったメイの隣で、美智子はドライマティーニをひとくち飲む。

グラスの縁に、光が静かに揺れた。


「あの時のあいつの目、忘れられないよ」


「……はい?」


ストローに口をつけかけていたメイの動きが止まる。


「私が、ルルポ・ド・ニーチェにいたって、聞いてたっけ?」


「はい。ちょっとだけ」


美智子は頷き、グラスを静かに置いた。


「その時さ。梓が新人で、バイトで入ってきたのは……」


その言葉を皮切りに、美智子の視線がふっと遠くへ向かう。


メイがカクテルのグラスをそっと置いた頃には、店内のジャズが、すこしだけゆっくり流れているように感じられた。



—— 四年前の、馬車道。


カフェ・ルルポ・ド・ニーチェ。

まだ新しさの残る厨房で、制服を着た美智子は、紹介の声を聞いていた。


「今日から一緒に仕事をする、広瀬梓さんです」


店長の美馬がそう言うと、スタッフたちの視線が一斉に集まる。


梓は無表情のまま、軽く頭を下げた。


「……広瀬です」


それだけだった。


その目は、まるで全世界を敵に回しているかのような鋭さだった。

睨んでいるというより、身構えている。そんな目。


でも美智子には、どこか――怯えた子犬のような目にも、見えた。


———


「あの時は、梓、まだ高一だったかな」


美智子がグラスに口をつける。


「メイはもう気づいてると思うけど、うちの会社ってさ、下の名前で呼ぶこと多いだろ?」


「はい、そうですね」


「でもね、誰もあの子のこと、“あずさ”なんて呼ばなかったんだよ。みんな“広瀬さん”って」


美智子は笑うように言った。

「人を寄せつけないオーラ、すごかったから」


「……なんとなく、わかります」


メイも思わずふっと笑う。


そのとき、シーザーサラダとジャーマンソーセージ、ミックスナッツがテーブルに運ばれてきた。


「食べな」


「ありがとうございます」


メイはサラダを小皿に分けながら、続きを促すように顔を上げた。


「美智子さんも、最初は“広瀬さん”って?」


「いや、私はこんなだから、最初から“あずさ”って呼び捨て。

あいつ、ちょっとむっとしてたけどね」


美智子は思い出すように、笑みを浮かべた。


「最初は、ほんっとに何もできなかったよ。怒った、怒った」


「ふふっ」


「でもね、あの子、一度も弱音吐かなかった。言われたこと、次のときにはちゃんとできるようにしてきた」


グラスを軽く揺らしながら、美智子は続ける。


「見えないところで、ずっと努力してたんだろうな。そういう感じの子だった」


メイは黙って頷いた。


「最初は陰口叩いてた子たちもさ、だんだん認めるようになっていってさ。実力で黙らせてくタイプ、だな」


「……梓ちゃんっぽいです」


メイが思わずつぶやくと、美智子はにやりとした。


「だろ?」


「そういえば、こんなこともあったなぁ」


グラスの氷が小さく音を立てた。


「梓がうちに来て、三ヶ月くらい経ったころだったかな」


美智子は、懐かしそうに目を細める。


「ある日、ホールでね、アルバイトの子が通路を歩いてたら、裾が何かに引っかかって、テーブルの料理を落としたって言い張る客がいたんだよ。

若いあんちゃん二人組。ちょっと粋がった感じでさ」


メイはフォークを持つ手を止めて、耳を傾ける。


「アルバイトの子が“すみません”って謝ったら、その客が“どうしてくれるんだ”“タダにしろ”って騒ぎ出してね。

でもさ、本当はその客が自分で落としたんだ。タイミング見て、わざと」


メイの目が少し見開かれた。


「でね、それを梓が見てたらしくてさ。スタスタ歩いていって、いきなりこう言ったんだよ」


美智子はグラスを持った手を少し上げた。


「“あんた、自分で落としたんだろ”って」


「……え」


「もう一触即発だよね。私はその場にいたけど、客が落としたところは見てなかったし。

これはやばいな、って思って間に入ったのよ。あいつ、顔こわばらせてさ――でも一歩も引かなかった」


美智子は少し笑って、ナッツをひとつつまんだ。


「そしたらさ、隣のテーブルにいたお客さん――六十歳くらいのおじさんが、ふっと声出してね」


「“俺も見てたぞ。あんた、自分で落としたよな。

あそこの防犯カメラに、ちゃんと写ってるんじゃないか?”」


「そう言って、丸い照明を指差したの。

……いや、それ、防犯カメラじゃなくて、ただのランプだったんだけどね」


思わず、メイがくすっと笑う。


「その瞬間、あんちゃんたち、急にしおらしくなってさ。“すみませんでした”って言って、お金払って帰っていったよ」


「かっこいいですね、そのおじさん」


「ね。実はその人、常連でね。梓の仕事ぶり、ずっと見てたらしいんだ。

あいつ、寡黙だけど丁寧に仕事するから、目立たなくても目に留まるんだよなぁ。

見てる人は見てる。ほんとにそう思ったよ」


美智子は、グラスを軽く揺らした。


「その一件以来かな、あいつが私の後ろ、くっついて歩くようになったのは」


「……え?」


「いや、物理的にって意味じゃないけどさ。なんとなく、懐いてくるようになって。

少しずつ、仕事のことを聞いてきたり、たまにぽつぽつ話すようになってさ。

梓の家庭のこととか、学校のこととか――

最初は全然喋らなかったけど、だんだん、ね」


語る美智子の声は、少し遠くを見つめるような、やわらかなものだった。


「そういえばさぁ」


ふと、美智子が笑った。

それは、どこかやさしい目をしている笑顔だった。


「ある日ね、休憩時間に、あいつが店に戻ってきたの。で、袋から何かゴソゴソ出してると思ったら、黒い鉄の棒みたいなのを何本も出してきてさ」


「……鉄の棒?」


メイが思わず聞き返すと、美智子は楽しそうに頷いた。


「そう。三十センチくらいの、黒いやつ。無骨でね。私は思ったよ。とうとうこいつ、武器買ってきたかって」


メイは吹き出しそうになって、あわてて手で口をおさえる。


「そしたらさ、“これ、ペグです。キャンプで使うやつ”って言って。

“キャンプとか、やるんだ?”って聞いたら、“はい、最近始めました”って」


グラスを見つめながら、美智子が小さく息をついた。


「なんか、ちょっと嬉しかったな。

あの子が何か新しいことを始めたってことが。

少しでも前に進もうとしてるのかなって。

……勝手な思い込みかもしれないけどね」


「……でも、わかる気がします」


メイは、そっと言葉を返した。


「そうか」


美智子が微笑み、またグラスに口をつけた。


「その少し後に、私が異動になったんだ。代官山のほうの店に。

で、気づいたら梓もルルポを辞めてた。

結局、二年くらいだったかな、一緒にいたのは」


ボトル棚の方に目をやりながら、美智子はぽつりとつぶやいた。


「最後まで、あの子が笑ったところ……見なかったなぁ」


その声には、どこか懐かしさと、少しの後悔が混じっていた。


「その後は連絡もしてなかったし、引っ越したって風の噂で聞いてさ。どこに住んでるのかも知らなかった」


再びメイの方を向いて、美智子は言う。


「だから、メイの口から梓の名前が出たとき、ほんとに驚いたよ。

あいつ、友達いなかったからさ……」


そこまで話すと、美智子はふっと笑った。


「……ごめん。ちょっと、話しすぎちゃったな」


そう言って、テーブルのナッツを、またひとつつまんだ。



「で、メイ、Rain交換したんだろ?」


「はい。で、レセプションに誘ったんですけど……」


メイはグラスを見つめながら、少し声を落とした。


「“ごめん、仕事で行けない”って返事がきて」


「うん。……梓はそういうの、苦手だからな」


美智子はそう言って、メイの顔をまっすぐに見た。


「でもさ。誘ってくれて、きっと嬉しかったと思うよ」


「……そう、ですかね」


メイの声は、小さく、まだどこか頼りない。


「Rainで“ごめん”って返してきたんだろ?」

美智子の声は、少しやわらかくなった。


「……あの子なりの、精一杯だと思うから」


メイは言葉を返せずに、カシスオレンジのグラスをゆっくり回した。

その中の氷が、カランと小さな音を立てた。


胸の奥に、何かがそっと灯る。

まだ言葉にはならない。

でも、そこにある。


それだけは、わかる気がした。


◇◇◇


バーを出たあと、美智子と別れて、家までの道をひとり歩く。


誘って、断られたのに。

それでも、美智子さんの話を聞いて――

梓ちゃんのことが、少しだけ身近に感じられた。


「……なんだか、ちょっと嬉しかったな」


夜風は少し涼しくなってきて、街灯の光が静かに歩道を照らしていた。


ここまで読んでくださってありがとうございます!

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