第48話 夏祭りと、ふたりの時間
夏の陽射しは、少し和らいでいた。
真上から照りつけるような暑さはなく、風が時おり、Tシャツのすき間を抜けていく。
お盆休みの最終日。
瀬原駅の改札前で、メイは小さな紙袋を両手で抱えるようにして立っていた。
中には、先日赤レンガ倉庫でのセールで買った浴衣と帯、それから詩音に言われて一緒に選んだ巾着や下駄も入っている。
(忘れ物ない?……大丈夫かな)
ちら、と袋の中を覗いて、メイは少しだけ不安になる。
帯ってこんなに細くていいんだっけ。タオルは何に使うんだっけ。そもそも、着付けって、どうやって……。
そんなことをぐるぐる考えていたら、背後から明るい声が飛んできた。
「メイちゃーん!お待たせーっ!」
手を大きく振りながら、詩音が階段の上から駆けてくる。
メイはほっとして、思わず笑みをこぼした。
◇◇◇
商店街に入ると、空気が少しだけ変わった気がした。
軒先に品物を並べたお店がいくつもあって、どこからか焼きそばの匂いとお囃子が混ざって漂ってくる。夏祭り会場が近いせいなのか、通りにはいつもより人が多かった。
「このへん、雰囲気いいね」
メイがそう言うと、詩音はにっこり笑って、
「でしょ? この商店街、けっこう頑張ってるんだよ」
そう話しながら歩いていたら、ふいに声がかかった。
「おっ、詩音ちゃん。今日は友達連れかい?」
声の主は、店頭に野菜をずらりと並べていた八百昌の店主。
Tシャツにハチマキ姿の、元気なおじさんだ。
「うん、今日はこの子とお祭り行くの」
「そりゃまた、おめかしして……あっ、いらっしゃい〜!」
途中で他のお客さんに気づいて、すぐに接客モードに入るおいちゃん。
「おいちゃん、またね〜!」
と、詩音は手をひらひらと振った。
「いつも、ああやって声かけてくれるんだよ。あのお店の社長さん」
メイはなんだか感心して、うん、と小さくうなずいた。
さらに進むと、今度は酒屋の店先で、小さな試飲コーナーができていた。
「詩音ちゃん、今日はお祭り行くの?」
そう声をかけてきたのは、酒屋の社長さんの奥さんらしい女性。明るくて、どこか肝っ玉母ちゃん風。
「うん、あとで行くよー」
「そう、楽しんできてね」
「おばちゃんも、がんばって〜!」
元気に手を振る詩音。
メイは黙ってそのやりとりを、そっと見ていた。
(詩音の……地元コミュ力、ハンパない)
なんだか、自分がまったく別の世界にいるような、不思議な気持ちだった。
———
商店街を抜け、ゆるやかな坂道を上っていくと、周囲は次第に住宅地へと変わっていった。
「詩音のおばあちゃん家って、ここから遠いの?」
メイがたずねると、詩音は軽く振り返りながら言った。
「もうすぐだよ。おばあちゃんち、私の家の隣なの。二世帯住宅なんだ」
「へえ、そうなんだ」
(おばあちゃん、どんな人なんだろう……)
メイの胸の中に、小さな緊張が芽生える。
けれど、それを包むように風が吹いて、木陰に揺れる見知らぬ家の洗濯物の音が、ささやかに和ませてくれる。
「ほら、あそこの建物だよ」
詩音が指さしたのは、ブラウンの外壁が印象的な二階建ての家。
玄関がふたつ並び、その前には小さな庭と車が二台。左が詩音の家で、右がおばあちゃん家らしい。
その庭先で、ひときわ活動的な姿が目を引いた。
短パンにTシャツ、髪をラフに結んだ女性が、泡だらけの犬を洗っている。
「お姉ちゃん、ご苦労さま!」
詩音がそう声をかけると、女性――姉の歌音が顔を上げた。
「当番制だからね、仕方ないでしょ」と、ややヤケクソ気味。
泡まみれのチワワは、詩音を見つけるとワン!とひと声鳴いたが、気持ちよさそうにその場から動かない。
「こちら、私の友達の平瀬メイちゃんだよ、チワワ!」
詩音が満面の笑みで紹介する。
「……先にチワワかいっ!」
歌音が即座にツッコミを入れる。
「えっ、このわんこがチワワ……?」
チワワにしては大きめな雑種犬を見て、困惑するメイ。
「うん。子犬の時、ちっちゃかったからチワワって名前にしたんだよ!ねー、チワワ!」
「ワン!」
——いい返事だ。
「そうなんだ……」と、メイは苦笑い。
「じゃ、私、浴衣取ってくるね!」
そう言って、詩音は自宅側の玄関へ駆けていった。
取り残されたメイと歌音。しばしの間のあと、歌音が口を開く。
「……あの子、迷惑かけてない? うるさくなかった?」
「い、いえ、そんなこと……」
メイは少し緊張気味に答える。
「……ああ見えて、案外、繊細だからさ。あの子」
その声は、意外なほど柔らかくて、優しかった。
(……お姉ちゃん、詩音のこと、ちゃんと見てるんだ。なんか、いいな、そういうの)
そんなふうに感じた時、ふっと緊張がほどける。
「私、姉の歌音。よろしくね、メイちゃん」
笑顔で差し出された言葉に、メイも小さく笑って答えた。
「はい、こちらこそ……」
◇◇◇
「おばあちゃーん、来たよー!」
詩音が玄関を開けて、顔だけひょこっと覗かせる。
奥からゆっくり歩いてきたのは、小柄で華奢な、でもどこか芯の強さを感じさせるおばあちゃんだった。
「あらあら、いらっしゃい。そちらがメイちゃんね? よろしくねぇ」
「よ、よろしくお願いします……」
メイは背筋を伸ばしながら、ぺこりと頭を下げる。肩にかけた浴衣の袋が少し揺れた。
「さ、遠慮しないで。どうぞあがって、あがって」
詩音と一緒に玄関をくぐると、リビングの奥では、おじいちゃんがのんびりテレビを見ていた。画面には旅番組。いつの間にか、富士山が映っている。
「あ、おじいちゃん」
詩音が手を振ると、おじいちゃんもにっこり笑う。
「こないだは、テントごめんね〜」
「なんのなんの。かえって、すまんかったのう」
「テント?」とメイが首をかしげる。
詩音が笑って振り返る。
「うん、こないだもらったんだけど、雨漏りひどくて返しちゃったんだ〜」
「えぇ……そんなことが」
メイの表情に、ほんのり驚きがにじむ。
「はいはーい、じゃあ殿方は退室してくださいまし〜」
軽やかな声とともに、おばあちゃんが手をひらひらと振った。
「おお、そうじゃった。じゃあ、ちょいと散歩でも行ってくるかのう」
そう言って、おじいちゃんは帽子を手に取り、のんびりと玄関を出ていった。
「さて、それじゃあ着付け、始めましょうか」
おばあちゃんがくるりと振り向く。
「二人とも、少しは手伝ってもらうからね」
「はーい!」と詩音が元気よく返し、
「えっ、わたしも……?」とメイが小さく目を丸くした。
◇◇◇
午後五時すぎ。
日が翳りはじめて、夏らしい風の匂いは少しだけ落ち着きを取り戻してきた。
夜の気配が少しずつ滲みはじめ、浴衣のすそが風に揺れていた。
浴衣姿のメイと詩音は、神社の鳥居をくぐる。
境内にはもう人がたくさん集まっていて、真ん中には赤白の幕で囲まれた櫓が立っていた。
太鼓の音がドン、ドンと響いて、そのたびに、地面から空気がふるえるような気がする。
笛の音が重なり、盆踊りの曲が、夏の空気に混ざっていく。
「うわぁ、すごい人だね」
詩音が、ぱっと顔を明るくする。
「うん……」
メイは少しだけ戸惑いながらも、その賑わいに自然と笑みがこぼれていた。
人混みは得意じゃない。
だけど、今日は――ちょっとだけ、違う気がした。
境内を通り抜けて、公園のほうへ足を向ける。
そこにはまた違った熱気が広がっていた。
ベビーカステラの焼ける甘い匂い。
たこ焼きのソースの香り。
チョコバナナ、フルーツ飴、くじ引き、光るおもちゃ……
ずらっと並んだ屋台のテントには、裸電球がぶらさがっていて、浴衣の色や髪飾りをふわりと照らしていた。
屋台の向こうには、簡易なステージがあって、今はのど自慢大会の真っ最中。
「エントリーナンバー六番〜!」という司会の声に続いて、やや緊張したおじさんの歌声が流れてくる。
「……なんか懐かしい感じがする」
メイが、少し小さな声でつぶやいた。
肩にかかる浴衣のやわらかい重みと、下駄がアスファルトを叩く控えめな音。
襟足をすり抜けていく風が、どこか甘くて、心地いい。
焼きそばの匂い、ざわざわした人の声、きらきらした灯り――
それらに囲まれて歩いていると、なんだか理由もなく、気持ちがふわっと浮かびあがってくる。
「メイちゃん、金魚すくいやろっ!」
詩音が、ぱっと前を指さす。
その先にあったのは、大きなビニールの水槽を置いた金魚すくいの屋台。
赤や白、黒や橙……いろんな模様の金魚たちが、光の中をゆらゆらと泳いでいた。
「私ね、けっこう得意なんだよ、これ」
ちょっと得意げに、腕まくりをする詩音。
「……やろっか」
メイは、思わず笑ってうなずいた。
歩き出すと、浴衣のすそがふわりと揺れて、気づけばさっきよりも少しだけ歩幅が広くなっていた。
⸻
「あー、破れちゃったー!」
ぷすりと穴の開いたポイを見て、詩音が本気で悔しそうな顔をする。水面に逃げていく金魚たちは、どこか誇らしげだった。
「残念だったね、お嬢ちゃん」
金魚すくいのおじさんが、うれしそうに笑って言った。どうやら今日も絶好調らしい。
「こっちは……お?」
その横で、静かに、しかし着実にポイを動かしているメイの姿。
水面に影を落とさないように、そっとすくい、ふわりと持ち上げる。
ぽちゃん、と音も立てて、金魚がどんどん赤いプラスチックのお椀に収まっていく。
「メイちゃん、すごっ!」
詩音が穴の開いたポイ片手にそう叫んだころには、メイのお椀の中には赤と白の金魚が、五匹、ひらひらと泳いでいた。
「そんな特技があったなんて…!」
「いや、たまたま。私もびっくりしてる」
二人で顔を見合わせて笑う。水の音と、金魚の尾びれのきらめきが、夕暮れに溶け込んでいく。
ふと、ぷーんとソースの匂いが漂ってきた。
「焼きそばの匂いだ……」
詩音が小さくつぶやく。
「うん、お腹すいてきたね」
言いながら、メイもお腹を押さえた。
「よし、焼きそば行こっ!」
「賛成!」
金魚の入ったビニール袋を手にぶらさげて、二人は揃って屋台の並ぶ通りへ歩き出した。
◇◇◇
焼きそばを堪能したあと、リンゴ飴をゲットして歩いていたふたり。
「このパリッパリ感、たまんないんだよね〜」
詩音がかじったリンゴ飴から、心地よい音が弾ける。
「……なんか、食べるの、もったいないね」
メイは包まれたままの飴玉を眺めながら、小さく笑った。
そんなときだった。
ふと視界の端に、小さな女の子が立っているのが見えた。
浴衣姿で、顔をこわばらせたまま、人混みの中をきょろきょろと見回している。
「……あの子」
メイが立ち止まると、詩音も気づいて、隣に並んだ。
「迷子、かな?」
女の子のそばに歩み寄る。
「どうしたの?」と詩音が優しく声をかけた瞬間、見るみる涙があふれて、とうとう女の子は大声で泣き出した。
「ママーっ!!」
突然のギャン泣きに、詩音はオロオロ。
「えっ、わ、私なんかした!?」と後ずさる。
メイはしゃがんで、目線を合わせた。
「……ママ、いないの?」
「どこに行っちゃったのかな……いっしょに探そうか?」
けれど、女の子は何も答えず、「ママ〜〜!」と泣き続ける。
詩音も、女の子の横にしゃがみ込んだ。
「どこ行っちゃったんだろうね〜ママ」
それでも女の子は泣き続けてる。
「メイちゃん、ちょっと見てて。私、探してくる」
詩音はすくっと立ち上がり、人混みの中に消えて行った。
「すぐ、ママ来るからね」
メイの言葉も、ギャン泣きの女の子には無力だった。
メイは何気なく、そっと女の子の背中に手をあてた。そして、手に持っていたりんご飴を女の子の前に差し出す。
「ほら、泣かないで。……食べる?」
そう言葉がこぼれた瞬間。
頭の中に、ある光景が飛び込んできた。
(私も小さい頃、お祭りで泣いていたとき、リンゴ飴をもらった。
背中をそっとさすりながら、優しくかけてくれた言葉……。
『……ほら、泣かないで。食べる?』
そう、あれは、お母さんから……)
ハッと我に帰ると、女の子はしゃくりあげながら、リンゴ飴を見つめていた。
しばらくの間のあと、小さくうなずく。
メイはやさしく飴を手渡した。
「はい、どうぞ」
女の子は飴の棒をぎゅっと握りしめた。
「ありがとう……」
ぽつんとこぼれたその言葉に、メイの胸がじんわりと温かくなる。
「おいしい?」
「……うん」
しゃくりあげながらも、少しだけ笑ったその顔は、もう泣き顔じゃなかった。
そこへ、詩音がひとりの若い女性を連れて戻ってきた。
女性は女の子を見ると大きな声で叫んだ。
「あ、まりちゃん!」
「ママーーっ!!」
女の子は駆け寄って、その女性の足に抱きついた。
「ありがとうございます、本当に……!」
深々と頭を下げる女性に、ふたりも「いえ……」と小さく笑った。
そのとき、メイはふと、自分が持っていた金魚すくいの袋を見て言った。
「よかったら、これも……」
女の子は目を輝かせた。
「かわいー! ありがと、お姉ちゃん!」
手をつなぎ、にこにこ笑いながら去っていく親子。
「バイバーイ!」と女の子が振り返って手を振った。
「……メイちゃん、子どもの扱い、うまいね」
「え? いや、そんなこと……」
メイは目を伏せて、小さく笑った。
「でも、いま思い出したんだ。小さい頃、私も同じように迷子になったこと。
その時も、リンゴ飴をもらったの……お母さんから。
その時のお母さんの顔、思い出せないんだけどね…」
詩音は、隣で静かにうなずいた。
「……お盆だから、かな」
その時、ドーンと夜空に大きな花火が開いた。
一発、二発。夜空を鮮やかに染めながら、次々に広がっていく。
「わぁ、きれい……」と詩音が言う。
「うん、すごく」メイも小さくうなずいた。
周りの人たちの歓声が、胸の中まで響いてくる。そのままふたりは、夜空の花火に引き込まれていった。
胸の奥に、夏の夜のきらめきが、静かに刻まれていく。
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