第47話 詩音のテント狂想曲
お盆休み三日目の朝。
空はどんよりしていて、ジリジリした夏の陽射しも今日はひと休み。
そんな中、髪ぼさぼさ・Tシャツしわしわの詩音が、寝ぼけ顔でリビングにふらりと現れた。
「……ねむ」
昨夜、メイにすすめられた『ゆるキャン△』を観はじめたら止まらなくなって、気づけば寝落ちするまでスマホを握ってた。
リビングには、珍しく父がいた。
大きなテレビの前にどっかりと座り、動画配信サービスの"T-REX"で『ミッション・インポッシブル3』を観ている。
「トムは朝に限るんだよ。爽快だから」
父は画面に目を向けたまま、自然にそう言った。
——朝からトム・クルーズって、どういうテンション?
お父さんの名前は、小豆沢壮太。
全国を飛び回るチューバ奏者で、いつも地方公演やレコーディングばっかり。
だから午前中に家にいるのって、けっこうレア。
でも本人は、びっくりするほどインドア派で、映画とアニメと車の話になると、なぜか語り出すタイプ。
詩音はソファの背にもたれて、軽く目をこすりながらうなずいた。
「おはよう、詩音」
「んー、おはよ、お父さん」
テレビの音に混じって、麦茶のグラスがテーブルに置かれる音がした。
テーブルでは母の裕子が、無言でスマホをいじっている。
詩集が何冊も売れてた時期もあったポエム作家だけど、今は投稿やキャッチコピーの仕事でほどほどに。
スマホ画面には、猫が変な顔してる動画が流れてる。
——あいかわらず、詩人感ゼロ。
そのとき、階段をトントンと下りてくる音。
「……お姉……」
詩音がつぶやく間もなく、お姉ちゃんがしゃべりだす。
「あんた、夜中にデカい声でキャンプ!とか富士山!とか叫んでて、うるさいんですけど!」
——昨日のメイちゃんとの電話、聞かれてた?
「え? 盗聴?」
「なわけないだろ!あれだけデカけりゃ、壁も筒抜けだわ」
「デヘヘ」
——こういう時は、笑ってごまかすに限る。
「しかし、あんたがキャンプ? 似合わないわね」
「楽しいよ、キャンプ」
——いや、まだ行ってないけどね!?
そこ、突っ込まれませんように。
三歳年上のお姉ちゃん。あ、小豆沢歌音って言うんだけど、地元の区役所勤めで、外ヅラはいいけど妹にはわりと厳しめ。
……でも、嫌いじゃないよ。いろいろ私のこと心配してくれてる。たぶんね。
そしてもうひとり……じゃなくて、もう一匹。
我が家のマスコット、愛犬チワワ!いつも私を見ると突進してくるけど……いまは朝ごはん中。
どうりで静かなわけだ。
冷たい麦茶を一口飲んでから、詩音は父に聞いてみた。
「ねぇ、お父さんってさ、テントとか持ってたりする?」
「俺? ないよ。インドアだし」
「……知ってた」
「でも……お父さん、母さんのな。あの人、昔は山登りやってたって言ってたから、もしかしたらあるかもな」
「ほんとに!? おじいちゃん、神!」
ぱぁっと目を輝かせる詩音に、父がちょっと笑う。
◇◇◇
「おじいちゃん家にテントあるかも」って言われたら、行くしかないでしょ、それはもう。
詩音はサンダルをつっかけて、二世帯住宅のもう一方――おじいちゃんとおばあちゃんの家へ向かった。
玄関先のインターホンを押すと、ほどなくしてガラッと引き戸が開く。
「おや、詩音ちゃん。おはよう」
出てきたのは、おばあちゃん。やわらかい笑顔と、お気に入りの藤色のエプロン。
「おはよ、おばあちゃん! おじいちゃんいる?」
「うんうん、ちょっと待っててねぇ」
奥のほうから「ほ〜、詩音来てるんか〜」と声がして、数秒後、ニコニコ顔のおじいちゃんが現れた。
詩音はこの人の怒った顔を、見たことがない。
「どうした、詩音。めずらしいな、朝から」
「ねえねえ、おじいちゃんってさ、テント持ってなかった?」
「テント?……ああ、あれか。十五年くらい前に買ったやつがあったかもなあ。確か、物置に……」
言いかけたところで、詩音の目がキラリと光る。
「探そっ!」
「え、いま?」
「いま!」
おじいちゃんは苦笑しながらも、「じゃあ行こうか」と縁側のサンダルをつっかけた。
物置は家の裏手、小さな庭を抜けた先にある。
小さい頃、かくれんぼでよく使ってた、ちょっと懐かしい空間。
ぎぃ、と重たい扉を開けて、懐中電灯のスイッチを入れる。
「このへんだったかな……」
おじいちゃんはガサゴソと物置の中を探していると——
「……あった! これだな」
出てきたのは、くすんだ緑色の収納袋。
うっすらホコリは積もってるけど、布はちゃんと張りがあって、ロゴも読み取れる。
「一回だけ使って、それっきりだったかなあ。キャンプ場でバーベキューやったときにね」
おじいちゃんが袋を渡してくれる。
詩音は両手でそれを抱えて、じーっと見つめた。
ほんのり土と日焼けのにおいがする、くすんだ緑色の生地。触れるだけで、なんかワクワクする。
「え、これ、借りていい? ていうか、もらってもいい?」
「うんうん、持ってっていいよ。詩音が使うならうれしいさ」
詩音の顔がふにゃっとほころんだ。
そして、ふと何か思いついたように、顔を上げた。
「これ……立ててみてもいい?」
「よし、じゃあ庭に張ってみるか!」
◇◇◇
「んーと、これは……ポール、どっちが長いんだっけ?」
おじいちゃんが説明書を広げて、首をひねっていた。
「いやあ、忘れちゃったなあ、これ……」
なんて言いながらも、手つきは案外しっかりしている。詩音もポールを持ったり、布を引っ張ったりして手伝った。
テントがぐんと立ち上がった瞬間、思わず声が出た。
「おおおーっ!」
なんでもない場所に、ぽつんと現れた“自分だけの空間”。
詩音はその存在に、小さく感動していた。
そのとき、縁側の奥から、おじいちゃんを呼ぶおばあちゃんの声が聞こえた。
「よし、ちょっとばあさんに呼ばれたから、行ってくるな」
「うん、ありがと! あとでね!」
おじいちゃんが家の中に戻っていくと、詩音はそっとサンダルを脱いで、テントの中に足を踏み入れた。
中は少しカビっぽい匂いがしたけど、許容範囲。それよりも、外と切り離されたようなこの空間が、ちょっとした秘密基地みたいで、たまらなく落ち着く。
「これが……テントかぁ」
仰向けに寝転ぶと、天井の布がやわらかくたゆんでいる。
うつ伏せになって、あごに手をのせたまま、前室の入口から外を眺めてみる。
——ここに富士山がドーンって……きたら、最高じゃない?
想像しただけで、浮かれた笑いが込み上げてきた。
そのときだった。
「……ポツ……ポツ……」
天井を叩く音がした。
すぐにそれはリズムを速める。
「あっ、ちょ、えっ、うそ」
一瞬で、庭が白く煙るほどの大雨に変わった。
テントを叩く雨音が激しく反響して、外の世界がどこか遠くに感じられる。
「ゲ、ゲリラ豪雨ーっ!?」
テントの外、家はすぐそこなのに、これじゃあ戻れない……
とりあえず、外に出していたサンダルを引っ張って中へ入れた。
——そのとき。
ぴちっ。
額に冷たいものが当たった。
「……ん?」
見上げると、テントの天井の縫い目から、じわじわと水が染みている。
「わ、うそ……!」
それだけじゃなかった。
よく見ると、小さな穴もいくつか開いていて、そこからもぽたぽた、ぽたぽた……
気づけば、テントの床にも水が溜まりはじめていた。
「えぇ~~……なにこれ、どうしよう……」
詩音は顔をしかめて、テントの隅に体育座りをした。
夢のテント生活は、わずか10分程でびしょびしょになった。
◇◇◇
リビングの扉を開けた詩音は、全身びしょびしょだった。
ソファでは、父・壮太が大画面でアニメを見ていた。
内容はよく分からないけど、メカっぽい女の子が戦っていた。
「……どうしたんだい、その格好は」
「テント。せっかくおじいちゃんがくれたのに、穴とかあいてて、雨漏りして……濡れた」
———
「……ああ、そりゃ15年モノじゃ、仕方ないな」
着替え終わった詩音から、ことの顛末を聞いた父・壮太が笑いながら言った。
「うぅ……ありがとうって返すことにする」
父はしばらく考え込んで、ぽつりと言った。
「あ、そうだ。浩太、持ってるかもな。テント」
「え? 浩太おじちゃん?」
「前に、キャンプ行くとか何とか、言ってたような……聞いてみようか」
スマホを取り出して、連絡先をタップ。
すぐに浩太おじさんにつながる。
『よう。どうした? あー、うん、……詩音が。……へぇ……テント? うん、テントあるよ』
スピーカーモードで聞いていた詩音は、ぴょこんと反応した。
『……今もう使ってないし、あげてもいいよー』
まるでバブルヘッド人形のように、思いっきり首を縦にふる。
『…ただなあ、俺、明日から2ヶ月ほど海外なんだよね。出張で』
「えぇっ」
父が詩音の方をちらりと見る。
「どうする? 待つか?」
「……」
(待ってもいいけど……でも2ヶ月って……結構長い……)
言葉に迷っていると、父が察したように言った。
「じゃあ今から、取りに行っていいか?」
詩音は、思わずパッと顔を上げた。
『おう、全然。待ってるよー』
詩音は、電話を切った父を見た。
「いいの!?」
「いいさ。今日はもう、ミッション・インポッシブルも見終わったしな」
「それ関係ある!?」
ふたりの笑い声が、夜のリビングにひとしきり響いた。
◇◇◇
叔父・浩太の住む隣町に向けて、国道を走る父のアウディSQ5。
詩音は助手席でテキトーに鼻歌をうたいながら、ゆるキャン△のオープニングを思い出していた。
「どうして急にテントなんだ?」
「えっとね……昨日の夜、ゆるキャンってアニメ見たの」
「お、ゆるキャンか。あれ見たら、キャンプ行きたくなるよな」
「え、お父さん知ってるの?」
「ああ、ひと通り見たよ。なでしことか、可愛いよな……」
「ふふ、なんか、わたしと似てるかも」
「なでしこの方がしっかりしてるぞ」
「えー、そんなことないもん!」
車内に、ふたりの笑い声がまたふわっと広がった。
◇◇◇
車が停まると、インターホンを押す前にガチャッと玄関が開いた。
「おー、兄さん、詩音ちゃん、久しぶり!元気そうじゃん」
浩太おじさんは、Tシャツにジャージ姿。髪がちょっと寝ぐせ気味。
でもその手には、紺色の細長い収納袋。
「はいこれ、テントね。2年前に買ったんだけど、使ったの1回しか使ってないから、たぶん状態はいいよ」
「わ、ありがとう!ほんとに貰っちゃって、いいの?」
「うん、俺もうキャンプ行かねーし。詩音ちゃんが使ってくれた方がテントも喜ぶよ」
テントの袋を、ポンと手渡しで渡してくれた。
「……けっこう軽い?」
「まあな。2人用だけど、ソロで使うとちょうどいいサイズ」
「へぇ〜」
「張るのも簡単。月明かりの中でも設営出来るってやつだから。
ポール2本でインナー立てて、上からフライかぶせるだけ」
「……ふ、ふらい……?」
「外側の布。雨除けの。で、ペグはこの袋ん中。ガイロープも入ってるけど、正直、最初は張らなくていい。風なきゃ飛ばない」
「え、うん。……なんか、すごいね」
(……え、なにその呪文みたいな単語……)
「あとこれ、通気性もまあまあ良くて、結露はそこそこ抑えられるけど、完璧ではないから、インナーの天井ちょっと触るとぬれてることあるかも」
(ちょ、ちょっと待って、ぜんぜん追いついてない……!)
おじさんがしゃべってる間、詩音はずっと「へえ」とか「はあ」とか「うん」を繰り返すだけだった。
でも、ぜんぜん悪い気はしない。
なんか、自分もキャンプする人になれた気がして、ちょっとうれしかった。
「ありがとう、ホントに! 大事にする」
「おう。まあ無理せずな。張り方わかんなかったら写真送ってきな」
「わかったー!」
抱きかかえた収納袋。
紺色のナイロンに白いmont-Lellのロゴ。
中身はまだ見えないけど、ちゃんとテントっぽい匂いがした。
◇◇◇
その夜。詩音の部屋。
ベッドの上に寝転んで、部屋の隅の棚を見上げていた。棚の上には、さっき貰ってきたテントの収納袋。紺色のその袋が、うす暗いライトの中で、なんとなく「冒険の道具」みたいに見えた。
——あのテント。建てたら、どんな形してるのかな……
ぼんやり考えてると、昨日の夜に見た『ゆるキャン△』のワンシーンがよみがえってきた。
本栖湖の向こうに夜の富士山……
「なんか、いいな……」
詩音はふふっと笑って、寝返りをうった。
「……キャンプ、行ってみたいなぁ……富士山ドーン……」
そのまま、まぶたがふわりと落ちた。
◇◇◇
詩音が眠りについた頃。
書斎の灯りは、まだ消えていなかった。
小豆沢裕子は、ペンを握ったままパソコンの画面を見つめていた。
言葉がまとまらず、ページを行きつ戻りつするだけの時間がしばらく続いていた。
机の端で、スマートフォンが震えた。
着信画面には"麗佳"の文字……
裕子は、少しだけためらってから、通話ボタンに触れた。
「……電話なんて珍しいじゃない」
「……ああ、ちょっとね」
「そういえば、詩音のこと、ちゃんとお礼を言っていなかったわね。ありがとう」
「いや、いいんだよ。頑張ってるみたいだし」
「新店舗の方はどうなの?」
「順調だよ。明日にもオープンできるぐらいに」
裕子は、窓の外に目をやった。
カーテンの隙間から、街灯のオレンジが細く差し込んでいる。
「……そう。きっと、カナエも喜んでるよ」
電話の向こうで、少しだけ空気が揺れた気がした。
「そうだといいんだけどな。直接言ってこないしな」
「……そうね」
ふたりの間に、わずかに沈黙が落ちる。
「じゃあ、また連絡する」
「ええ」
通話が切れる。
裕子はスマートフォンを伏せて、背もたれに身をあずけた。
ため息ともつかない吐息が、ひとつこぼれる。
短い沈黙のあと、もう一度、そっとペンを手に取った。
書きかけの言葉たちが、ゆっくりと息を吹き返していく。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




