第46話 ルルポの記憶
音は、思いついたようにぱっと笑顔になり、振り向きざまにメイに言った。
「じゃあ、ルルポ、行ってみない?」
「ルルポって……前に、詩音が働いてた?」
「うん。近くまで来たし…ちょっと行ってみたくなっちゃった」
詩音は前を向いて、ちょっとおどけた口調で続けた。
カフェ・ルルポ ド ニーチェ——
その名前を聞いて、メイはふと頭に浮かんだのは、広瀬梓のこと。
デイキャンプで出会った、あの静かで頼もしくて、どこか切ない人。
(詩音も、梓ちゃんも、働いてた場所かぁ……)
「…私も、いってみたいな」
そう言うと、詩音は振り向いてニコッとした。
「よっし、決定ーー!」
いつもの元気な声が、ビルの間でこだました。
◇◇◇
細い道を抜けると、馬車道の路地に面した小さなカフェが見えてきた。
アイアンの看板には、変わらず「Le Repos de Nietzsche」の文字が揺れている。
「うわ……やっぱり懐かしい」
そう言った詩音の声が、ふいに少しだけ緊張を含む。
「……どうしたの?」
「いや……なんかね。働いてた時は、慣れすぎて何も思わなかったのに、
一度離れると、こう……ちょっと入りづらいっていうか」
「あれ〜?あんなに元気だったのに」
「やめてー、それ言わないで」
ふたりで顔を見合わせて、苦笑した。
そのときだった。
「ありがとうございましたー!」
店のドアが開き、ちょうどお客さんを見送っていた女性スタッフとばったり目が合う。
「……え、詩音!?」
「え、瑞稀ちゃん!? ちょ、なんでここに!? え、来たの!? え、なんでぇー?」
「いや、私が聞きたいってば!」
そんな瑞稀のツッコミに笑いながら、ふたりはその場で軽くハグを交わした。
◇◇◇
瑞稀の髪は以前より少し明るくなっていて、でも雰囲気は全然変わっていない。
「今日ね、店長と千秋はお休みだけど、私は早番だったから……ある意味、運命的出会い?」
「そうかも……ってか、ルルポ、こんな感じだったっけ?何か変わった?」
「変わったよ。詩音がいなくなって、落ち着いた気品のあるお店に生まれ変わりました〜」
「なにそれー。私がなんかうるさいみたいじゃん!」
「何かご異存でも?」
吹き出す二人、それに微笑むメイ。
詩音が笑って、メイの方を振り返る。
「紹介させて。こっちは、いまラフォーレで一緒に働いてる平瀬メイちゃん」
「はじめまして、平瀬です。……あの、正確にはオープンのお手伝いを、させてもらってます…」
「はじめまして! 私は瑞稀って言います。こちらこそ、よろしくね!」
メイがぺこりと頭を下げると、瑞稀もにっこりと笑って応えた。
◇◇◇
カフェの中は、ランチタイムが一段落したばかりの静けさに包まれていた。
「こんな時間に誰もいないなんて、珍しいかも」
詩音がそうつぶやきながら、窓際のテーブルに腰を下ろす。
メイも静かにそれに続いた。
「ちょっと奥、行ってくるね。祥子さん、まだいるらしいから、挨拶してくる」
「うん、行ってらっしゃい」
詩音が奥へと姿を消す。
メイはひとり、カフェの中を見渡した。
黒を基調にした落ち着いた空間。
穏やかなジャズが流れ、照明の光が木の床にやわらかい影を落としている。
コーヒーと焼き立てのパンの香りが、静かな空気の中にふわりと漂っていた。
(……ここで、詩音も、梓ちゃんも、働いてたんだ)
思わず、そっと椅子の背もたれに身をあずけた。
ついこの前までは、私がカフェで仕事をするなんて思ってもみなかった。
それが、ラフォーレのおかげで、詩音と知り合えた。
そして、その詩音がもといた場所で、梓ちゃんも働いていた……
(なんだろう、この感じ……)
ふと、草薙社長のあの言葉が、心の中に浮かぶ。
『この店が、誰かのきっかけになる場所になれたら。そう思っています』
「きっかけ、か……」
静かな店内で、その言葉が、やけにリアルに響いた。
◇◇◇
オーダーした食事が運ばれてくると、ふたりは一気に無口になった。
メイはチーズがとろけるオムライス、
詩音はチキンとアボカドのサンドプレート。
あまりにお腹が空いていたせいで、思わずスプーンが止まらない。
言葉を交わさないまま、口に入れて、頷いて、また口に運ぶ。
(……これ、おいしい……)
メイがそう思ったころ、ようやくふたりの手が止まった。……完食。
「ふぅ〜……生き返った〜!」
詩音がサンドイッチの皿を前に、腕を伸ばすように背中をそらす。
「やっぱり、ルルポ、いいな〜」
「美味しかったね」
テーブルに運ばれたコーヒーの香りが、さっきまでの空腹感を溶かしていく。
ふたりはカップを手に取って、ふぅ、と揃って息を吐いた。
「そういえばさ!」
詩音が言った。
「前に言ってたキャンプ。……行ってきたんだよね?」
メイは少し驚いたように目を見開いて、それからうなずいた。
「うん。デイキャンプだけどね。ひとりで」
「ひとりでって、すごくない?」
「ううん、全然。ドタバタだった。荷物も重かったし、火もうまくつかなくて……
でも、自然の中でじっとしてる時間があって、なんか……よかった、かな」
「あの"風のあとを、歩く"に出てくるみたいな?」
自然豊かな風景を集めた写真集……
「詩音、あの本、好きだもんね。あそこまで本格的な場所じゃなかったけど……でも、少し近かったかも」
「ほえ〜。なんか、それだけでちょっと行ってみたくなってくる」
詩音がくるくるとコーヒーのスプーンを回す。
「デイキャンプの写真、あるよ。見てみる?」
「見る見る!」
メイがスマホを取り出して、アルバムを開く。
画面に広がるのは、川の向こうの山々の緑が綺麗な、河川敷の開放感あふれるキャンプサイト。
小さな焚き火台と、色鮮やかなテントが映っていた。
「うわ、すご。……あ、これ、メイちゃんスマイル、全開だ!」
「えっ、そんなに笑ってる?」
「めっちゃ自然な笑顔。いいな〜。
あ、これ、お隣さん?」
詩音が指差したのは、木陰に張られたベージュのワンポールテント。
「あっ、そうそう。この時、ちょっとしたきっかけがあって」
メイが少し照れたように笑う。
「近くにいた、ひとりのキャンパーさんとちょっと話して。
すごく慣れてて、いろいろ教えてもらったの。……焚き火も、その人がいなかったらできなかったかも」
「へぇ〜。どんな人だったの?」
「うーん……かっこいい女の人だったよ。クールで、無駄なこと言わないけど、すごく丁寧で……
目がね、なんていうか……遠くを見るような感じで……」
思い出しただけで、あのときの胸の高鳴りが少し蘇った。
詩音の表情が一瞬だけぴたりと止まる。
「え、それって……メイちゃん、そっちの人だった?」
「えっ? あ、ちが……いや、ちょっと違うんだけど……」
言葉を濁したメイの頬が、じんわりと赤くなっていく。
「ふふん、いいのよメイちゃん。今は多様性の時代だから」
「はぁ……」
詩音のからかうような笑みに、メイは思わずため息をついた。
———
コーヒーをひと口飲んで、メイが少し間を置いて話を戻す。
「……その人ね。広瀬梓ちゃんっていうんだけど」
「梓……ちゃん?」
「この前ちょっと話してて分かったんだけど、なんか昔――4年くらい前に、ここ、ルルポでバイトしてたことあるらしいんだって」
「え、ホントに!?そんな偶然ある?」
「びっくりだよね。瑞稀さん、知ってるかな?」
「ちょっと聞いてみよっか!」
詩音が席を立って、レジカウンターの奥にいる瑞稀を手招きをした。
———
瑞稀は首をひねりながら話す。
「ごめーん、私、その頃、まだこの店いなかったんだよね。
でも祥子さんなら知ってるかも。あの人、ルルポの古株だから」
詩音は「ちょっと聞いてみる」と軽やかに奥へ。
残されたメイは、瑞稀に小さく頭を下げた。
「なんか、お手数かけてすみません……」
「全然いいよ〜。っていうか、私もちょっと気になってきた」
数分後、詩音が戻ってきた。
「残念〜。祥子さん、その頃には別店舗だったらしくて。
でも、美智子さんがこの店にいたのは確実らしいよ」
「そっか……」
それだけでも、なにかが繋がった気がした。
「なんか、こうやって話してると、不思議だよね。
メイちゃんがラフォーレで、私がルルポで、梓ちゃんもここで。
うちのカフェ、すごい引き寄せ力ない?」
「……あるかも」
詩音も同じこと言ってる……
ふたりの笑いが、昼下がりの店内にふんわりと溶けていった。
◇◇◇
夕方。陽が少し傾きはじめた頃。
ふたりは横浜駅で乗り換えて、相鉄線に乗り込んだ。
空いていた車内のロングシートに並んで腰を下ろす。足元には大きなサマーセールの戦利品たち。
揺れの少ない電車に、心なしか体までほぐれていくような気がした。
「なんか……いっぱい遊んだよね、今日」
「うん。ほんとに」
「セール行って、カフェ行って、写真見て……夏休み、満喫って感じだった」
詩音が窓の外を見ながら、ふわっと笑う。
しばらくして、メイが思い出したように口を開いた。
「……そうだ。詩音、“ゆるキャン”って知ってる?」
「……あ、聞いたことある!題名だけだけど。
あれって、キャンプのアニメだよね?」
「うん。私、それ見てキャンプに興味持ったんだ。
キャンプって、もっとアウトドア上級者しかできないと思ってたけど、
それ見たら、“あ、私でもやっていいんだ”って思えたんだぁ…」
「へえ……それ、ちょっと見てみたいかも」
電車が駅に近づいて、車内アナウンスが流れる。
「ゆるキャン、見てみるね」
「……うん、見てみて」
電車がゆっくりと停車し、詩音の降りる瀬原駅に到着した。
「じゃあ、またね」
「また」
詩音が立ち上がり、扉が開く直前、軽く手を振ってホームへ降りていった。
メイはその背中を、静かに見送った。
◇◇◇
その夜。
メイがパジャマに着替え、布団に潜り込んでしばらくした頃だった。
スマホが小さく震えた。
詩音からのRainだった。
『まだ起きてる? 少し話せる?』
(……なにかあったのかな)
少し胸がざわつく。
「大丈夫だよ」と送信した途端、すぐに着信音が鳴る。
「メイちゃんっ!」
電話越しの声は、やけに弾んでいた。
「ど、どうしたの?」
「いま、ゆるキャン見たの!」
「……えっ、もう?」
「うん!めっちゃかわいい!富士山ドーン!見たい!キャンプ行きたい!!」
詩音の勢いにメイは思わずスマホを少し耳から離す。
「……えぇ……」
あまりのテンションに、思わず声が漏れた。
「でも……よかった。なんでもなくて」
「え?」
「ううん。なんでもない。……今度一緒にいこうね、詩音」
「富士山ドーン!最高ー!」
電話越しに聞こえる詩音の声は、なんだかとても楽しそうだった。
スマホを耳に当てながら、メイは小さく笑った。
(こういうの、なんかいいな……)
自分の「好き」が相手に伝わったうれしさを胸に、メイは夜の静けさにそっと目を閉じた。
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