表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/145

第44話 梓の日常と、ワンポールテント


第44話 梓の日常と、ワンポールテント



——時は遡り、四月のとある日。



朝六時半、空はまだ青白くにじんでいた。


マンション前の駐輪スペースに出て、梓は荷物を載せたバイクの横にしゃがみ込む。


マットな質感のボディに、控えめなクロームパーツ。

ホンダ・レブル250 E-Clutchタイプ。色はマットフレスコブラウン。

名義は自分になっているが、購入時には兄がほとんど費用を出してくれた。

「共用ってことで」と兄は笑っていたが、結局乗るのはいつも梓ばかりだった。文句を言われたことは、一度もない。


シートの上には防水バッグ。中にはテント、焚き火台、チェア……等々。

必要最低限。けれど、それで十分。

荷締めを確認してから、少しだけ後ろに下がって全体を見渡す。


ヘルメットを手に取り、ゴーグルを取りつける。

サンドベージュの艶消し。バイクに乗るときは、いつもこれだった。

バンドを後頭部へまわして固定する。


セルを回すと、レブルのエンジンが静かに目を覚ました。

小さく、低く、確かに息づくような音。


今日は、少し遠くへ行く。


◇◇◇


小田急線沿線の住宅街を抜けて、朝の道を走る。

空は明るいが、まだ人通りは少ない。

街路樹の影が長くアスファルトに伸びている。


信号で止まるたびに、前の車との距離を保つ。

すり抜けはしない。

渋滞にハマっても、黙って順番を待つ。

誰かに言われたわけでもない。ただ、そういうものだと思っている。


焦っても、結果はそう変わらない。


それよりも――

「そういうことをしてると、後で自分が嫌になるだけ」

ずっと前に兄が言っていた言葉だったかもしれない。あるいは、自分で勝手にそう思うようになっただけかもしれない。


それでも今では、自然とそうしていた。


◇◇◇


中央高速に入り、山を目指して進む。

走るほどに空気が冷えていく。

標高が上がるにつれて、季節が少し戻っていくような感覚があった。


袖口から風が入り込み、首筋をかすめる。

その冷たさは不快じゃなかった。

かえって、頭の中が静かになる気がした。


湖畔の手前、ちいさなスーパーに立ち寄る。

店内は地元の人が数人だけ。静かで、居心地がよかった。


ウィンナー、きのこ、フリーズドライの味噌汁。

あと、アルミ鍋入りのうどんとパン、缶コーヒー。

それだけあれば、今夜と明日の朝はどうにかなる。たぶん。


◇◇◇


昼前、山中湖の湖畔にある小さな公園に立ち寄った。

風が強く、湖面がきらきらと揺れている。

空は高くて、雲の影が山肌をすべっていた。


梓はバイクを停めて、ヘルメットを外す。

ベンチに腰かけ、買ったばかりのパンと缶コーヒーを取り出した。


人目も気にせず、ただ座って、食べる。


目の前にある湖と風の中での食事。

それで十分だった。


◇◇◇


十三時ちょうど、山中湖の近くにある「湖波荘キャンプ場」に着いた。

受付では、年配の管理人が書類を整理していた。


「今日、予約した方かな?」

「はい」

「林間サイトの奥の方、空いてるから、好きな場所どうぞ。今のところ一番乗りだよ」


言葉少なにうなずいて、受付を済ませる。

バイクをサイトの端に停め、荷物を降ろす。


木々のあいだから湖の水面がちらちらと光って見えた。

地面は柔らかく、風は少しあるが、冷たくはない。

空も広い。

それだけで、悪くないと思った。


◇◇◇


いつものように設営をはじめる。


何度も使っているテント。手が勝手に動く。

ペグを打ち、ガイロープを張る。

風の向きを見て、少し張り直す。


張りながら、ふと気づく。

このテントも、少しくたびれてきたな――と。

今日は少し丁寧に、設営を進めた。


サッとチェアを組み立てて、腰を下ろす。

バッグの中から、シングルバーナーを取り出した。

ケトルに水を注いで、火にかける。

カチ、と点火装置の音がひとつ。静かに湯が温まり始める。



梓は手を膝に置き、息をついた。

周りを見渡す。

木々の隙間から覗く空は高く、薄い雲がゆっくりと流れていた。

やわらかな光が差し込み、枝葉を優しく揺らしていく。

――悪くない場所だ。

そう思った。


目をやると、テントの脇に置いたホンダ レブル、その上に載せたヘルメット。

梓が“相棒”と呼べるのは、これだけ。


シュー……と、湯が小さく息を漏らしはじめた。

ケトルの口から立ちのぼる湯気が、ひと筋、風に揺れて空へ溶けていく。

梓はケトルを持ち上げ、慎重にドリッパーへと湯を注いだ。

コーヒーの粉がふわりと膨らみ、立ちのぼる香りが静かな空気に広がっていく。

焦げたような、甘いような――いつもの匂いだ。

その香りに包まれながら、梓はふと、肩の力が抜けていくのを感じた。


その瞬間、光が一枚、木の葉の隙間から頬にふれた。

木漏れ日が、やさしかった。


◇◇◇


八月に入ってすぐの頃。


通販で買ったベージュのワンポールテントが届いた。

前から気になっていたやつ。今のテントもくたびれてきた。たまたまセールだったから、まあ、今かなと思って買った。


届いてそのまま、部屋の隅に置いていた新しいテント。ただそこに、無造作に置きっぱなしになっていた。


火曜日の昼。

スマホのニュースに目をやったとき、関東に接近してきた台風が、南に逸れたという記事が目に入った。

進路変更。関東は晴れの予報に変わったらしい。


「そうか……」


反射的にスマホの天気アプリを開いて確認する。

明日の水曜日は、休みを取っていた。特に予定はない。何かをするつもりもなかった。


——どうせなら、テント、試し張りしとくか。

初めてのワンポール。

どんな感じかもまだ分からないし。


◇◇◇


朝、少しだけ早く目が覚めた。

寝ぐせを帽子で押さえて、荷物をまとめる。

ルーティンみたいな準備。バイクの荷台は、もう何度も積み慣れた形に収まった。


行き先は、特に迷わなかった。


——新和キャンプ場。


何度か行ったことがある、静かな場所。

予約も要らないところだし、平日なら人も少ないだろう。


マンションの駐輪場で、バイクにまたがる。

明け方の雨で、空はまだどんよりしていたが、雲は薄くなってきている。


「……ま、行ってみるか」


エンジンをかけると、いつもの音が帰ってきた。

でも、ほんの少しだけ、胸のあたりが軽くなった気がした。


バイクが、ゆっくりと走り出す。

その背中を、風がそっと押した。


そして――何かが、静かに回りはじめていた。


ここまで読んでくださってありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ