第44話 梓の日常と、ワンポールテント
第44話 梓の日常と、ワンポールテント
——時は遡り、四月のとある日。
朝六時半、空はまだ青白くにじんでいた。
マンション前の駐輪スペースに出て、梓は荷物を載せたバイクの横にしゃがみ込む。
マットな質感のボディに、控えめなクロームパーツ。
ホンダ・レブル250 E-Clutchタイプ。色はマットフレスコブラウン。
名義は自分になっているが、購入時には兄がほとんど費用を出してくれた。
「共用ってことで」と兄は笑っていたが、結局乗るのはいつも梓ばかりだった。文句を言われたことは、一度もない。
シートの上には防水バッグ。中にはテント、焚き火台、チェア……等々。
必要最低限。けれど、それで十分。
荷締めを確認してから、少しだけ後ろに下がって全体を見渡す。
ヘルメットを手に取り、ゴーグルを取りつける。
サンドベージュの艶消し。バイクに乗るときは、いつもこれだった。
バンドを後頭部へまわして固定する。
セルを回すと、レブルのエンジンが静かに目を覚ました。
小さく、低く、確かに息づくような音。
今日は、少し遠くへ行く。
◇◇◇
小田急線沿線の住宅街を抜けて、朝の道を走る。
空は明るいが、まだ人通りは少ない。
街路樹の影が長くアスファルトに伸びている。
信号で止まるたびに、前の車との距離を保つ。
すり抜けはしない。
渋滞にハマっても、黙って順番を待つ。
誰かに言われたわけでもない。ただ、そういうものだと思っている。
焦っても、結果はそう変わらない。
それよりも――
「そういうことをしてると、後で自分が嫌になるだけ」
ずっと前に兄が言っていた言葉だったかもしれない。あるいは、自分で勝手にそう思うようになっただけかもしれない。
それでも今では、自然とそうしていた。
◇◇◇
中央高速に入り、山を目指して進む。
走るほどに空気が冷えていく。
標高が上がるにつれて、季節が少し戻っていくような感覚があった。
袖口から風が入り込み、首筋をかすめる。
その冷たさは不快じゃなかった。
かえって、頭の中が静かになる気がした。
湖畔の手前、ちいさなスーパーに立ち寄る。
店内は地元の人が数人だけ。静かで、居心地がよかった。
ウィンナー、きのこ、フリーズドライの味噌汁。
あと、アルミ鍋入りのうどんとパン、缶コーヒー。
それだけあれば、今夜と明日の朝はどうにかなる。たぶん。
◇◇◇
昼前、山中湖の湖畔にある小さな公園に立ち寄った。
風が強く、湖面がきらきらと揺れている。
空は高くて、雲の影が山肌をすべっていた。
梓はバイクを停めて、ヘルメットを外す。
ベンチに腰かけ、買ったばかりのパンと缶コーヒーを取り出した。
人目も気にせず、ただ座って、食べる。
目の前にある湖と風の中での食事。
それで十分だった。
◇◇◇
十三時ちょうど、山中湖の近くにある「湖波荘キャンプ場」に着いた。
受付では、年配の管理人が書類を整理していた。
「今日、予約した方かな?」
「はい」
「林間サイトの奥の方、空いてるから、好きな場所どうぞ。今のところ一番乗りだよ」
言葉少なにうなずいて、受付を済ませる。
バイクをサイトの端に停め、荷物を降ろす。
木々のあいだから湖の水面がちらちらと光って見えた。
地面は柔らかく、風は少しあるが、冷たくはない。
空も広い。
それだけで、悪くないと思った。
◇◇◇
いつものように設営をはじめる。
何度も使っているテント。手が勝手に動く。
ペグを打ち、ガイロープを張る。
風の向きを見て、少し張り直す。
張りながら、ふと気づく。
このテントも、少しくたびれてきたな――と。
今日は少し丁寧に、設営を進めた。
サッとチェアを組み立てて、腰を下ろす。
バッグの中から、シングルバーナーを取り出した。
ケトルに水を注いで、火にかける。
カチ、と点火装置の音がひとつ。静かに湯が温まり始める。
梓は手を膝に置き、息をついた。
周りを見渡す。
木々の隙間から覗く空は高く、薄い雲がゆっくりと流れていた。
やわらかな光が差し込み、枝葉を優しく揺らしていく。
――悪くない場所だ。
そう思った。
目をやると、テントの脇に置いたホンダ レブル、その上に載せたヘルメット。
梓が“相棒”と呼べるのは、これだけ。
シュー……と、湯が小さく息を漏らしはじめた。
ケトルの口から立ちのぼる湯気が、ひと筋、風に揺れて空へ溶けていく。
梓はケトルを持ち上げ、慎重にドリッパーへと湯を注いだ。
コーヒーの粉がふわりと膨らみ、立ちのぼる香りが静かな空気に広がっていく。
焦げたような、甘いような――いつもの匂いだ。
その香りに包まれながら、梓はふと、肩の力が抜けていくのを感じた。
その瞬間、光が一枚、木の葉の隙間から頬にふれた。
木漏れ日が、やさしかった。
◇◇◇
八月に入ってすぐの頃。
通販で買ったベージュのワンポールテントが届いた。
前から気になっていたやつ。今のテントもくたびれてきた。たまたまセールだったから、まあ、今かなと思って買った。
届いてそのまま、部屋の隅に置いていた新しいテント。ただそこに、無造作に置きっぱなしになっていた。
火曜日の昼。
スマホのニュースに目をやったとき、関東に接近してきた台風が、南に逸れたという記事が目に入った。
進路変更。関東は晴れの予報に変わったらしい。
「そうか……」
反射的にスマホの天気アプリを開いて確認する。
明日の水曜日は、休みを取っていた。特に予定はない。何かをするつもりもなかった。
——どうせなら、テント、試し張りしとくか。
初めてのワンポール。
どんな感じかもまだ分からないし。
◇◇◇
朝、少しだけ早く目が覚めた。
寝ぐせを帽子で押さえて、荷物をまとめる。
ルーティンみたいな準備。バイクの荷台は、もう何度も積み慣れた形に収まった。
行き先は、特に迷わなかった。
——新和キャンプ場。
何度か行ったことがある、静かな場所。
予約も要らないところだし、平日なら人も少ないだろう。
マンションの駐輪場で、バイクにまたがる。
明け方の雨で、空はまだどんよりしていたが、雲は薄くなってきている。
「……ま、行ってみるか」
エンジンをかけると、いつもの音が帰ってきた。
でも、ほんの少しだけ、胸のあたりが軽くなった気がした。
バイクが、ゆっくりと走り出す。
その背中を、風がそっと押した。
そして――何かが、静かに回りはじめていた。
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