第43話 タープが織りなす夏物語
カフェ・ラフォーレ リーヴルスは、今日から夏季休暇。
ふれあい文学館に勤めるメイも、ちょうど四連休の初日を迎えていた。
本当なら、もっと早く家を出るつもりだった。
「うそ……もうこんな時間……」
メイは、スマホ画面に映った時刻を見て、胸の奥がじわっと熱くなる。
寝坊に加えて、朝からなんだかんだとバタバタして、洗濯物を干し終えた頃には、10時を過ぎていた。
(オープンと同時に着くつもりだったのに……)
急ぎ足でマウントワンへ向かう。
空はぴかぴかの晴れ。真夏の太陽が、遠慮なく照りつけてくる。
アスファルトからの照り返しが強くて、足元がじりじりと焼けるよう。
蝉の声が頭の上でぐわんぐわん響いていて、思わず眉をひそめた。
(お姉さんのおすすめ、やっぱり良さそうだったな……)
昨日見たタープ。
ちょっとおしゃれで、丈夫で、風にも強いって言ってた。
でも、いくらセールでも20,000円前後。高い。
(キャンプ道具の予算、たしか50,000円って決めたんだよなぁ……)
すでに使った金額は、だいたい42,000円。寝袋は後回しにするにしても、残りは8,000円ちょっと。
20,000円のタープに手を出すのは、やっぱり無理がある。
もうひとつ勧めてくれた、少し安い方なら、16,000円くらいだった気がする。
(それ、残ってるといいんだけど……)
少し早足になる。背中の汗が、Tシャツにじんわり張りついた。
◇◇◇
マウントワンの看板が見えてくる。
駐車場は、思っていたよりも混んでいなかった。
(お盆休みだし、みんな出かけてるのかも)
ちょっと拍子抜けするくらいの静けさ。
でも、そのぶん安心感が湧いてくる。
(あのタープ、まだ売り切れてないかもしれない…)
自動ドアの前で、足を止める。
額の汗をぬぐいながら、ドアが開くのを待つ。
ひんやりとした空気が、ふわりと頬をなでた。
体の熱が、すうっと引いていく。
「ふぅ…涼しい」
冷房の効いた店内に入ると、自然と息が整ってくる。
そのまま、タープ売り場へ向かって足を運んだ。
タープコーナーは、店内の奥。
昨日と同じ場所に、同じように整然と並べられたタープたちが、今日も涼しい顔でこちらを迎えていた。
(あった……)
棚の中央。
昨日、お姉さんが「ちょっと高いけど、これ、本当におすすめなんです」と力を込めていた、焚火タープと書かれてる品。
黒字に白で「焚火」とロゴが入った、いかにも“通好み”な見た目。
(えーっと、昨日は……29,800円だったっけ)
おそるおそる、値札に目をやる。
「20%OFF!」の赤いポップが目に入った瞬間、わずかに胸が高鳴る。
——けれど。
……25,800円が、20,640円。
(うーん……まだ2万円台かぁ)
さすがに、これを買ったら完全に予算オーバーだ。
ほんの少し前のめりになっていた体が、元の場所に戻っていくのがわかる。
(じゃあ……もうひとつのほう)
すぐ隣にあったTCヘキサタープ。カーキ色の、シンプルなデザイン。
どこか控えめで、でもしっかりしてそうな佇まい。
(たしか……16000円くらいだったよね)
そのくらいならギリギリ……と自分を納得させつつ、値札を見る。
(……って、え?)
目を疑った。
「展示品限り」
「50%OFF」
「現品処分:¥8,400」
(や、やすっ……!)
呼吸が一瞬止まる。
手に取るより先に、思わずそのタグを二度見してしまった。
(これ……買うしかないよね!?)
ごく自然な動作で、タープの入った収納バッグに手を伸ばす。
持ち上げた瞬間、ずしっ。想像の1.5倍は重い。
(うわっ……けっこう重い……)
両手でしっかり抱えて、安定させる。
ひとまずレジへ向かおうと、顔を上げたそのときだった。
(……あれ?)
斜め前方、キャンプチェアのディスプレイのそばで、誰かが棚を見上げていた。
カーキのTシャツに、グレーのカーゴパンツ。
手にはCB缶を二本。ベージュのキャップをかぶったその横顔に、見覚えがあった。
(……あれ?もしかして)
立ち姿も、雰囲気も、記憶に残っていた通り。
少し迷ったけれど、足が自然とそちらへ向かっていた。
「……広瀬…さん?」
名前を呼ぶと、肩がぴくりと揺れた。
振り返った顔に、ほんの一瞬、警戒の色が浮かぶ。
でも、すぐにそれが薄れていく。たぶん、思い出してくれたのだと思う。
「やっぱり……広瀬さんですよね」
メイは胸に抱えていたタープを押さえたまま、ふっと目を伏せた。
(……言おう、ちゃんと)
ほんの少しだけ息を吸ってから、深く頭を下げる。
「……あの、この前は、どうもありがとうございました」
「……あ、ああ」
ちょっと冷たいような、戸惑ったような…そんな返事が返ってきた。
何か続きを言わなきゃと思うのに、口がうまく回らない。視線を落としたまま、メイの喉がごくんと鳴った。
「……タープ、買うんだ」
思いがけない声。それは思っていたよりも優しかった。そっと頭を上げる。でも顔をしっかりとは見れなかった。
「……あ、はい。あの……広瀬さんに言われて……その、ちょっと気になってて……」
しどろもどろな返事をしていると、腕がぷるぷると震えてだした。
重たいタープを抱えた腕はもう限界。
「……重いなら、下ろせば」
「えっ……あ、はいっ」
そっと足元にバッグを置くと、一瞬で体が軽くなった。メイはふぅ〜と、ひとつ息を吐いた。
「スチールポールだと思うけど、アルミに変えると軽くなるから」
「な、なるほど……」
(……ポール?…….アルミ?)
動揺したメイはすぐには理解できなかったけど、取り敢えず頷いてみた。
でも、梓はそれ以上言葉を継がなかった。
気まずい空気が二人を包む。
言葉を探すメイ。ふと梓の視線の先の大きな棚に目がいった。
「……コット、ですか?」
「うん。壊れたんで」
簡潔な答え。でも、少しだけ梓の肩が緩んで見えた。
「これ、ベッドみたいなやつですよね。キャンプの」
「そう。地面の冷気、伝わらないし、起きやすいから」
「あ……それ、いいですね……」
話してるうちに、緊張していた頬がほぐれてくる。
自分の声がさっきよりも自然に聞こえて、不思議な感じだった。
(なんか、ちょっとだけ……会話してる)
でも、話が一段落すると、ふたりの間にまた静けさが戻ってきた。
空調の音が、妙に大きく聞こえる。
そのとき——
「……グゥ~~」
小さな音が沈黙を破った。梓のお腹だった。
えっ!?っと思って顔を見ると、彼女はほんのわずかに目をそらした。
「朝、食べてないんで」
短く、それだけ言う。
「あ……」
言いかけた瞬間、今度はメイのお腹が——
「グゥ〜〜」
「うわっ…….」
恥ずかしさで頬が熱くなる。
でも、梓の口元が、かすかに緩んでいた。
「お揃い……ですね」
思わず漏れたメイの一言に、梓がふっと吹き出した。
二人の笑い声が、短く、やわらかく弾む。
「あの……よかったら、このあと、お昼……行きませんか?」
口が先に動いた。言い終えてから、心臓が跳ねる。
梓は一拍だけ考えて——
「……いいけど」
その声は、どこか照れた感じを帯びているように聞こえた。
◇◇◇
雑居ビルの二階にある、小さなファミレス。
ガラス窓の向こうには、交差点を行き交う人と車。青空から降り注ぐ夏の陽射しが、ビルの影をくっきりと映し出していた。
窓際の二人席。
向かい合うメイと梓の間には、水の入ったグラスが二つ。
けれど、どちらもまだ一口も減っていない。
梓は、ずっと外を見ていた。
横顔にはあまり感情がない。ただ、目だけが遠くをじっと見ている。
何かを考えているようでもあり、ただ沈黙を受け入れているようでもある。
メイは、視線を落とし、膝の上でそっと手のひらをすり合わせた。
(……なにか、話さなきゃ)
そう思って口を開こうとするけど、言葉がまとまらない。
喉まで出かかった声が、引っ込んでしまう。沈黙がまた、じわりと伸びる。
思い切って、ぽんと頭に浮かんだ話題を投げた。
「……けっこう混んでましたね、マウントワン」
「うん」
それだけ。
短い返事とともに、再び沈黙が戻ってきた。
(……うまくいかないなぁ)
でも――
さっきマウントワンで感じた“ピリッとした距離”とは、少し違う。
会話は続かなくても、拒絶されている感じはしない。
それだけで、ほんの少し胸が軽くなる。
メイは、グラスの縁を指でなぞりながら、おそるおそる話題を変えた。
「……あの、広瀬さんって、今は……お仕事、キャンプ関係とか……?」
梓がようやく窓から視線を戻す。
「いや。事務。ほぼ在宅だけど」
淡々とした声。でも、ちゃんと答えてくれる。
「テレワークなんですね」
「うん。週一、二くらい出社。あとは家でPC」
「そっか……便利な時代ですよね、ほんと」
メイはぎこちなく笑ってみせる。
対して梓は、特に表情を変えない。ただ静かに、また窓の外へと視線を戻した。
テーブルの上に、沈黙がゆっくりと積もっていく――。
(……なんか、話題……)
メイは心の中で、必死に“会話の糸口”を探していた。
思いついたのは、いま自分が一番時間を使っていること。
「……あの、私、いまちょっとだけカフェで働いてて……」
おそるおそる切り出すと、梓の視線がゆっくりこちらに戻る。
「ラフォーレ・リーヴルスっていう、ブックカフェなんです。まだオープン前なんですけど……」
「今は、その準備をしてて。あ、でも私は文学館の職員で……なんか色々あって、その……派遣みたいな感じで」
自分でも説明がごちゃごちゃしてるとわかっていて、言葉がたどたどしくなる。
手元のナプキンを指先でいじりながら、メイはちらっと相手の反応をうかがった。
梓は水のグラスを軽く傾けて、ひと口。
氷がカランと澄んだ音を立てた。
「……へえ」
それだけ。
でも、その声は意外と柔らかかった。
(……なんだろ。さっきより、ちょっと……話せてる気がする)
沈黙は戻ってきたけれど、さっきの“気まずい空気”ではない。
静かな、でも少しだけ温度のある沈黙だった。
そのとき――
「……昔、喫茶店でバイトしてたことがある」
ぽつりと、梓が言った。
メイはぱっと顔を上げる。
「そうなんですか?」
反射的に声が出た。
梓の口から、自分から話題が出たことが、なんだかうれしくて。
表情は抑えめのままだけれど、胸の奥が少しあたたかくなった。
「どちらの喫茶店ですか?」
メイが身を乗り出すように尋ねると、梓はほんの一拍おいて答えた。
「……馬車道の。」
たったそれだけの返事。
けれど、メイの頭の中で、何かがひっかかった。
(……馬車道? どこかで……)
記憶の断片をたどっているうちに、ふとひとつの会話がよみがえる。
「あ……そういえば、詩音……ラフォーレに来る前、馬車道の……ル ルポ・ド・ニーチェっていうカフェで働いてたって……」
思わず、ぽつりと口に出していた。
梓はわずかに目を見開き、静かな声で言った。
「……そこだけど」
「えっ、ほんとに!?」
自然と声が上ずる。
まさかの一致に、思わず背筋が伸びた。
梓は、少しだけ頷いた。
「高校のとき。……四年前。三年の夏まで」
「……そっか。あのお店、そんな前からあったんですね」
「古いからね。あの雰囲気、最初はびっくりした」
その言葉に、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
冗談というより、思い出をなぞるような、やわらかい声音だった。
メイはその変化を逃さなかった。
梓の表情がふっとほどけた、その一瞬。
心の中に、あたたかい灯りがともったような気がした。
「なんか……すごい偶然ですね」
「……うん」
また、間が空いた。
けれど、さっきまでの沈黙とは、どこか空気が違っていた。
重たさではなく、少しずつ馴染んでいくような、そんな静けさ。
「……当時、すごい人がいてさ」
梓がぽつりと口を開く。
メイは思わず姿勢を正した。
「すごい人?」
「無駄なことが嫌いで、仕事早くて。
怖いんだけど……ちゃんと見てる人」
淡々とした声だったけれど、それは“今”の言葉というより、ふと心の底からこぼれ落ちたような響きだった。
梓は視線をグラスに落とし、氷をゆっくり転がす。
「ラフォーレにも、似たような人がいて。
すごく頼れるっていうか……全部わかってる感じの」
梓が顔を上げ、じっとメイを見る。
そのまなざしに少しドキリとしながら、メイは続けた。
「美智子さん、っていうんですけど」
その名前が出た瞬間、梓の瞳の奥で、かすかに光が揺れた。
「……美智子?」
「はい……。えっ、もしかして」
「……たぶん、同じ人」
「そうなんだ……!」
思いがけないつながりに、メイは思わず目を見開いた。
けれど、梓は少しだけ目を伏せて、小さな声で続けた。
「怒られると、ちょっと気持ちいいんだよ。あの人」
「……ぷっ」
あまりに不意打ちで、メイは吹き出しそうになる。
肩を震わせながら、なんとか笑いをこらえた。
「……それ、わかる気がします」
そう言って笑うと、梓の口元もほんの少し、緩んだ。
ふたりの間に、やわらかい空気がふわりと流れる。
「……変わってないなら、よかった」
その小さな声には、懐かしさと、どこか安心したような響きがあった。
メイは何も言わずに、ふんわりとうなずいた。
———
食事中は、ほとんど言葉を交わさなかった。
けれど、不思議と気まずさはなかった。
店内のざわめきと、窓から射し込む午後の光。
その中で、ふたりのテーブルだけが、少し時間の流れがゆるやかになったようだった。
やがて皿が空になり、食後のコーヒーが運ばれてくる。
白い湯気がふわりと立ちのぼり、ほのかな苦い香りが鼻先をくすぐった。
メイはカップを前に、じっとその湯気を見つめた。
ひと息ついてから、思い切って顔を上げる。
「あの……」
切り出したものの、言葉がすぐに続かず、わずかに視線が泳ぐ。
自分でも何を言おうとしているのか、少し探りながら。
「さっきの、バイトの話なんですけど……四年前、高三って……」
「うん」
梓の短い返事に、メイは少し身を乗り出した。
喉の奥がひゅっと細くなる。緊張と好奇心が混ざった感じだ。
「私、いま、二十二歳なんですけど……」
恐る恐る言いながら、カップの取っ手を指先でくるくるとなぞる。
コーヒーを口に運びかけていた梓の手が、ぴたりと止まった。
「……一緒」
「え?」
顔を上げたメイに、梓はカップを持ったまま、さらりと答えた。
「四月生まれ。いま二十二」
その瞬間、メイの目がまんまるになる。
「あ……やっぱり、そうですよね。
もっと……年上かと思ってました」
言いながら、自分でも少し失礼だったかもと焦る。
けれど、梓は眉ひとつ動かさず、むしろ淡々とした声に、ほんのり柔らかさが混じっていた。
「……よく言われる」
その何気ない一言に、メイはふっと肩の力が抜けた。
緊張がほどけると同時に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ……同い年だ……」
小さく呟いたその声には、驚きと、どこかくすぐったいような気持ちが滲んでいた。
ずっと敬語で話していたし、「広瀬さん」って呼んでいたし――
なんだか、自分だけが一歩引いた場所にいたような、そんな不思議な感覚が胸に残る。
ふいに、梓が口を開いた。
「……敬語、やめていいよ」
その一言に、メイの心臓がぴくりと跳ねる。
まるで思いがけず踏み込まれたみたいで、一瞬、呼吸が止まった。
「え、でも……」
とっさに返した声が、少し上ずる。
けれど梓は表情を変えず、淡々と続けた。
「……同い年でしょ。
やりにくいなら、そのままでいいけど」
声音は柔らかく、押しつけがましさはまったくない。
ただ、静かに「選択肢」を差し出されたようだった。
「……じゃあ、やめてみます。敬語」
少しだけ勇気を振り絞って、メイが言うと――
「うん」
梓はそれ以上何も言わず、コーヒーに口をつけた。
それまでと同じ、少し気だるげな横顔。
でも、メイの胸の内では、小さな波が立っていた。
(……やめてみるって言ったけど……じゃあ、どう呼べばいいんだろう)
呼び捨て――?
広瀬――?
それとも……梓。
考えれば考えるほど、口が動かなくなる。
そして、ふと頭に浮かんだのは、詩音の顔だった。
──詩音だったら、きっと迷わず言うんだろうな。
「……あの」
メイは小さく声を出した。
梓がカップを置き、静かにこちらを向く。
「……その、ちょっといきなり変かもしれないんですけど……」
指先がテーブルの縁をなぞっているのに気づいて、さらに緊張が高まる。
それでも、逃げずに口を開いた。
「……梓……ちゃん、って……呼んでも、いいですか?」
声が、ほんの少し震えた。
言ってから、心臓がドクンと鳴るのが自分でもわかった。
梓は一瞬、瞬きをして――その目がわずかに揺れた。
「……ちゃん付けかよ」
ぽつりと呟いた声は、呆れたようでいて、どこか照れを含んでいた。
口元がほんの少しだけ緩み、目元にも柔らかな色が宿る。
「……でも、別に、いいけど」
その返事に、メイの胸がふわっと軽くなる。
頬がじんわりと熱くなったのを感じながら、思い切って口を開いた。
「……ありがとう、ございます……じゃなくて、ありがとう……梓ちゃん」
噛みそうになりながらも、なんとか言い切る。
自分でもびっくりするくらい、声が小さかった。
その勢いのまま、半ば恥ずかしさに背中を押されるように続けた。
「……あの、私のことは……メイでいいです。苗字だと、ややこしいので」
言い終わった瞬間、顔が熱くなる。
頬だけじゃなく、耳の裏までじんわりと赤くなっていくのがわかった。
そのとき、ふと脳裏に浮かんだ――あの公園のベンチ。
去り際に詩音が振り返って、笑いながら言ったひとこと。
──「詩音でいいからね!」
背中越しの、あの軽やかな声と笑顔。
(……今なら、少しだけ気持ちがわかるかも)
メイはそっと目を伏せて、小さく息を吐いた。
胸の奥に、あたたかいものがじんわりと広がっていった。
◇◇◇
ファミレスから外に出ると、昼下がりの陽射しが容赦なく降り注いだ。
アスファルトはじりじりと熱を帯び、真上から射す太陽が、街全体を白く霞ませている。
ビルの下に停めてあるバイクの方へ、ふたりは並んで歩いた。
言葉は交わさない。けれど、その沈黙は気まずさではなく、不思議な心地よさを含んでいた。
さっきまでとは違う、やわらかな空気が流れている。
バイクの前で、ふたりの足が同時に止まる。
メイは少しうつむいて、指先をきゅっと握った。
「あの……」
緊張で、声がほんの少し上ずる。
それでも、勇気を振り絞って顔を上げた。
「もし……よかったら……ラフォーレのレセプション、来てください」
目を伏せ、ほんの一拍の間を置いて、もう一言を添える。
「……来てほしいです」
言い終えた瞬間、耳のあたりがかっと熱を帯びた。
声が震えたのも、自分でもわかってしまって余計に恥ずかしい。
梓は、ヘルメットを片手に、ほんの少しだけ視線を逸らした。
そして、小さく、でもはっきりと答える。
「……行けたら、行くよ」
その一言が、メイの胸の奥にぽん、とやわらかく跳ね返ってきた。
まるで風鈴が鳴ったような、やさしい音だった。
「じゃあ……あの、詳細はRainします……じゃなくて、するね」
また噛みそうになった言葉を、なんとか言い切る。
梓の口元がふっと緩んだ。控えめだけど、確かに笑っている。
「……うん」
セルを回す音が響き、バイクのエンジンが低く唸り始める。
梓がヘルメットをかぶり、シートにまたがった。
メイは一歩下がって、その姿を見送る。
真夏の空気の中で、エンジン音だけが鮮やかに響いた。
次の瞬間、バイクは軽やかに走り出した。
白い雲の浮かぶ青空の下を、まっすぐに。
──風を受けながら走る梓の胸の奥に、ふいに小さな笑みがこぼれた。
マウントワンで、重そうにタープを抱えていた不器用な姿。
ファミレスで、顔を真っ赤にして「梓ちゃん」と呼んだ、あの瞬間。
どれも妙に印象に残っている。
──平瀬……メイ。
……悪くないかもな。
夏の陽射しを背に受けながら、バイクはまっすぐに、風を切って進んでいった。
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