第41話 うれしさと、ためらいと、少しの勇気と
──朝のカフェ・ラフォーレ・リーブルス。
「おっはよーございまーっす!」
勢いよく扉を開けて、詩音がいつものように元気よく店に入ってきた。
だけど返ってきたのは、ちょっと控えめな「おはようございます……」の声。
そして、なんだか、空気がピンとしている。
(……ん? なんか今日、静かじゃない?)
この時間にしてはめずらしく、店内にはコーヒー豆を挽く香りが漂っていた。
フロアでは、美智子とユキが、ディスプレイ棚の配置を微調整している。
だけど、どこか落ち着かないような、緊張感がじんわりと伝わってくる。
そんな中、アルバイトの森川くるみがぴょこっと顔を出した。
「おはようございます、詩音さん。今日、社長来店される日ですよね?」
「……へっ?」
「社員の人たち、ちょっとピリピリしてるの、それでかなって。私、初めて会うんですけど、ちょっとドキドキしてます」
(……あっっっ!!)
昨日の夕方、沙織が何気なく言った言葉が、いまになって思い出される。
──「明日、社長が来るかもって」
「今日!? え、今日だったっけ!?!? 今日だったの!?!?」
店内をぐるっと見渡して、沙織の姿を発見。
「沙織ちゃん沙織ちゃん、今日って社長来るんだよね!? 来ちゃうんだよね!?」
沙織は一瞬手を止め、少し肩に力の入った笑みを浮かべた。
「……うん。来る予定。たぶん、もうすぐ」
「わーーーどうしよう……緊張してきた……!」
ジタバタする詩音。
「ねえ、沙織ちゃん……社長って、やっぱちょっと怖いの?」
「うーん……どうだろ。私、実はまだ直接会ったことないんだよね。でも、“近寄りがたい”って噂は聞いたことあるかも」
「やっぱりぃ!? どうしよう……!」
詩音は今も、怖い人は苦手——らしい。
目を丸くして、慌てて周囲をキョロキョロ。すぐに視界に入ったメイの姿を見つけると、即ダッシュで駆け寄る。
「メイちゃん! メイちゃん! ちょっと聞いて~!」
「お、おはよう。どうしたの?」
「今日さ、社長来るんだって、草薙社長! やばくない?」
「うん、知ってるけど……」
「えっ、知ってたの!? ずるいー、もっと早く教えてよー!」
「いや、別に隠してたわけじゃ……っていうか、そんな大ごとかな?」
「大ごとだよー! 前髪まとまんないし! ああもう、なんか緊張してきたー!」
オーバーリアクション気味な詩音に、メイはちょっと引きつった笑みで応じる。
「……落ち着きなよ、詩音」
「だって、もし“何あのテンパってる人”って思われたらどうしよう! ああもう、息できない~!」
「そこまで……?」
横から沙織も、やや苦笑しながらぽつり。
「でも確かに、いつもより空気ピリッとしてる気はするかも……」
「だよね!? 今日に限って、エプロンもしっくりこないし~!」
「気にしすぎじゃない?」
メイの冷静なツッコミに、詩音は「あああ~」と頭を抱える。
と、そのとき。
三人のやりとりに、ふいに後ろから声がかぶさった。
「社長は、確かにクールに見えるけど、実際はすごく頼れる人よ」
振り返ると鈴原店長が、いつもの優しげな笑顔で立っていた。
「あ、…店長。おはようごさいます」
三人は声を揃えた。
「おはよう……社長、よく誤解されるのよね。でも、面倒見もいいし、現場の空気もちゃんと見てくれてる」
「え、…ほんとに?」
詩音の顔がほんの少し緩んできた。
「今まで近くで仕事していた、鈴原店長がそういうなら間違いないよ」
沙織が、少し落ち着いた声でそう付け加える。
「えっ?店長、社長と一緒にカフェやってたんですか?」
詩音がびっくりした顔で、鈴原店長を見る。
「ちょっと違うけど……現場のあと、麗佳社長の秘書をちょっとだけ、ね」
「……そっか、それなら……うん、ちょっと安心したかも……いや、でもやっぱ緊張する!」
「はいはい」
メイが肩をすくめながら苦笑する。
その時――
カランコロン、と、ドアが開いた。
一瞬、店内の空気がぴんと張り詰める。
入ってきたのは、グレージュのシャツに白のテーパードパンツ、足元はシンプルなローヒールサンダル。右手には、ボルボのスマートキー。肩からかけた黒革のトートがよく馴染んでいる。髪はうなじでまとめられ、装いは派手ではないのに目を引く――大人の品と余裕をまとった女性。
「あれが……草薙社長?」
詩音が沙織の袖をつつき、そっとささやく。
「うん、多分ね」
「かっこいい……」
「ね、ちょっと見惚れるよね」
そんなやりとりの中、鈴原店長がすっと前へ出る。
「おはようございます、社長」
「朝早くからありがとう、敦子」
ふっと笑みを浮かべながら草薙が歩み寄る。店長も柔らかく応じた。
「おはようございます!」
スタッフたちも少し遅れて声を揃える。
「では皆さん、少しだけ集まってもらえるかしら」
鈴原店長の声がかかり、ぞろぞろとカフェフロアの中央に集まっていく。
その中には、葛城書店の店長、柳森淳子の姿もあった。まさに、全スタッフ集合って感じである。メイもその輪に加わった。
草薙社長が一歩、皆の前に進み出る。
「おはようございます。
──ここに集まってくれた皆さんに、まずはお礼を言わせてください」
その声は静かで、落ち着いているのに、どこか芯の強さを感じさせる。朗読のような滑らかな語り口。
「私たちは、『本と人が出会える場所』をつくるために、ここまで走ってきました」
「この店が、誰かのきっかけになる場所になれたら。そう思っています」
「もちろん、“誰か”というのはお客様だけではありません。ここで働く皆さん——スタッフひとりひとりにとっても、人として変わるきっかけの場であってほしい。そんな風に願っています」
(人として変わるきっかけの場……か)
その言葉を噛みしめるように、メイはふっと顔を上げた。
穏やかな表情をまといながら、スピーチはその後もやわらかく続いていく。
まるで一つの物語を語るように。
◇◇◇
草薙社長のスピーチも終わり、スタッフはそれぞれの持ち場で作業を始めていた。
店内の奥には、草薙社長、鈴原店長、そして柳森さんの三人が並んで歩いてくるのが見えた。
視察というより、むしろちょっとした同窓会みたいに、楽しげに話している。
「ねえねえ、メイちゃん。あの三人、なんか仲良くない?」
厨房前のカウンターの前で、備品を抱えながら詩音がヒソッと声をひそめて言う。
「うん……ずっと笑ってるし、なんか楽しそう」
メイも、視線の先で笑顔を交わす三人の様子をちらりと見る。
ふと気づくと、いつの間にかユキが横に立っていた。まるで気配を消していたように。
いつものように、無表情で話し出す。
「……あの三人、高校の吹奏楽部で、先輩後輩だったそうです」
「えっ、そうなの? 結構、年齢離れてない?」
「……それでも、繋がる人は、繋がります」
詩音はぽかんとした顔でユキを見る。
「ユキちゃん、なんでそんなことまで知ってるの……」
「……前に、鈴原店長が話してました。OG会も、あるらしいです」
それだけ言って、ユキはふっと視線を外す。
詩音はポカンとしながらも「ほんと、情報通すぎ…」と呆れたように笑った。
その瞬間、
背後から声が飛んだ。
「はいそこ、しゃべってないで動こうかー!」
美智子の元気な声に、詩音がビクッとする。
「は、はいっ!」
慌てて備品を抱えて背筋を伸ばす詩音の隣で、メイもそっと肩をすくめた。
ふと視線を戻すと、さっきまで隣にいたユキの姿がもう見当たらない。気がつけば、いつの間にかカウンター奥で作業を始めている。
「……ユキちゃん、ほんとに神出鬼没だよね」
メイが小さく笑った。
◇◇◇
草薙社長の視察は、午前中いっぱい続いた。
最初こそ穏やかな様子で店内を見て回っていたものの、次第に目つきが鋭さを増し、最後の方は炎天下の中、店舗の外まで足を運んで、身振り手振りを交えてなにやら話し込んでいた。
その背中を、鈴原店長と柳森さんが並んで追いかける。気づけばいつのまにか、視察は本格的な現場チェックの様相を帯びていた。
昼前になると、草薙社長は二人を連れて、店の前に停めたボルボに乗り込んだ。
エンジンの音も静かに、車はするりとカフェの前から走り去っていった。
スタッフたちは、何組かに分かれて昼休憩へ。
外に食べに出る人もいれば、涼しい店内でお弁当を広げるアルバイトの姿もある。
メイと詩音も、カフェのテーブルでお弁当を広げていた。
「……ねえ、草薙社長、すごくなかった?」
詩音が、ちょっと興奮気味に言った。
「うん。スピーチ、すごく引き込まれる感じだった」
メイがそう返すと、詩音はすぐに頷いた。
「わかるー。私なんか、もう泣きそうだったよ」
「ってか、詩音泣いてたじゃん」
「……およよ?」
とぼけた表情に、メイがすかさずツッコミを入れる。
「それ、新しいネタ?」
「でへへ」
楽しげに笑う二人だった。
◇◇◇
お弁当を食べ終え、詩音は持ってきた麦茶をごくりと飲んだ。
ふと、メイの顔を見て、首をかしげる。
「あれ、メイちゃん……なんか焼けた?」
「え? そう?」
「うん、顔、ちょっとだけ。どっか行ったの?」
少し間をおいて、メイがぽつりと答える。
「……うん」
「えっ、どこどこ? 」
一瞬迷いながらも、メイは蚊の鳴くような小さな声で答えた。
「……デイキャンプ」
「え? ディズニーランド?」
「ううん……デイキャンプ」
「デイキャンプ? それって、外で泊まるやつ?」
「違うよ。朝行って、キャンプして、夕方帰ってくるの」
「ほえー、そんなのあるんだ……って言うか、メイちゃんがキャンプって意外」
「え?」
「だってなんかさ、インドア派って感じだし。ずっと本読んでるイメージ」
「うん、そうだったよ。……ちょっと前まではね」
そんなふうに話していると、カラン、とエントランスのドアが開いた。
外に出ていたスタッフたちが、次々と帰ってくる。
「詩音、平瀬ちゃん!」
大きな段ボールを抱えた沙織が、二人に声をかけた。
「社長からの差し入れだって。アイス! みんなの分もあるよ!」
その後ろから、鈴原店長と柳森さんが続いて入ってくる。
「溶けないうちに配っちゃってね」
鈴原店長がそう言うと、詩音は「うひょー、アイス!」と勢いよく席を立った。
そして、くるりと振り返り、にっこり笑って言う。
「デイキャンプの話、また聞かせてね!」
「早くー、平瀬ちゃんも!」
沙織に促され、メイも席を立ち上がった。
◇◇◇
その夜のこと。
メイの部屋。窓の外には、夜風に揺れる木の影が、カーテン越しにぼんやり映っていた。
ベッドに仰向けになったまま、スマホを胸の上に乗せて、ふう、と小さく息をつく。
(……詩音に話しちゃったな)
昼間の会話が、ゆっくり頭のなかで再生される。
“デイキャンプの話、また聞かせてね”
ほんの何気ない一言。でも、ちゃんと「聞きたい」って言ってもらえたのが、なんだかすごく嬉しかった。
(……デイキャンプの写真、また見たくなってきた)
スマホを開いて、ギャラリーをスクロールする。
焚き火台、カップ麺、雨傘、テントと自撮り…
(なんか、笑いすぎでしょ、私…)
メイはクスッと笑った。
そんな時、自分のテントの後ろの方に、小さく映る人影を見つけた。
写真を拡大してみる。ベージュの帽子を被り、遠くを見てるような立ち姿…
(……広瀬さん)
あの時の声が、ふっとよみがえる。
『もっと細くしないと、火つかないよ』
『……初心者?』
『名前。……広瀬梓』
名前を思い出すたび、胸の奥が少しだけ、ざわつく。
(……こっちから連絡先、聞いたんだよね)
ため息が口からこぼれた。
その瞬間、不意にもうひとつの言葉が浮かんだ。
『タープ、あった方がいいんじゃない』
(……あ、タープ)
我に返る。
そうだ、あの時は暑くて仕方なかった。次に行くなら、ちゃんと用意しておきたい。
そう思って、追加の欲しいものリストの筆頭に書いた、タープ。
早速、スマホでエマゾンのアプリを開いて「タープ」と検索する。
いろいろ出てきたけど、形も大きさもまちまち……どれがいいのか、いまいちピンとこない。
(そうだ…!)
ちょっと閃いたメイ。
(……聞いてみようかな)
タープのこと。それに――タープを理由に、広瀬さんに連絡してもいいかもしれない。
(それなら、自然だし……変じゃない、よね?)
Rainを開いて、梓の名前をタップ。
“お久しぶりです。先日はありがとうございました。”
そこまで入力して、指が止まる。
(……なんか文章、変かも)
このまま送っても大丈夫かな。いきなり変な人って思われない? そもそも、覚えててくれてる?
送信ボタンの前で、指が迷う。
(……やっぱ無理)
画面を閉じて、スマホを脇に置く。
ごろん、と仰向けになり、天井を見上げた。
(……タープ。
マウントワンのお姉さんに聞いてみよう)
そう小さくつぶやいて、大きくため息をついた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




