第40話 ただいま
露天風呂の湯船に、そっと肩まで沈んだ。
「ふぅ……」
思わずこぼれた吐息が、湯気に混じって空へ昇っていく。
新和キャンプ場から帰る途中にある別川の湯。山あいの静かな日帰り温泉施設。
本当なら、もっと早い時間に着いてるはずだったけど……
気がつけばキャンプ場を出たのは午後4時を過ぎていた。
それでも、来てよかった。
焚き火の匂いがしみ込んだ髪も、たくさん汗をかいた体も、ぜんぶ、このお湯がまあるく包み込んでくれる。
お風呂から見える景色。ゆるく色づき始めた夕空。
ほんのりオレンジが混じった光が、湯面のゆらぎと重なって、ふわふわと揺れていた。
(……今日、ほんとにいろいろあったな)
テント、焚き火、カマドウマ……忘れた椅子、曲がったペグ、冷たい川の水。
そして――
「……広瀬さん」
ぽつんと、声に出してみる。
(あんなふうに声、かけなかったら……名前も知らないままだったよね)
胸の奥に、じんと小さな熱がともる。
いろんな人がいる。いろんな距離がある。
でも、あの一瞬、「話してよかったな」って、心のどこかでちゃんと思えた。
(……また、会えたらいいな)
そんなことをぼんやり考えながら、メイは湯船のふちに頭を乗せて、まどろむように目を閉じた。
◇◇◇
玄関のドアを開けて、「ただいま」とつぶやいた。
あたりはすっかり暗くなっていて、ポーチライトだけが足元をぼんやり照らしている。
時計は、もうすぐ午後7時半。
あのキャンプ場を出てから、もう3時間近く経っていた。
荷物を全部下ろして、リビングの和室に広げた。
テントも、タープも、シュラフも――濡れてはいないけど、念のため一度広げて風を通す。
銀マットも、焚き火台のススも、ひとつひとつ確認して、軽く拭いたり乾かしたり。
(キャンプって、帰ってからもやることいっぱいなんだ……)
でも、不思議といやじゃなかった。
「片づけまでがキャンプだもんね」なんて、雑誌で見た言葉をふと思い出して、ちょっと笑ってしまった。
ひと通り片付け終わり、麦茶の入ったコップを持ってソファに腰を下ろすと、やっと一息つけた気がした。
スマホを手に取って、撮った写真を見返す。ひとつひとつ、鮮明に今日の情景が目に浮かぶ。
(こんな時間、なんかいいな…)
ほんわかした気持ちになっていると、いきなりスマホが震えた。
——Rain:詩音
(なんだろう?)と、通知を開くと、
「レタスって冷凍したらどうなるのかな?」
……は?
思わず吹き出す。
(なにこのタイミングで……)
さらに、すぐ追ってもう一通。
「さっき試してみたけど、パリパリになって草」
もう、どう返せばいいのか分からない。
とりあえず、スタンプで
『よかったね』
とだけ送る。
間髪入れずに、
「メイちゃんのいけずー!」
スタンプ付きで詩音から返信が来た。
(……まだ、いけずーなんだ)
ふっと、口元がゆるんだ。
そして思った。
キャンプしたいって思ってから、ホントいろんなことが、変わってきたな……
詩音とも出会って、お父さんの車にも乗れるようになって、柳森さんとも話せるようになったし、広瀬さんとも……
焚き火のにおいが、ふっと何処からか立ちのぼる。
まだ、ぜんぜん上手くできない。
だけど、ちょっとだけ、前に進めた気がする。
スマホを伏せて、メイはそっと顔を上げた。
視線の先、リビングの棚の上には、あのブロンズ色のランタンが置かれている。
(また……行きたいな)
心の中で、静かにそうつぶやいた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
これで第4章はおしまいです。
第4章のラストは、メイにとって初めてのデイキャンプでした。
これまで“好き”という気持ちをどこかで抑え込んできた彼女が、自分の意志で踏み出した小さな一歩。
その「はじめて」は、彼女の中で少しずつ変化を生みはじめています。
次回からは第5章へ。
デイキャンプで出会った“クールな人”——広瀬梓との関係も、これから少しずつ動き出していきます。そして、あの賑やかな詩音も…
次の更新は明後日から再開予定です。
これからも、メイたちの物語を一緒に見守っていただけたら嬉しいです。




