第38話 これが、わたしの初キャンプ
「……この辺なんだけどなぁ」
車載ナビをちらちらと見ながら、メイはゆっくりとスピードを落としていた。周囲は木が茂る山あい。細い道の先、右手に古びた木の看板が見える。
“新和キャンプ場”
「……あった」
思わず声に出た。ハンドルを握る手がちょっとだけ汗ばんでいることに気づく。車の時計を見ると、8時38分。
「よし、予定通り……いや〜私すごい。天才!」
と、小さくガッツポーズ。
「……まぁ、その前に一回、ナビに「リルートします!」って叱られたんだけど」
小声でひとりツッコミながら、メイは看板の矢印に従ってハンドルを切る。
けれど、その先に現れたのは、思った以上に細くて、しかも急な下り坂の道だった。
「うわ、狭っ……!」
プジョーの車の中でいちばん小さい208でさえギリギリかも、と思うくらいの道幅。両脇から緑が迫ってくるような坂道。
ギアを一速に入れて、ビクビクしながら慎重に下っていく。
(キャンプ場って……こういう道、つきものなの?)
そのとき、曲がりくねった坂の先に、ふいに視界が開ける。
木々に囲まれた小さな建物と、車が二〜三台停められそうなスペース。その端に、看板と「受付」の文字が見えた。
「ここ、かな……?」
メイは小さく深呼吸して、クラッチを切りサイドブレーキを引いた。
思わず、ふぅーっと息をつく。
(……いよいよ、始まるんだ)
メイは小さく深呼吸して、ドアを開けた。
◇◇◇
エンジンを切って車を降りると、空気が少しひんやりしていて、思ったよりも心地よかった。
河原を流れる川の音が、遠くからふわふわと耳に届く。
(……やっぱ、いいかも)
メイは小さく笑ってから、肩にかけていたトートバッグを背負い直し、受付へと足を向けた。
メイが小さな建物に近づいていくと、壁に貼られた「受付」の手書き看板が目に入る。
そのすぐ横には、大きな引き戸式の窓があり、メイが近づくと、中からひょっこりと優しそうなおじさんが顔を出した。
「いらっしゃい。今日はキャンプ?」
「あ、いえ……デイキャンプです」
ちょっと緊張して、語尾が少し小さくなる。
「ここ初めてかな?」
「えっと……はい、初めてです」
おどおどと答えるメイに、おじさんはにっこり笑いながら、場内の使い方を簡単に説明してくれた。
車はサイト横付けで良いこと、ごみは持ち帰り、川遊びは禁止ではないけれど、自己責任で。さらに、手渡された場内マップを指差しながら、トイレと炊事場の位置を丁寧に説明してくれた。
そして、「今日は人少ないから、デイキャンプのエリアなら好きなとこ使っていいよ」とのことだった。
メイが、場内マップを見て確認していると、おじさんは続けた。
「薪とか炭は大丈夫?」
「あっ……」
そうだった。焚き火するには薪が必要。すっかり忘れてた。
「……薪、お願いします」
「針葉樹?広葉樹?どっちにする?」
(えーと、燃えやすいのってどっちだったっけ……)
「広葉樹で、お願いしますっ」
ちょっと不安になりながらも、勢いで答えてしまう。
料金は、デイキャンプが1,300円、薪が750円で、合計2,050円。
財布からぴったり出して、支払いを済ませた。
「じゃあ、ごゆっくり!」
「はい、ありがとうございます」
利用証明書を受け取って、また小さくお辞儀をして建物をあとにする。
(……うん、受付クリア)
少しだけ胸を張って、メイは車に戻った。
ダッシュボードに証明書をそっと置いて、メイはエンジンをかけ直しす。
「よし……いってみよう!」
メイはゆっくりと車を発進させた。
おじさんが言ってたとおり、今日は人も少ないみたいで、場内はとても静か。
河原へと続く道を、そろりそろりとプジョーを走らせる。
河原に降りると、そこは開放感に満ちていた。車の窓を少し開けると、川の音が風に乗って流れ込んでくる。
心地いい風が、頬をかすめた。
ガタガタと車体が揺れる。舗装されていない、デコボコの道。
メイは両手でしっかりハンドルを握りながら、慎重に進んでいく。
(えーっと……この辺にしようかな?)
ふと、広めのスペースが目に留まった。
エンジンを切って、静かになった車内に、風の音だけが入り込む。
メイはハンドルに手を置いたまま、しばらく窓の外の景色を眺めていた。
緑あふれる山が、川の向こう側に聳え立っている。
(ほんとに、来ちゃったんだなぁ……キャンプ場)
まだ何もしていないけど、なんだか達成感みたいなものがじんわりと湧いてくる。
深呼吸をひとつして、ドアを開けた。
靴の裏が砂利を踏む音。ほんのり湿った地面。
風は少しだけ強くなって、草を揺らしている。
近くの川の音は、思いのほか強く、大きく感る。
——メイひとりだけの空間。
「ほんと誰もいない…貸切状態だ!」
手を伸ばして伸びをする。
見上げた空の、流れる雲の隙間から、きらっと太陽の光がのぞいていた。いい天気になりそうな予感……。
「なんか、最高かも!」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
◇◇◇
リアハッチを開けると、メイはひとまず深呼吸。
「さて……始めますか」
荷室からひとつずつ、道具を取り出していく。
まずはテント。銀マット。焚き火台。テーブルも。よしよし、順調。
「じゃあ次は、椅子……」
手を伸ばしかけて——止まる。
「あれ……?」
一瞬だけフリーズして、もう一度車内を見まわす。後部座席の足元、ドアポケット、トランクの隅。
……ない。
(え、ない……? ない!?)
視界の端に浮かぶ、昨日の記憶。
——車に荷物を積もうとしたとき、椅子の収まりが悪くて一度縁側に置いた。
……そしてそのまま。
「嘘でしょ……うっそでしょっ!」
頭の中で警報が鳴る。ぐるぐる巻き戻る昨日の自分に、今すぐツッコミを入れたい。
「せっかく買ったのに……! 初張りなのに……!」
両手で頭を抱えて、そのまま天を仰いだ。
静かな河原に、メイの悲鳴がふわっと吸い込まれていく。
《初キャンプあるある、その一》
——忘れ物は、よりによってテンション上がってたときに発覚する。
「はあ……もう、やらかしたぁ」
だけど、なんだろう。
それでも、どこかちょっとだけ楽しくて。
この“てんやわんや”さえ、メイの顔には、うっすら笑みが浮かんでいた。
気を取り直して、メイは車のトランクからテントの袋を引っ張り出した。
「よし……とりあえず、立てちゃおう」
この間、家の和室で組み立てたばかり。手順は頭に入っている……はず。
袋を開けて、中のテントとポールを広げる。
「前がこっち、で……ポールをスリーブに通して……」
ひとつひとつ、思い出しながら丁寧に進めていく。
ポールを立ち上げるとき、ちょっとコツがいるけど、そこもバッチリ。一発で決めた。
「よしっ。いい感じ!」
フックを留めて、テントがぴんと立ち上がったときには、思わずガッツポーズが出そうになった。
「ふふ……けっこう私、やれるじゃん」
得意げにテントの周りをぐるりと一周。
が、次の瞬間——
風でテントが煽られる。
バタバタっと音を立てるテントを、慌てて手で押さえた。
「そうだよ、ペグ……打たなきゃ」
テントの四隅を固定するため、袋からアルミペグを取り出す。
「えーと……ペグを、地面に……で、ハンマーで……」
……ハンマー?
「……ないじゃん、ハンマー」
一瞬、頭が真っ白になりかかったけど、すぐに“ゆるキャン△”のワンシーンが脳裏に浮かんだ。
「そうだ、リンちゃん、石で叩いてた!」
近くに落ちていた拳サイズの石を拾い、ペグの頭にそっと当てて、コン、コン。
「よし、いける、いけ……いったたた!」
勢いあまって、思いっきり自分の手を叩いてしまった。
「……軍手、いるな、これ」
車に戻って軍手を取り出し、再チャレンジ。
今度は慎重に石を当てて、カン、カンと叩く。
——でも、地面が硬くて、ぜんぜん入っていかない。
ぐいぐい押してるうちに、ペグがぐにゃりと曲がった。
「うわっ!……うそでしょ!?」
《初キャンプあるある・その二》
——地面は思ったより強敵、アルミは思ったより無力。
打てそうなところはなんとか頑張ったけど、残りのペグは諦めて、代わりにまわりの石を集めて重しにすることにした。
「……まあ、風で飛ばなきゃいいよね」
そして、最後の工程。
くるくると巻かれたアウターテントを広げ、そっとインナーの上に被せる。
あとは四隅を合わせて、フックでしっかり固定して――
「……よしっ、完成!」
ちょっと歪んでるけど、ちゃんと立ってる。
思ったよりも大きくて、頼もしく見えた。
ふぅ、とひと息。
少しだけ汗ばんだ額を拭って、メイはそのテントを見おろした。
「私が立てたテント……」
そんな小さな達成感が、胸の奥でじんわりと広がっていた。
「次は……座るところとか、テーブルとか組み立てないとっ」
…椅子を忘れたショックは、まだ消えてないけど。
気を取り直して、準備に取り掛かる。
レジャーシートを広げて、四隅を石でしっかり押さえたメイ。
その上に銀マットを重ね、座るスペースを確保する。
「よし……ここが今日の“私のお城”」
小さくうなずいて、今度はテーブルを組み立てる。練習の成果か、手はスムーズに動き、あっという間に完成。
その上には、卓上コンロとやかんをセット。
横には、マグカップとインスタントコーヒー、虫除けスプレーも控えさせる。
「……あ、そうそう。これも、ね」
リュックの中から、ブロンズ色のオイルランタンをそっと取り出して、テーブルの片隅に置いた。
おばあちゃんから貰ったランタン。
「昼間だけど……なんか、あると落ち着く気がする」
ちょっと照れくさそうに、ランタンを撫でる。
「……完成、かな」
パンパンと手を払って、メイはひと息ついた。
オレンジ色の、ころんとしたテント。
その前に敷いた、薄緑のストライプのレジャーシートと銀マット。
脇には小さなブラウンのローテーブル。卓上コンロとマグカップ。
そして、ちょこんと置いたブロンズのオイルランタン。
はじめて自分でつくった、キャンプの“サイト”。ちょっとごちゃっとしてるけど――でも、なんか、それも悪くないかも。
ぐるっとまわりを見て、小さくうなずく。
そしてスマホを取り出して、そっと一枚、シャッターを切った。
「……ふふ、けっこういいかも、私」
銀マットの上に、ちょこんと座るメイ。
涼しい風。川のせせらぎ。ひとり占めの河原。
自然の中にいる、という実感がじわじわ湧いてくる。
一人前キャンパー気分で、得意げにニヤける。
「……さて、コーヒーでも淹れ――」
その時だった。
カサッ。
「……ん?」
視界の端、マットのすぐ横を、何かが跳ねた。
「え、ちょっ……なに!」
ピョコン。
現れたのは、黒っぽくて、足が長くて、ちょっとでかいやつ。
「カマドウマーーーーー!!」
思わず立ち上がり、やかんを左手に、虫除けスプレーを右手に装備。
「無理無理無理、ほんと無理だからっ……!」
腰を落としかけていた銀マットを避け、そろそろと後退。
虫はピョン、と跳ねただけで、もう草むらの奥へ。
でも、メイの心の平穏は、しばらく戻ってこなかった。
《キャンプあるある・その三》
“今、最高かも”と思った直後、だいたい災難はおこる。
「……なんでよりによって、今なんだろ」
やかんを持ったまま立ち尽くすメイ。
自然は、想像以上にワイルドだった。
◇◇◇
カマドウマ襲来の衝撃も落ち着いた頃。
銀マットの上に腰をおろし、メイはやかんに水を入れて卓上コンロに置いた。
カチッと点火ボタンを押すと、勢いよく火が立ち上がる。
「……あ、ちゃんとついた」
当たり前だけど、ちょっと安心する。
いつの間にか、空はすっかり晴れていた。
川の音は変わらずざあざあと響いていて、それが逆に静けさを感じさせる。
「ふう……」
風が通るたびに、背中のシャツがふわっと膨らむ。
日差しはかなり強くなってきていたけれど、川を渡る風のおかげでなんとか過ごせる。
やかんの注ぎ口から、白い蒸気が立ち上り始める。
メイはスティックコーヒーをマグカップに入れて、お湯を注いだ。
ふわっと、いい香り。
(……やっぱり、これだよね)
だけど、カップを唇に近づけた瞬間――
「あっっっっつ!!」
あわてて置く。アツアツすぎる。
思わず手をぶんぶん振ってしまった。
「……そっか、夏だもんね。ホットはちょっと無理かも」
クーラーボックスから氷を何個か取り出して、カップにポトポトと落とす。
やがてカラン……と鳴る音とともに、アイスコーヒーが完成した。
「よし、これなら……」
ひと口飲む。冷たくて、ほっとする。
喉の奥を通るたびに、体の熱がすうっと引いていくような感じ。
「……やっぱり、こうでなくちゃ」
マグを持ったまま、ふと視線を横に向ける。
——そのとき、はじめて気づいた。
メイのテントから少し奥。キャンプ場の一角に、ベージュのテントが張られている。
「……あれ?」
たぶん、50メートルくらい先。
まわりに遮るものはなく、見ようと思えばお互いの様子はわかる距離感。
さっきまで、誰もいないと思っていた。
でも、よく思い出せば、テントを立ててる時に、バイクが一台通っていった気がする。
(あの時の……)
人の姿は見えない。でも、間違いなく誰かが来ていたんだ。
(そっか、私ひとりじゃなかったんだ)
ちょっとだけ、残念。
でもちょっとだけ、安心。
マグカップを両手で包みながら、メイはもう一度、遠くのテントを見つめた。
(……どんな人なんだろう)
ゆっくりと風が吹き抜ける。
真夏の空は、さっきより青くなっていた。
◇◇◇
アイスコーヒーを飲み干したころ、そろそろ…とメイは体を起こした。
(……トイレ、行っとこう)
リュックのポケットから場内マップを取り出して確認。トイレは、炊事場のちょっと先。そこまで遠くはないけど、日差しの下を歩くとなるとちょっと気が引ける。
(でもまあ……それもキャンプってことだよね)
銀マットから立ち上がり、帽子をかぶり直し、ハンドタオルを持って、てくてくと歩き出す。道は平坦。誰もいない河原のサイトは、ほんとうに静かで、足音だけがやけに響く。
「うわ……きれい……」
たどり着いたトイレは、思ったよりずっと新しくて清潔だった。
掃除も行き届いているし、虫もいない。
(キャンプ場のトイレって、もっとこう……野性味あると思ってた)
ちょっと感激しながら、用を済ませて外へ出ると、涼しい風がふわっと頬をなでた。
(さて、戻ろう)
トイレから炊事場への坂をくだりかけたとき――炊事場のあたりに、人影が見えた。
あっ、誰かいる――
水場で軽く手を洗っていたその人は、短めの髪にベージュのキャップ、黒いウエストバッグを斜めに背負っている。どうやら女性のようだ。
動きは落ち着いていて、どこかクールな雰囲気を漂わせていた。
(……たぶん、あのテントの人だ)
メイの中で、脳内マニュアルが起動する。
(キャンプ場では、すれ違う人に挨拶するのがマナーだ、って……)
直立。不自然なまでに姿勢を正して、メイは口を開いた。
「こ、こんにちは……!」
我ながら声がうわずった。
その人は、すこし意外そうにメイの方を振り向いた。
鋭い目元に、メイは思わずたじろぐ。
(……まずかった?)
けれど、次の瞬間。
落ち着いた声が返ってきた。
「あ、こんにちは」
たったそれだけ。表情もほとんど動かない。
けれど、その声には、不思議とやわらかさがあった。
メイは小さく頭を下げ、そのままそそくさと通りすぎる。
炊事場を抜けたところで、ふぅ〜とひと息。
(あの人……やっぱり、あのテントの人だよね)
(ちょっと怖そうに見えたけど……でも、感じは悪くなかったかも)
河原への坂道を下りながら、胸の奥にうまく言葉にできない余韻のようなものが残った。
メイはそれを、そっと胸の中にしまい込んだ。
◇◇◇
トイレからテントに戻り、スマホの時計を見る。時刻は11時を少し回ったところ。そろそろ、お昼前のいい時間。
(よし、いよいよ焚き火だ)
初めての焚き火。そう思うと、心の奥から、じんわりとしたワクワクが湧いてくる。
家の和室で何度も練習した手順を思い出しながら、メイは焚き火台を組み立てていた。
焚き火台の上に、さっき買った広葉樹の薪を一本乗せてみる。……でかい。重い。硬い。
メイはバッグから取り出したナタを握りしめ、石を相棒にパドリングを始めた。
「えいっ……! ん、もう……っ!」
何度もナタを打ち込んでみるけど、なかなか割れない。
「このナタ、研がないとダメかも…」
そう思っても、あとの祭り。
ようやく、何本かは裂けたけど、思ったより細くならない。
(これでも、いける……かな?)
希望を込めて、着火剤をセット。持ってきた段ボールの破片も添えて、ライターで火をつける。
ボッ、と火が上がる。
「……よしっ」
だけど、その炎は、あっという間にしぼんでいった。
何度やっても、薪がうまく燃えない。
焦げるだけで、火が広がらない。
「え、うそ……」
着火剤はもう残ってない。
焚き火台の前にしゃがみこんで、メイはじっと薪の黒ずんだ表面を見つめた。
何を間違えたんだろう。
そもそも、広葉樹って、燃えにくかったっけ……?
うなだれるメイ。
さっきまであんなに楽しみにしてたのに、いまはちょっと泣きたくなる。
テーブルの端に置いた、おばあちゃんにもらったオイルランタンが視界に入る。
火の灯ってないランタンに話しかける。
(どうしたらいいの……)
……ぽつん、風が吹いた。
そのときだった。
「それ、もうちょっと細くしないと、火つかないよ」
メイの頭の上の方から、落ち着いた声が聞こえた。
顔を上げると、さっきのクールな人――
ベージュのテントの主が、立っていた。
メイは、びっくりして、立ち上がろうとしてつんのめる。
「うわっ……」
——第39話へ、つづく——
ここまで読んでくださってありがとうございます!




