第34話 畳の上の、小さなとびら
ある日の夕方。
仕事を終えて帰ってきたメイは、着替えもしないまま、リビングの椅子に腰を下ろした。
いつもなら、とりあえずコーヒーを淹れるところだけど——今日はすっかり忘れていた。
気づけば、バッグから取り出したキャンプ入門書とスマホが、目の前のテーブルに並んでいる。
スマホには、あの日からずっと更新してきた「欲しいものリスト」。
「ランタン、焚き火台、銀マット……」
メイは指先で画面をなぞりながら、ひとつひとつチェックを入れていった。
「で、今日届くのが……テント!」
この間、エマゾンでぽちっと注文した一式が、夕方には玄関にやってくる予定だ。
ふと顔を上げると、リビングの壁にかけたカレンダーが目に入った。
今日の日付には赤い丸。
その下には、赤ペンで小さく「あと50日!」と書かれている。
(……そうだ、ブックカフェのオープン日)
(もう二ヶ月を切ったんだ……はやいなぁ)
ただ過ぎていくだけだった日々が、気づけば少しずつ色づきはじめている。
焚き火の動画を見つけて、おじいちゃんの骨折で西伊豆まで出かけて、黄金崎で夕日を見て——
そして、詩音というにぎやかな存在が現れて。
気がつけば、自分でも驚くくらい、キャンプという世界に足を踏み入れようとしてる…なんだか不思議だ。
(なんか、色々あったな……)
ぽけーっとしていたら「ピンポーン」と、インターホンが鳴った。
「はっ……!」
思わず椅子から立ち上がり、軽くつまずきかけながら玄関へ向かう。
「こんにちはー、宅配便でーす!」
来た!
メイは勢いよくドアを開け、受け取ったダンボールを抱えて、リビングに小走りで戻った。
テーブルに置いて、ダンボールを開けたとき、なんだかちょっと胸が高鳴った。
中から出てきたのは、オレンジ色の袋に入ったテント。思っていたより、ずいぶんコンパクトだった。
「……これで本当にテントになるの?」
袋をそっと抱えて眺めながら、あの日のことを思い出す。
アウトドアショップ「マウントワン」で、店員のお姉さんが親切に教えてくれた話。
「使用人数プラス1人くらいの大きさが安心ですよ」
「スカート付きの方が隙間風が入りにくいです」
「ダブルウォールだと結露対策になりますから…」
いっぱいもらったアドバイスをもとに、エマゾンで探した、フォーシーズン対応の二人用テント。
形も、ショップであの時ちらっと見かけたオレンジのテントと、どこか似ているドーム型。
出来ることなら、あのお姉さんのところで買いたかったけど、予算を考えると、この低価格テントになってしまった。
ちょっとだけ、お姉さんに後ろめたい気もしたけど……予算には勝てなかった。
そんなことを考えながら、オレンジの袋を見続けていたメイだったけど、やっぱり我慢ができなくなる。
(よし。今からこれを立ててみよう。)
そう心で叫び、立ち上がった。
(テント立てるなら、一階の和室かな)
昔、おじいちゃんとおばあちゃんが使っていた部屋。タンスと鏡台以外にはほとんど物がなく、いまはぽっかり空いた空間になっている。
ソロテントを立てるには、うってつけの部屋。
和室に入ると、昼の熱気が畳にこもっていて、ちょっと息苦しい。外の空気を入れようと、窓を全開にした。もわっとした夕方の空気が流れ込んできたが、開けないよりはましだった。
メイはテントの袋を開いて、中身をひとつひとつ並べていく。
テント本体とポール、それにペラペラの組み立て説明書。
「……うん、焚き火台のときよりは、ちょっと複雑そうかも」
深呼吸して、説明書を裏表じっくり読む。
そして、ぐっと拳を握った。
「いざ、設営開始!」
まずはインナーテントを広げる。……けど、どっちが前?
生地をそっと広げてみては、説明書と首を交互にかしげる。
正面を確認すると、それを和室の縁側に向けて置き直す。
次に、ショックコードで繋がったポールを組み立てる。
シャキーン、と気持ちよくつながる感じがちょっと面白い。
スリーブに通すのに夢中になっていたら、背後のポールが壁にゴン。
「あっぶな……傷つけるとこだった……」
気を取り直して、慎重にポールを通し、いよいよ立ち上げ。
フレームの片方をピンに差し込んで、反対側へ。……と思ったら、先に差した方がポロッと抜ける。
「えーっ、もう〜!」
額に汗がにじむ。
(やっぱりエアコンつけよっと)
窓を閉めて、和室のエアコンをオンにする。涼しい風が出てきたところで、再挑戦。
今度は、慎重にポールをしならせて、ピンに差し込む。
「おっ!うまくいった」
もう片方も慎重に差し込む。
「……立った?」
インナーテントが、ぴんと立ち上がった瞬間、ちょっと感動した。
「わ、すごい、ちゃんとそれっぽい!」
初めて立てたテント。
まだインナーテントだけだけど、気持ちが上がったのがわかった。
次はアウターテント?…いや、フライシートと言うらしい。
これも、どっちが前かわからず四苦八苦。
あーでもない、こーでもないと格闘しながら、なんとか四隅をフックにとめて…
やっと設営完了。
かなり汗だくになったけど、なんとか一人で立て切った。
見事?に立ったテントのまわりをぐるりとして、眺めてはスマホを構えて、何枚か写真を撮る。
いつの間にか、顔がゆるんでいた。
「……入ってみよ」
入り口のファスナーを開けて、そっと中に入る。
そこには、オレンジ色の小さな空間があった。
真ん中にちょこんと座って、天井を見上げる。
意外と広い。というか、落ち着く。
「……なつかしい感じ」
こうしてテントに入るのは初めてのはずなのに、なぜかそんな感じがした。
寝転んで、大の字になってみる。
もう一度天井を見る。
「自然の中で、ここでこうして寝るのかぁ」
そんな妄想をしながら、メイの顔はにやけっぱなしだった。
スマホで時間を見る。気がつけば、もう1時間ほどたっていた。
「……けっこうかかったなぁ」
そう思ったそのとき、スマホがぶるっと震えた。
(……あ、Rain)
画面をのぞくと、詩音からのメッセージ。
「買っちゃった!」
メッセージのすぐ下に添えられていたのは、満面の笑みで写真集を抱える詩音の自撮りだった。
頬をくしゃっと緩めて、目も笑ってて――まるで、子どもみたい。
「ふふっ……」
メイもつられて笑ってしまう。
自分の中にも、ほんのりあったかい気持ちが広がっていく。
指先が自然と動いて、返信を打った。
『いい笑顔だ』
すぐに、ぴこん。
「笑顔は私のアイスティーだから!」
『なんだそれ?』
「えーん、メイちゃんのいけずー!」
なんだか噛み合わない会話に、メイはぷっと吹き出した。
(いけず、ほんと最近のお気に入りだな……)
にやけた顔のまま、ふとテントの天井を見上げる。
(実は、私も買っちゃったんだ…)
まだ一度も使ってないし、うまくできるかもわからない。
だから——今はまだキャンプのこと、言わなくていいかな。
そっとスマホを胸に置いて、メイは小さく息を吐いた。
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