第33話 呼んだ本と、呼ばれた気持ち
九月六日のグランドオープンまで、もう五十日を切った。
ブックカフェ・ラフォーレ・リーヴルスの店内では、開店に向けた準備が着々と進んでいる。
各店舗から集められた精鋭たちは、手際もよく、雰囲気も穏やか。慌ただしさよりも、期待の空気が漂っていた。
朝の陽射しはすでに容赦なく、店の外はじんわりと蒸し暑い。
けれど店内は空調が効いていて、ほんのり涼しい。足元から冷気がふわりと上がってくるのが心地よかった。
そんな静かな空気を破るように、控室のドアが勢いよく開いた。
「おっはよーございまーす!小豆沢詩音、ただいま参上!」
明るい声が店内に響く。
カウンターにいた高見沙織が振り返り、思わず笑った。
「おはよう、詩音ちゃん。今日も笑顔全開だね」
「笑顔は私のアイスティーですからっ!」
どや顔で言った詩音に対して、近くで伝票を確認していたカフェスタッフの小野寺ユキが、表情を変えずぽつりとつぶやいた。
「……多分、“アイデンティティ”と言いたかったのでは」
「あっ、それそれ!」
沙織が苦笑いで聞きかえす。
「なにそれ。ボケ?それともガチ?」
「ボケだよ!?もちろんボケだし!」
詩音がじたばたと手を振ると、ユキがさらりと返す。
「今の語感からすると、ガチに聞こえました」
それを聞いて、周囲のスタッフたちからくすくすと笑いがこぼれた。
「さすが詩音ちゃん、ボケまでレベル違うね」
沙織のひと言に、詩音がぷくっと頬をふくらませる。
「もう〜沙織ちゃんったら、いけず〜!」
わっと笑いが広がる。
三人の軽いやりとりに引き寄せられるように、仕事の準備をしていたスタッフたちが集まってくる。
店内は、やわらかい空気に包まれていった。
その様子を、少し離れたテーブルから見ていたのは、鈴原敦子店長とカフェスタッフのリーダー、林美智子だった。
アルバイト面接前の打ち合わせを兼ねて、資料に目を通していたふたりが、視線をカウンターの方へ向ける。
「……なんか、あの子がいると、空気がパッと明るくなるのよね。ひまわりみたい」
と、鈴原店長。
「確かに。仕事覚えも早いし、動きも悪くない。ああ見えて、案外周りも見てます」
と、美智子が頷く。
「集中力さえ持続すれば、ほんと申し分ないんですけど」
「ふふ、集中力ね。……でもまあ、それは、これからでしょ」
店長の視線の先には、スタッフたちの中心で笑っている詩音の姿があった。
その表情は、どこかやさしく、うれしそうだった。
◇◇◇
午後三時すぎ。
ラフォーレ・リーヴルスの店内は、ひと段落ついたような穏やかな空気に包まれていた。
本棚エリア。エプロンを外した詩音は、背中にぺたりと張りついたシャツを引っ張りながら、そっとため息をついた。
「……面接、やっぱ失敗だったなぁ」
──さっきの面接。
詩音は、鈴原店長、美智子と並んで、面接官の席に座っていた。
人生で初めての経験。
そわそわして、手は落ち着かないし、背中は無駄にまっすぐ…何度も目だけが泳いだ。
終盤、店長がふいにこちらを見て言った。
「……何かありますか?副主任から」
(えっ、私!?今!?)
心の中で叫びながら、頭の中がぐるぐる回る。
なんでもいい、なにか聞かなきゃ、って思ったその瞬間——
「……す、好きな食べ物は、なんですか?」
なんでそれを聞いたのか、自分でもわからない。さらに、返ってきた答えが、「キクラゲです」とは…
それをフォローする余裕もなかった。
「……なんで、あんな質問しかできなかったんだろ……」
本棚の前で、ぽつりとつぶやく。
そのあと、小さく肩をすくめるように、
「……きくらげ、ねぇ……」
そう呟いて、自分でも苦笑いした。
そんな時、目に入ってきたのは、見覚えのある写真集『風のあとを、歩いて』。
気がつくと、そっと手を伸ばしていた。
ページをめくると、朝の森、揺れるススキ、誰もいない海辺のベンチ。そしてお気に入りの、風の草原を少女が歩いていく写真。
心がふっと軽くなり、そっと背中を押された気持ちにしてくれる写真。
ページを閉じて、表紙をそっと撫でる。
「……やっぱ、いいな」
遠くを見つめる…
そして、何かひらめいたよう、詩音は小さくうなずいた。
「……うん!やっぱり、そうしよう」
そう思いながら、写真集をそっと本棚に戻した。
◇◇◇
仕事帰りの夕方。
詩音は、矢鞠駅とは反対方向へ向かっていた。目指すは葛城書店。
(あるといいなぁ……売り切れてませんように!)
そう願いながら、涼しい店内に入ると、まっすぐ写真集の棚へ。
「あった、あった!」
『風のあとを、歩いて』
カフェで何度もページをめくった、あの一冊が、きれいに並んでいた。
「よかった……」
手に取って、にこっと微笑む。
ほんの少し、それだけで気持ちがふわっとあたたかくなる。
「あら、詩音ちゃん? 珍しいわね」
ぱっと顔を上げると、葛城書店のロゴ入りエプロンを着けた柳森さんが、すぐそばに立っていた。
やわらかく微笑む、落ち着いた佇まい。
見つかった、っていうより——気づけばそばにいてくれた、という感じだった。
「あ、柳森さん! なんか、お久しぶりですね」
「そうね、最近そっちに顔出してなかったから。……このお店、初めてかしら?」
詩音は、一瞬返答に詰まる。
(うわ、まさかの質問……スパイ活動中に一度、来ましたとは、さすがに言えない)
「えっと、まあ、そうです……はい」
「ふふ、そうだったのね」
その時、柳森さんの視線が詩音の手元に向いた。
「あ、その写真集……」
詩音は手元を見ながら、少しはにかんだ。
「カフェで見かけて、すごく気に入ったんです。どうしても欲しくて」
「そっか、それはうれしいわ。見つかってよかったじゃない。
きっと、その本に呼ばれたのね」
にこっと微笑む柳森さんに、詩音もつられて笑った。
「……えへへ」
ほんのひとことと、ほんの笑顔。
でも、それだけで、心がぽかぽかするような気がした。
写真集を大切に抱えたまま、詩音はレジへ向かった。
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