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第29話 ちょっと好き、たぶん好き


朝の矢鞠駅前。


空は少しだけ霞んでいたけれど、日差しはもうすっかり夏の気配だった。


改札を抜けた詩音は、カフェのスタッフTシャツに薄手のカーディガンを羽織りながら、駅前のロータリーをきょろきょろと見回した。


「あ、いたいた。沙織ちゃーん!」


小走りで近づくと、少し先にいた沙織が振り向いた。


「おはよ、詩音ちゃん。……って、なんか今日テンション高くない?」


「え、そう? 普通だよ、いつも通り!」


口ではそう言いながら、気分はちょっとだけ浮ついているのを自分でも感じていた。


沙織は、目を細めて笑った。


「うん、そうだね。“いつものシオンちゃん”って感じだね。……瑞稀から聞いてた感じに近いっていうか」


「え?」


「ん? あ、ううん、なんでもない」


そう言って沙織はさりげなく話を切り替えたけれど、詩音の頭には「瑞稀から聞いてた」の部分がちょっとだけ引っかかった。


でも、駅前の信号が変わり、ふたりはいつものように並んで歩き出す。


「さてさて、今日も張り切ってこー!」


詩音が拳を軽く掲げると、沙織がくすっと笑った。


「うん、頼りにしてます、副主任さん」


ほんのりと軽やかな朝の空気が、ふたりの歩調にそっと寄り添っていた。


◇◇◇


朝の準備がひと段落した頃、カフェ・ラ フォーレ リーヴルスのカフェエリアに、スタッフたちが静かに集まり始めていた。


日差しはもう夏の光なのに、冷房のきいた店内はどこか落ち着いていて、本を読むにはちょうどいい空気。


詩音は椅子に腰を下ろしながら、昨日とは違う気持ちでこの空間にいる自分を感じていた。


(なんか……ちょっと楽しみかも)


ほどなくして、柳森さんが現れた。いつもと同じ、涼しい顔。


「じゃあ、今日も少しだけ、お付き合いください」


そう言って、彼女は手元の小さなノートをめくった。


「よく聞かれるんですよ。“ブックカフェの店員って、蔵書全部覚えてるんですか?”って」


思わずくすっと笑いが漏れる。隣の沙織も、うなずきながら笑っている。


「全部、なんて無理ですよ。でもね、大事なのは、“このお店にある本と、自分との距離感”なんです。全部を覚えなくても、ちょっとだけ知ってる、で十分。

むしろ、お客さんと一緒に探す”姿勢"の方が、ずっと大切」


詩音は思わずうなずいていた。


「普通のカフェと違うのは、本があることで、空間に“声”や“気配”が生まれることです。

“なんとなく疲れてる人”や“ぼんやり座ってるだけの人”にも、本はそっと寄り添ってくれる。

だから私たちは、その“気配”に気づける存在でいたいなって、思うんです」


(寄り添う本……なんか、いいな)


言葉が、静かに詩音の中にしみ込んでいった。


「今日のテーマは、“ちょっとだけ好き、から始まる読書”。

たとえば、タイトルがちょっと気になるとか、表紙がかわいいとか、それだけでも立派な“出会い”です」


そう言って柳森は、一冊の本をそっと手に取った。


『ほんのひとこと、やさしい夜に』

水彩のやわらかなタッチで、カップと星が描かれた小さな短編集だった。


「この本、全部読まれなくてもいいんです。コーヒーを待ちながら、2ページだけめくる。それだけでも、その人の心に、ぽっと火が灯るかもしれない」


言葉を重ねるたびに、店内の空気がふんわりやさしくなっていく。


「じゃあ今から、本棚の中を歩いてみてください。“今日の自分に合いそう”って思う本を、なんとなくでいいので探してみてください」


椅子を引く音、ページをめくる音。スタッフたちはそれぞれ、本の森に踏み出していく。


詩音もそっと立ち上がった。


(昨日より、ずっと楽しみかも。

……“好き”って、こういうことなんだろうな)


ふと視線を上げると、反対側の棚の前で立ち止まっている沙織と目が合った。


「シオンちゃん、真剣だねぇ」と口パクしてくる彼女に、小さく笑ってみせる。


そのまま詩音は、昨日も気になっていた一冊をそっと手に取った。

『海街diary』──

ページをめくると、姉妹たちの日常が、淡く、やさしい色で描かれている。


(……やっぱ、好きかも、こういうの)


心の奥で、何かがふっと灯った気がした。

しばらくページをめくる手が止まらなかった。


「皆さん、自分に合いそうな本は見つかりましたか?」

柳森さんの穏やかな問いかけに、あちこちから小さなうなずきや笑顔が返ってくる。


柳森はその様子を見て、やさしく微笑んだ。

「それがまさに、“出会い”なんです」


そして声の調子を少し落とす。

「──はい、じゃあ今日はここまで。おつかれさまでした」


柳森さんの声に、みんながゆっくりと集まってくる。


「また明日もよろしくお願いしますね。次は“本棚の向こうにある風景”を、少しだけ見てみましょう」


やさしい声に見送られながら、詩音は手に取った本を名残惜しそうに棚に戻した。


(もっと、いろんな本を見てみたいな)


そんな思いが、じわりと胸に広がっていく。


もうすぐお昼休み。控え室に向かうスタッフたちの足音が、静かに店内を通り過ぎていった。


◇◇◇


午後になり、店内はまた少しだけざわついていた。

カフェスタッフたちは、それぞれの持ち場へと散っていく。

什器の配置、カウンター備品の整理、ガラス面の拭き上げ──詩音も段ボールを抱えてバックヤードをうろうろしていた。


そんなとき、鈴原店長が声をかけてきた。


「小豆沢さん、本棚コーナー、お願いできる?旅とエッセイの棚のところ。少し詰まり気味なのよ」


「了解ですっ!」


さっと返事をして資料を胸に抱え、店内の本棚コーナーへ向かう。


向かってみると、そこには既に誰かの姿があった。


「あれ……平瀬さん?」


振り返ったのは、メイだった。作業用の手袋をしていて、脚立の上段に並んだ面出しの本をひとつ、静かに手に取っている。


「あ、こんにちは。……今ちょっと、本の並びを確認してて」


「あ、そうなんですね。私、店長にここ頼まれて。詰まり気味って言われて……」


「あ、じゃあ……いっしょに、やりますか?」


「あ、はいっ。よろしくお願いします」


ほんの短いやりとりだったけれど、どこか、昨日より自然だった。


言葉数は少ないけれど、メイの声はやさしくて、詩音の胸の奥でふっと何かがゆるむ。


本棚の前。カフェのスタッフと、文学館の職員。

立場はちがうけれど、並ぶ本を前にしたら、なんだか同じ側に立っている気がした。



詩音はしゃがみこんで、下段の棚の本をゆっくりとずらしていく。


横では、メイが面出しのパネルを慎重に差し替えている。

本を扱う所作が、どこか丁寧で、やさしい。

ページの向こうにいる誰かにまで、ちゃんと気を配っているような手つきだった。


(なんか……いいな。こういうの)


昨日よりもぐっと近くで、平瀬さんの“仕事”を見ることになった詩音は、ちょっと感心していた。

それと同時に、昨日の"キツネ事件"とのギャップも感じてしまう。


「あのぉ……昨日の“きつね”、まだちょっと笑えるんですけど」


思わず口をついて出た言葉に、メイがちらりと視線を寄せた。


「……笑いすぎですよ」


「いやだって、物理的に“森のうたうきつね”が落ちてくるって……あんなの、ずるいです」


メイは苦笑して、それからほんのすこしだけ、笑った。

その笑みを見て、詩音の頬も緩む。


ふたりの間の空気が、少しだけやわらかくゆるんだ。


「でもなんか……昨日からちょっと、本、気になってるんですよね」


「……気になってる?」


「うん。講義、けっこう面白くって。

なんか、ちょっとだけ好きかも、って思ったら……そこから先があるって、いいなぁって」


「……そうですね。そうやって好きになる人、多いですよ。うちの文学館でも」


詩音は手にした本をととのえながら、ちらりとメイを見た。


「平瀬さんは……本、好きなんですよね?」


その言葉に、メイは一瞬だけ手を止めた。

そして、本の背表紙をそっと指でなぞるようにしてから、静かに言った。


「……あんまり、声を大にして言えるほどじゃないけど」


「え?」


「私、好きなの……UFOとか、超常現象とか……そういう本で」


詩音の目がぱっと輝いた。


「え、めっちゃいいじゃないですか、それ!」


「……えっ?」


「私も好きです、そういうの!都市伝説とか、心霊とか、宇宙人とか!YouTubeで“未確認なやつ特集”とかずっと見てますもん!」


勢いよくまくしたてる詩音に、メイはちょっと驚いたように目を丸くする。


「……でも、なんか意外です。

もっと“文学少女”みたいなのが好きなのかと思ってました」

詩音が小さく笑ってみせた。


「よく言われます。でも……じつは“宇宙の彼方で地球を見てる何か”とか、“砂漠に埋まった古代遺跡に残る謎”とか、そういうののほうが、ドキドキするんです」


「うんうん、わかります! 夢がありますよね、そういうの!」


予想以上の食いつきに、メイの表情がゆるんだ。

そして、少し照れながら、ぽつりとこぼす。


「……よかった。言ってみるもんですね」


「じゃあ今度、UFO系でおすすめの一冊教えてくださいよ」


「……探しておきます」


くすくすと笑いが、ふたりを包み込む。


そんなとき、詩音がふと手に取った一冊を見て、小さく声を上げた。


「……わあ、これ、なんか素敵」


それは、カフェと雑貨と、ちょっとした旅のエッセイが詰まった本だった。

イラストや写真が多く、ページをめくるだけでも気分が明るくなる。


「……でも、こういうのも好きかもって思うけど……うーん、まだ、自分がどんな本に惹かれるのか、よく分かんなくて」


詩音は本のページをなぞるようにしながら、ぽつりとこぼした。


「昨日から本のこと、ちょっとずつ好きになってきた気はするんですけど……“これ!”っていうのは、まだなくて」


それを聞いたメイは、しばらく棚の方を見つめたまま、やさしく頷いた。


「……それで、いいと思いますよ」


詩音が顔を上げると、メイはやわらかく微笑んでいた。


「本って、急に飛び込んでくることもあるけど……だいたいは、ふとした拍子に、そっと隣に座ってくるものだから」


「……隣に座る?」


「はい。だから、小豆沢さんも、きっとそのうち、“あ、これ好きかも”って思える本に出会えます」


その言葉に、詩音の胸がじんわりあたたかくなった。


「……なんか今、それ、すごく沁みました」


「ふふ。よかったです」



ほんの短いやりとりだったけれど、どこか、お互いに安心して言葉を交わせるようになっていた。

ページをめくるように、また一枚、ふたりの間の距離がやわらかく縮まったような気がした。


◇◇◇


「詩音ちゃん、おつかれ〜!先に帰るね〜!」


「うん、おつかれさま〜!」


沙織たちの声が背中越しに響く。詩音は軽く手を振って見送った。


カフェのスタッフたちが帰っていった後も、詩音はなんとなく足を止めていた。


(うーん……もうちょっと、見てこうかな)


目の前には、まだほのかに新しい木の香りがする本棚が並んでいる。昼間、あれこれ動き回って並べた本たちが、今はしんと静かにそこにある。


ふらりと、その合間に入り込む。


(昨日より、なんか気になる本が増えた気がする……)


「……あら、詩音ちゃん。まだいたの?」


そこ声に振り向くと、柳森さんが入口近くで肩掛けカバンを整えていた。


「あ、はい。なんか……ちょっとだけ、本を見てこうかなって」


詩音はバツが悪そうに笑う。


「ふふ、本に呼ばれちゃったのね?」


「……はい、かもです」


くすっと笑う柳森さんが、足音も静かに詩音の隣まで来て、棚の並びを一緒に見渡す。


「“好きな本を探す”って、実はすごく贅沢な時間なのよ。焦らなくていいから、自分の気持ちにちょっと耳を澄ませてみて」


「耳を、ですか?」


「そう。本が“こっちだよ”って呼んでくる瞬間が、あるのよ。意外と、表紙とか、背表紙とか、ほんのちょっとしたことで」


詩音は「へぇ…」と小さくつぶやいて、その言葉をかみしめるように棚へ視線を戻した。


「じゃあ、私はこれで。見つかるといいわね、“詩音ちゃんの一冊”」


そう言って、柳森さんは手を軽く振って、出入り口へ向かっていく。


「……お疲れさまでした」


深くお辞儀をした後、詩音は、さっきの言葉を胸の中で転がしながら、本棚の前にしゃがみこんだ。


(“本が呼んでくる瞬間”……かぁ)


何気なく滑らせていた視線が、ふとある一冊で止まる。


『風のあとを、歩いて』



表紙には、木洩れ日がきらきらしている森の道と、そこに佇む女性の後ろ姿。なんとなく幻想的な写真。


手に取って

開いて、1ページ。

2ページ。

フォトエッセイのようだ。


風に揺れる草、白いテーブルの上に置かれたノート、廃駅のベンチに座った猫。

何でもない風景ばかりなのに、どれも胸の奥を、ちいさくノックしてくる。


ふと、一枚の写真に目が止まる。


広い草原。少し揺れている長い草の中を、一人の少女が歩いている。風になびく髪や青いワンピースの裾がふわっと浮いていて、背中には陽射し。


ページのすみには、手書きみたいな字で、こう書かれていた。


──歩いていれば、風が背中を押してくれる。


「……いいな、これ」


その言葉が、するっと胸に入ってきた。


なにかが始まってる気がする、っていう感じ。

まだ何かは分からないけど、自分でもちょっと楽しみだった。


(平瀬さんが言ってた、“隣に座ってくれる本”って、こういうのかも)


そっと本を閉じて、棚に戻す。

目を細めて、ぽんっと軽く自分の頬を叩いた。


(……やっぱ、本って、いいよね)


「よーし……がんばるぞー!」

詩音は、大きな声で拳を大きく突き上げる。


誰もいない店内に、元気な声が響き渡った。




ここまで読んでくださってありがとうございます!

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