第26話 第三次接近遭遇
梅雨が明けるには、まだ少し早い七月半ば。
空は一面に雲が広がっていたけれど、今日は雨の気配もなく、歩くにはちょうどいい。
資料を詰め込んだトートバッグを肩に掛け、メイは矢鞠市中央公園を抜けていく。
自宅から文学館の前を通り、この公園を横切るのが最短ルート。
朝の澄んだ空気と、緑の匂いに包まれて歩くのは、それだけで心地よかった。
やがて視線の先に、木造とガラスを組み合わせた建物が見えてくる。
開業準備の真っ最中にあるブックカフェ——「カフェ・ラ フォーレ リーヴルス」。
(ここに来るのは、初めてだな……)
近くに寄ると、外観はほぼ出来上がっているようで、木の香りが風に乗ってかすかに漂ってくる。
窓の向こうには、まだ改装業者たちが忙しそうに動いている姿が見えた。
(柳森さんかぁ……まだ少し緊張するな。
でも、何度か打ち合わせもしてるし……うん、大丈夫!)
以前、葛城書店に挨拶に行ったあと、メイは数回、柳森さんと打ち合わせを重ねていた。
そのおかげで、『あの、綺麗ずぎる柳森さんに会う』と思うだけでガチガチだった頃よりは、かなり気持ちが落ち着いてきている。
「……失礼します」
そっと正面の扉を開けると、内装工事中の店内から声が返ってきた。
「おはよう! いらっしゃい。平瀬ちゃん!」
葛城書店の店長、柳森さんが、にこやかに近づいてくる。
相変わらず洗練された雰囲気で、けれど少し砕けた口調で話すその人柄……今では不思議と親しみを覚える。
「今日は、資料をお持ちしました」
「ありがとう。
ちょうどよかった。あっちでちょっと見せてもらっていい?」
入り口すぐそばにある木製ベンチに並んで座り、二人は打ち合わせを始める。
今日の議題は、展示エリアの備品についてと、広報ポスターのデザイン案。
ざっと仕事の話を終えたあと、柳森さんがふと笑って言った。
「そういえば、ここ来るの初めてだよね?
中、見ていく?」
「いいんですか? ……見たいです」
促されるままに立ち上がり、メイはそっと足を踏み出した。
まだ未完成のカフェの奥、その空間へと——。
高い天井に、たっぷりと光を招き入れるガラス張りの壁。
木製の棚がゆったりと並び、その一角にはすでに数冊の本が置かれはじめている。
清々しい空気に包まれ、メイの胸が自然と高鳴った。
「わぁ……いいですね……」
「でしょ? 細かいところはこれからだけど、雰囲気はだいぶ出てきたでしょ」
柳森さんが、少し誇らしげに微笑む。
「……で、あそこにいるのが、このカフェの店長さん」
視線の先では、やさしげな女性がスタッフに静かに指示を出していた。
「鈴原敦子さん。ああ見えて、かなりすごい人なのよ。目配り、気配りはもちろん、人の心を掴んで動かす力は天下一品」
なるほど、とメイは思った。
スタッフたちの動きが自然と揃っていく様子を見ていると、素人の自分にもその力量が伝わってくる。
「実は敦子さん、私の高校時代の部活の先輩なの」
「えっ、そうなんですか?」
「吹奏楽部でね。私がトランペットで、あの人は同じパートのリーダーだったの」
「柳森さんがトランペット……意外です」
「ふふっ、よく言われる」
そんな他愛もないやり取りをしていた——そのとき。
棚の陰から、ドタドタッと慌ただしい足音が響き、勢いよく荷物を抱えた若い女性が飛び出してきた。
「わっ!」
危うくぶつかりそうになり、メイは思わず身を引く。
「あ、す、すみませんっ!」
深々と頭を下げてから顔を上げたその瞬間——視線がかち合った。
ぱっちりした瞳、どこか見覚えのある輪郭。
「……あっ!」
二人の声が同時に重なった。
「え? 知り合いなの?」
柳森さんが、きょとんとした表情を見せる。
「い、いえ……たぶん……」
「わ、私も……なんか……すみません……」
女の子は顔を真っ赤にし、口を開いては閉じ、また開いては閉じ……と、ひどく挙動不審だ。
「えっと、紹介するね。
こちら、副主任の小豆沢詩音さん。
詩音ちゃん、こちらは、ふれあい文学館の平瀬メイさん。イベントや広報の担当で、これからいろいろ協力してもらうの」
「あ、あのっ……よろしくお願いしますっ!」
勢いよく頭を下げる詩音。
「あ、こちらこそ……よろしくお願いします」
メイも少し戸惑いながら控えめに会釈を返した。
「し、失礼しますーっ!!」
詩音は、ペコペコと何度もお辞儀を繰り返しながら、荷物を抱えて小走りに奥の通路へと消えていく。
残されたメイは、その背中を見送りながら、心の中でぽつり。
(……あの子、葛城書店で怪しくしゃがんでた子だ。間違いない)
確信とともに、もうひとつ思う。
(それに、あのテンション……やっぱり、ちょっと変な子かも。しかも、副主任って……)
(……この店、大丈夫なのかな)
半ば呆れつつそう考えていると、柳森さんがふっと笑った。
「面白い子でしょ。ちょっと天然だけど、仕事は早いし、やるときはやるのよ」
「へぇ……副主任、なんですよね?」
言葉を選んで尋ねながらも、内心では(ほんとに?)とまだ信じきれずにいた。
◇◇◇
詩音の乱入で途切れていた見学を、柳森さんに促されて再開する。
高い天井、整然と並ぶ木の棚、やわらかな間接照明。
ガラス張りの壁の向こうには、公園の木々が風にそよぎ、葉の影がゆるやかに揺れていた。
メイはその空間をゆっくり歩きながら、しみじみとつぶやいた。
「こういう場所で、本を読んで……ふと顔を上げたら外の景色が見える。なんか、いいですね」
柳森さんは、少し誇らしげにうなずいた。
「それが狙いよ。気づいてくれて嬉しいわ」
その言葉に、メイは照れたように微笑む。
気恥ずかしさをごまかすように視線を奥へ向けると——
そこには、さっきの女の子の姿があった。
何人かのスタッフと書類を広げ、にこやかに話しながら笑っている。
ぱっと花が咲くような笑顔。
(……あれ? さっきと全然ちがう)
さっきは顔を真っ赤にして挙動不審だったのに、今はまるで別人だ。
場の空気に自然に溶け込み、きびきびと動く姿は副主任らしくも見える。
(……副主任かぁ。たしかに、そう言われれば……そう見えなくもない、かも)
ほんの少しだけ、さっきまでの印象が変わっていくのを、メイは自分でも感じていた。
◇◇◇
打ち合わせを終えたあと、メイはひとり、公園の小径を歩いていた。
まだ新装の途中だというのに、カフェにはどこか不思議な温かさが漂っていた。
(……いい場所だったな。
それにしても、あの子……小豆沢さんって言ってたっけ。最初は驚いたけど)
ふと浮かぶ、花のように明るい笑顔。
(……なんだか、気になる子だったな)
その理由は、自分でもはっきりとはわからない。
トートバッグを肩にかけ直し、メイは小さく息を吐いた。
やわらかな風に髪が揺れる。
そして、公園の先にある文学館へと、そっと歩みを重ねていった。
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