第23話 これは事件です、うそでしょ?
午前10時過ぎ——
ふれあい文学館のニ階事務室には、いつも通りの穏やかな空気が流れていた。
メイはコピー機の前で、イベントチラシの刷り上がりを確認していた。
少しトナーが薄い気がして、もう一度設定を見直そうとした、そのとき——
「おーい、平瀬ちゃん。ちょっといいかな」
後ろから声をかけられて振り返ると、田中部長が自分のデスクから顔を出して手を振っていた。
(タナ坊の「ちょっといいかな」、ろくなことないんだよなぁ)
そう思いつつも…
「はい、すぐ行きます」
いつも通りの、ふわっとした笑顔でそう答えた。
◇◇◇
「でね、これは“読書文化都市推進計画”の一環なんだけど…」
田中部長のデスクで、話を聞く。
どうやら矢鞠市で今度オープンするお店——ブックカフェの立ち上げに、文学館としても一部関わることになったらしい。
市からの委託で、情報発信の協力やコラボ展示など、関係部署としてサポートする流れになるという。
「で、うちからも一人、連絡係っていうか、調整役で出入りすることになってさ」
「はい……」
「で、お願いしたいなって思って……平瀬ちゃんに」
「わ、わたしですか?」
思わず声が上ずった。
そうきたか、と内心うろたえる。
「もちろん、負担にならない程度でいいから。週に何回か、顔出して、様子見て、資料やりとりするぐらいでさ。
ほら、そういうの、平瀬ちゃん得意じゃん?」
そう言われたら、断る理由なんて……思いつかない。
たしかに、メイの仕事はもともと広報物や展示資料の制作、校正や文書管理といった“間をつなぐ”仕事が多かった。
だれかを引っ張る立場ではないけれど、コツコツ進めることなら……なんとかなりそうだ。
「……わかりました、やってみます」
一拍のあとで、そう返した。
「ありがとう。じゃあ後で資料、メールしとくね。
あ、そうそう。今回のブックカフェさ、蔵書の選定は葛城書店さんが監修するんだって」
「蔵書……監修?」
「うん。テーマに合わせた本を置いて、お客さんが自由に読めるようにするらしいよ。
ま、さすがにそっちの専門は書店さんってことで。
葛城さんの担当が、えーと……柳森さん?だっけ?」
「……えっ」
言葉が、ほんの一瞬だけ詰まった。
「知ってるでしょ?あの綺麗な店長さん。
なんか、バシッとした空気感っていうか…
あれだよね、大人の余裕っていうの?」
(……うん、それがまた……話しかけるの怖いんだよ)
「いやあ、でもいいなあ、メイちゃん。そんな人と一緒にお仕事できるなんて。
ちょっと羨ましいくらいだよ。あはは」
タナ坊は、たぶん何気なく言ったのだと思う。悪気も、裏もない。ただの感想。
でも、メイにとっては、頭の中で警報が鳴るレベルの“大事件”だった。
(……柳森さんと、一緒に……?
いやいやいやいや……)
事務所のパソコンに戻って、メールを開いたときには、指先がちょっと震えていた。
◇◇◇
昼休み。
あの公園の、いつものベンチ。
お弁当の袋をひざに乗せて、メイはぼんやりと遠くの空を見上げていた。
(柳森さんと、仕事かぁ……できるのかな、私)
怖いようで、楽しみで、不安で、ちょっとだけうれしい。
あの人は、メイにとってある意味で“憧れ”だった。
完璧すぎて、自分とは住む世界が違うと思っていた存在。
だからこそ——一緒に何かをするなんて、考えただけで胸がぎゅっとなる。
(……いや、やっぱり無理なんじゃない?)
プチトマトを口に放り込みながら、またため息が漏れる。
繰り返す葛藤……
それでも心の奥に少しずつ灯りが差し込んでくるのを感じていた。
(……うん。
うまくやれるかどうかは分からないけど。
でも、やってみよう)
プチトマトを噛みしめながら、ふと昨日のランタンのことを思い出す。
はじめて火がついた瞬間の、胸の奥がふっとあたたかくなる感じ。
(やってみなきゃ、何も始まらない……)
そう思えたことで、ようやくお弁当の最後のひとくちが、すっと喉を通った。
(とりあえず、挨拶しに行かなきゃだな)
メイは、すっと立ち上がって、真っ直ぐ空を見上げた。
雲の切れ間から、ひとすじの光が差していた。
それは、ほんの少し先にある夏の気配を、そっと知らせているようだった。
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