第18話 揺れる迷い
梅雨の晴れ間の少しギラついた太陽が、ガラス越しに降り注ぐ、お昼前のファーストフード店の店内。
詩音と日菜乃は、2階の窓際の席に座っていた。
この店は、高校生のときに、よく2人で来た、思い出いっぱいのお店。
「…そういうことだったのかぁ」
詩音の話をひととおり聞いて、日菜乃は納得したようだった。
おだやかなトーンの話し方は、今も昔も変わっていない。
詩音はこの声を聞くと、いつも安心感でいっぱいになる。
保志日菜乃。
詩音とは中学、高校が一緒だった。
高校を卒業して、日菜乃はトリマーの専門学校に通い、今は神奈川県藤沢市のペットショップで働いている。
「そうなんだよー。副主任なんて、絶対無理だよ。」
「そうかなぁ。私はいいと思うけどなぁ」
「精鋭とか来るんだよ。精鋭って、するどいんだよ」
「そうだね。」
「もっとするどい人、うちの店にいるし。それに…」
少し詰まる詩音。
「それに?」
「ううん、何でもない」
「吐け、吐くんだ、詩音」
と、テーブルを軽く叩いて尋問する刑事のマネ。
「刑事さん、カツ丼もらえるかな…」
ふたり、目が合って——
ぷっ、と笑った。
日菜乃とはいつもこんな感じだ。詩音にとっては、心許せる大切な時間。
「あのね……私さ、このままカフェ店員やってて…いいのかなって…」
心の奥の方にあった、小さな想いを初めて口にした詩音。
「なんで?」
「私さ、やりたいこととか、なかったじゃん。
ひなちゃんはトリマー頑張ろうって専門いったし。
お父さんもお母さんも、やりたい事を仕事にしてるし。
お姉ちゃんは…よく分からないけど。
私、そんなのじゃないし。
このまま新店舗行っちゃってもいいのかなって…」
「そっか……それで悩んでたんだ。」
「悩みかどうか、分からないけど、なんかダメな気がするんだよ、このままじゃ…」
(成長してるんだな、詩音も…)
日菜乃はちょっとだけ微笑んだ。
「詩音は、行きたくないの?」
「行きたくない訳じゃないんだけど…」
「じゃあ、行っちゃえば!」
「えぇー。そんな簡単に言う」
「ほら、矢鞠市なら隣だし、近いじゃん」
「そーだけどさー」
「詩音ってさ、なんとなくで決めて、なんとなくで上手くいくタイプじゃん?」
「そうかなぁ?」
「うん。出たとこ勝負って言うか……
高2の文化祭で劇やったの、覚えてる?」
「うん、ジキルとハイド!」
「ううん、ロミオとジュリエットね。
で、あの時、みんなから詩音がジュリエットやりなよって言われて、あんたノリノリで」
「そうだっけ?」
「そうだよ。でも、文化祭の一週間前くらいに急に出来ないってダダこねて」
「あ、そうだった。セリフ覚えられなくて」
「みんなでなだめて、なんとかやらせて」
「デヘヘ」
「だけど、文化祭本番、すごい演技でみんな沸かせて。桃ジイなんか泣いてたんだよ」
「桃ジイ!桃田先生かぁ!懐かしいぃ」
「だからさ、細かいこと、あんまり気にしなくていいんじゃない?」
一転、不満そうに口を尖らす詩音。
「詩音はね、本番強いから、たぶん大丈夫。
やってみたら、なんとかなるって!」
「そんな無責任なぁ。それとこれは違うよー」
「そんなことないって」
「うーん」
その日は、結局結論が出ないまま、ファーストフード店を後にした。
◇◇◇
次の日の朝。
詩音は仕事に向かう電車の中。
(昨日は楽しかったなぁ。
ひなちゃんとあんなに遊んだの、久しぶりだったし。
持つべきものは友だよなぁ)
ほんわりと思い出していたのも束の間。
頭の遠くの方から飛来するものが…
『新・店・舗』
ドデカく、目の前の全てを覆い隠した。
(そうだ、そうだった。何も決めてないや)
さっきの楽しげな思考が、銀河系の果てまで吹っ飛んだ。
◇◇◇
カフェ・ルルポ ド ニーチェの更衣室前。
大きなため息をついた後、気を取り直してノックをした。
「おはようございます」
詩音がそう言ったか言わないうちに、情報通の千秋がとんできた。
「聞いたよ、詩音!新店舗、行くんだって!」
「えっ、まだ、そのぉ…」
横で着替えていた瑞稀も顔を出す。
「マジですごいじゃん!あの詩音がねぇ。」
わたしの意志なんて関係ないみたいに、勝手に話が進んでいく。
「まだ、あの、決めて…」
「こりゃ、祝杯だな。どこにする?」
「私、この前できた駅前の居酒屋がいい!」
「えー、なんかオシャレな店でやろうよ」
「いやいや、居酒屋の方が安いし美味いし…」
わーわー盛り上がるふたり。
詩音はとうとう、ちょっと大きな声を出した。
「あのさー、私まださー」
バン、と勢いよく言ったそのタイミングで、
更衣室のドアが静かに開いた。
厨房チーフの祥子が入ってきた。
……凍りつく3人。
『おはようございます!』
見事に挨拶がハモる。
「おはよう…」
直立した3人の背後を通り抜ける際に、祥子は詩音の肩をポンポンと無言で叩いた。
ビクっとして固まる詩音。
(あぁ、祥子さんも、もちろん知ってるよなぁ…)
再び、詩音の口からため息が漏れた。
◇◇◇
仕事を終えて瀬原駅に帰ってきても、詩音の浮かない表情は変わらなかった。
(結局、今日も何も答えがでなかったなぁ……)
うわの空。
八百昌のおいちゃんの声も耳に入らない。
いつの間にか、家の前まで来ていた。
(やっぱ相談しよう…)
意を決したように、玄関のドアに手をかけた。
◇◇◇
夕食は、今日もお母さんと二人だけ。
食後のコーヒーの湯気が立ち上る中、
詩音は勇気を出して口を開いた。
「お母さん……ちょっといい?」
「…いいわよ」
カップを置いた母は、静かにうなずいた。
詩音は、今までのこと、今の気持ちを、ぽつぽつと話した。
日菜乃に会ったこと。
新店舗と副主任の話。
そして、何より、こんな気持ちでカフェを続けていいのかってことも…
母は最後まで口を挟まず、じっと聞いてくれた。
「お母さんは、どうしたらいいと思う?」
問いかけると、
母は少しだけ間を置いて、優しく、でもしっかりとした言葉で続けた。
「迷うのは、あたりまえよ。焦らなくていい。どれだけ時間がかかってもいいから、自分で考えて、自分で決めなさい。」
詩音は、うつむいた。
——自分で決められないから、こうやって相談してるのに。
胸の奥でつぶやいても、声にはならなかった。
奥歯をぎゅっと噛みしめる。
「……ちょっと、散歩してくる」
押し殺した声を残し、椅子を引いた。
立ち上がった詩音の背中は、小さく震えていた。
そのまま玄関へ。
足音が、リビングから遠ざかっていく。
ドアが閉まる音を、
母は、コーヒーの湯気の向こうでじっと聞いていた。
しっぽを下げたチワワが、玄関を見つめてる。
ふっ、と小さく息を吐きながら、
母は、静かに心の中でつぶやいた。
「今が大事なときだよ、詩音。
大丈夫、あなたはちゃんと、自分で進める子だから」
リビングは、コーヒーの香りと、厳しくもあたたかい空気で満ちていた。
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