第151話 ゆらゆら♡ボンファイア
御殿場たかね野キャンプ場で、子どもたちとフリスビーを思いきり楽しんだ詩音。
にぎやかだった時間が過ぎ去り、子供たちを見送ると、
あたりは、ふっと静かになった。
夕方の冷たい風が、頬をなでる。
「……ちょっと冷えてきたかも」
軽く肩をすくめてから、ふと思い出したように言う。
「トイレ行こっと」
サイトを見渡し、詩音はきょろきょろと周囲を探した。
少し奥、木立の向こうに、それらしい建物が見える。
「あ、あれかな?」
そう呟いて、さっきフリスビーのときに脱いでいたダウンジャケットを羽織り、そちらへと歩き出した。
炊事場とトイレは、サイトの奥、木立に囲まれた一角にあった。
屋根付きのウッドデッキの上にステンレスの流し台が並び、その奥に、落ち着いた色合いの小さな建物が建っている。
「……なんか、ちゃんとしてる」
思わず声が漏れた。
炊事場の脇には、白い丸い表示がいくつか並んでいて、男女別のトイレとシャワー室の入口を示している。
どれも新しく、清潔感があって、キャンプ場というより、ちょっとした施設みたいだった。
靴を脱いで入るトイレは、中も驚くほどきれいで、温水洗浄便座までついている。
「うわ……綺麗なトイレ……」
ほっとしたように小さく笑い、用を済ませる。
外に出て、隣のシャワー室をのぞくと、こちらも同じように整っていて、備え付けのシャンプーとボディソープまで置いてあった。
「無料って言ってたなぁ……あとで来よっと」
そう呟きながら周囲を見回したとき、ふと、炊事場の手前に積まれた薪のラックが目に入った。
木枠の中に、きれいに揃えられた薪。
小さな札に書かれた文字。
――10本 500円。
空はすでに、やわらかなオレンジ色に染まり始めている。
時計を見ると、午後4時。
「……そろそろ、焚き火タイムかな」
詩音はそう言って、薪を十本抱え、サイトの方へと歩き出した。
テントに戻り、早速キャリーバッグから焚き火台を取り出す。
薄く折り畳まれた、ソロ用の小さな焚き火台。
「メイちゃんから借りた焚き火台!」
ワクワクしながら袋から引っ張り出す。
何度か見ているし、組み立てているところも隣で眺めていた。
だから、きっと大丈夫――そう思いながら、炭入れのプレートを開き、フレームを立ち上げようとする。
……が。
「へ」の字のまま、くにゃり。
力を入れても、形が定まらない。
四角になるはずのフレームは、頼りなく歪んだままだった。
「あれ? おかしいな?」
もう一度、向きを変えてみる。
それでも結果は同じで、焚き火台は言うことを聞いてくれない。
しばらく睨み合った末、詩音はスマホを取り出した。
メイにRainを送る。
『焚き火台、どうやるんだっけ?』
送信してから数秒後、スマホが震えた。
メイからの着信だった。
「詩音、大丈夫?」
「ごめんね、仕事中でしょ?」
「ううん。いまラフォーレから文学館に戻る途中だから」
少しだけ、街の音が混じる。
「フレームがクネクネでさ。立たないんだよ」
「あ、それね」
電話の向こうで、メイが小さく笑った。
「私も最初、迷ったことある」
その声に、少し気が楽になる。
「一回フレームを真っ直ぐにして、端と端をね、真ん中に向かって潰す感じで押してみて」
「……潰す?」
「そう。ぎゅって」
言われた通り、フレームを整えて、両端を内側へ押し込む。
——パカッ。
「あ」
一瞬で形が決まった。
「うお、できた!」
思わず声が弾む。
「ありがとー、メイちゃん! 神だよ、神!」
「そんな……」
照れたように、メイが笑う。
「ソロはどう?」
「うん、楽しいよ! さっきフリスビーしたし」
「フリスビー?」
一拍置いて、メイが納得したように言う。
「……そっか。詩音らしいね」
「えへへ」
「じゃあ、ソロキャン、楽しんで」
「ありがとう!」
通話が切れると、あたりはまた静かになった。
焚き火台の金属が、夕方の光を受けて淡く光っている。
——少しだけ、胸がきゅっとした。
けれど詩音は、すぐに首を振る。
「よし」
焚き火台をしっかり組み上げ、ふと足元を見る。
「おっと、いけねぇ〜」
慌てて焚き火シートを広げ、その上に焚き火台を乗せた。
きちんと中央に据えて、満足そうに頷く。
「完璧!」
夕暮れの空の下、ひとりぶんの焚き火の準備が整った。
「次は……薪割りだぁ!」
詩音は気合を入れて立ち上がり、テントの後室へ潜り込んだ。
キャリーバッグの中を、両手で探る。
ゴソゴソ。
ゴソゴソ……。
「……ん?」
動きが止まる。
もう一度、端から端まで探してみる。
それでも、目当てのものは出てこなかった。
「あ」
顔を上げて、ぽつり。
「ナタ……忘れた」
一瞬だけ固まってから、苦笑い。
「……ま、いっか」
気を取り直してテントを出ると、焚き火台の前にチェアを移動させた。
プレートの中央に着火剤を置き、その上に、さっき買ってきた薪を二本、どんと組んで乗せる。
チャッカマンのスイッチを押す。
——ボッ。
着火剤が勢いよく燃え上がった。
「ついた!」
思わず声が弾む。
……が。
一瞬、薪の表面に炎が移ったかと思った次の瞬間、火はしゅるしゅると勢いを失っていく。
残ったのは、うっすら焦げ目のついた薪だけ。
「……あれ?」
首をかしげて、もう一度。
着火剤を足し、再び火をつける。
同じように燃え上がり、同じように、すぐ消える。
「……火、つかないよ」
小さくため息をついた。
夕暮れの空気の中、焚き火台の前でひとり途方に暮れる詩音。
炎のない焚き火台が、少しだけ心細く見えた。
仕方なく、詩音はポケットからスマホを取り出した。
少し迷ってから、梓の名前をタップする。
コール音が鳴ると同時、すぐ通話がつながった。
「どうした、詩音?」
聞き慣れた声に、思わず肩の力が抜ける。
「あのね……薪に火がつかないんだよ」
「どんな感じだ?」
「ちょっと待って。テレビ電話に切り替えるね」
画面が切り替わり、梓の顔が映る。
それだけで、なぜだか少し安心した――のも束の間。
「……そりゃ、太すぎだろ」
開口一番、容赦ない。
「薪、割らないと」
「ナタ、忘れちゃったんだよ」
「ナイフとか無いのか?」
「うん……今日はアヒージョだから、包丁も持ってきてなくて……」
「……細い木とか無いか? 落ち枝とか」
「細い木?」
詩音はあたりをぐるりと見回した。
芝生。
焚き火台。
整備されたサイト。
「……ない」
しょんぼりと声を落とした、そのとき。
「あ」
詩音の目が、ふっと見開かれる。
「あっ……割り箸!」
「……割り箸?」
画面越しの梓が眉をひそめる。
「それ燃やしたら、飯食えなくなるだろ」
「ううん、十九本ある!」
「……は?」
「ちょっと待ってて!」
詩音はテントに駆け込み、割り箸の袋を持って戻ってきた。
スマホの前に掲げる。
「ほら!」
「……なんでそんなにあるんだよ」
「スーパーで徳用買ったんだよ!」
なぜか自慢げな詩音の声に、梓はふっと笑った。
「じゃあ、それを割って、井桁に組め」
「井桁……?」
「そう。着火剤を下に置いて、その上にな」
梓の指示に従って、詩音は割り箸を一本一本割り、丁寧に組んでいく。
薪ではなく、割り箸の小さな山。
「よし。火、つけてみろ」
着火剤に火をつける。
メラメラ、と軽い音を立てて、割り箸が燃え始めた。
「おー! 燃えた!」
「そこに薪を、そっと乗せろ」
言われた通りにすると、焚き火らしい炎が立ち上がる。
「いいぞ。風、送れ」
顔を近づけて、ふー、ふー。
「……顔、熱い」
「火吹き棒は?」
「ない……あ!」
詩音はポケットを探り、受付でもらったキャンプ場マップを取り出した。
くるくると丸めて、即席の火吹き棒。
ふーっ、と息を送る。
炎が、ぐっと大きくなり、薪に移っていく。
「梓ちゃん! 薪、燃えてきたよ!」
「よし。あとはゆっくり火を育てろ」
「分かった! ありがとう、梓ちゃん!」
少し間を置いて、梓が付け足す。
「……あとさ」
「うん?」
「箸は“本”じゃなくて、“膳”だからな」
「え、そうなんだ……」
「覚えとけ」
そう言って、通話は切れた。
焚き火台の上で、炎が安定して揺れている。
あたりはすっかり暗くなり、空気も冷えてきた。
炎の向こうに、富士山のシルエットがぼんやりと浮かぶ。
詩音は焚き火に手をかざした。
「……みんな、あったかいなぁ」
ぽつりと呟いて、ふっと微笑んだ。
初めてひとりで灯した焚き火は、
メイの声も、梓の助言も、
途中で出会った人たちのやさしさも――
全部を乗せたまま、静かに揺れていた。
その炎は、夕闇の冷えた空気の中で、
詩音の体だけじゃなく、
心まで、じんわりと温めてくれていた。




