第15話 今日もきっと だいたいOK!
——夕方。
オレンジ色の光が、ビルの隙間からこぼれている。
「あー……今日も戦ったー」
詩音は肩を回しながら、小さく息をついた。
カフェ・ルルポ ド ニーチェを出て、駅へ向かう道。
スニーカーの靴音が、少し湿ったアスファルトに溶けていく。
傘は要らないけど、空気はまだ湿っている。
雨上がりの、蒸した夏のにおい。
バッグを肩にかけ直して、詩音は空を見上げた。
オレンジから、藍色へ。
じわじわと空の色が移ろっていく。
高いところに、うすい雲が流れていた。
(今日も、ちゃんとやったよなー)
(怒られなかったし、配膳も間違えなかったし)
(……たぶん)
眉をひそめる。
ふと、思い出しかける。
(あれ? 怒られたっけ?)
記憶をたどっていくと、頭の中に、あのチーフの怒鳴り声がよみがえった。
(あっ、祥子さん……確かなんか言われたような……)
(『詩音ー、だいたいお前は……€^£@&#…』)
(……なんだっけ??)
そんな時——
道端のブティックのワゴンが目に飛び込んできた。
【夏物セール!全部1000円】
「うわ、安っ。かわいっ」
足が勝手に吸い寄せられる。
祥子さんの声は、あっさりどこかに飛んでいった。
◇◇◇
電車を乗り継いで、地元の瀬原駅に帰ってきた。
「もー、満員電車、ほんと無理……」
カバンを抱え直しながら改札を抜け、ため息混じりに小声でつぶやく。
早番の帰り道は、いつも帰宅ラッシュに巻き込まれる。
「あんな電車に毎日乗ってるサラリーマンって、すごいよね。
それだけで金メダルだよ。私は毎日じゃないから……6位入賞くらい?」
そんなことを考えながら、商店街を歩く。
「詩音ちゃーん、いま帰りかい?」
声をかけてきたのは、八百昌のおいちゃん。
小さい頃から知っている、昔からずっと「おいちゃん」って呼んでいる八百屋の社長だ。
「うん、ただいまー。おいちゃん、今日も元気だね!」
「ハハハ、それしか取り柄ねえからなー!」
軽口を交わして手を振る。
湿った夏の空気の中、ふわりと笑顔がこぼれる。
歩き出すと、また別の声。
「あら、詩音ちゃん、何かいいことあったの?」
美容院の美和おばちゃんが、ロッキー(ビーグル犬)を連れていた。
「別にないよー。でもロッキーには会えた!」
詩音はしゃがみ込み、ロッキーをわしゃわしゃ撫でる。
ロッキーは嬉しそうにシッポを振った。
「最近、お姉ちゃん見かけないねぇ」
「うん、異動になって車通勤だから。
この辺、あんまり通らなくなっちゃった」
「そっか、大変だねぇ。歌音ちゃんにもよろしくね」
「うん、伝えるね!」
美和おばちゃんに「またねー!」と手を振ったあと。
ふと視線を上げると、
商店街の向こうに、ゆっくり歩いていく小さな後ろ姿が見えた。
「あ、おばあちゃんだ! おばーちゃーん!」
詩音は、ぱたぱたと駆け寄る。
「詩音かい。今、帰りなの?」
「そう! 小豆沢詩音、只今帰還しましたっ!」
勢いよく敬礼ポーズをキメる詩音。
おばあちゃんはふっふっと笑った。
「相変わらず、詩音は元気だねぇ」
「デヘヘへ…」
照れくさそうに笑う詩音。
ふと、おばあちゃんの手元に視線を落とす。
「おばあちゃん、お買い物?」
「あぁ、これね。じいさんが、急に焼き魚食べたいっちゅうもんだから、ついでにね」
「荷物、持つよ! 貸して貸して!」
「大丈夫だよ、重たいから」
「いいから、いいからっ!」
詩音は言うが早いか、
おばあちゃんの肩にかけてあった小さなサコッシュまで、ひょいっとはぎ取った。
(そんな軽いのまで取らなくても……)
おばあちゃんが苦笑いする。
詩音は、自分のトートバッグ、おばあちゃんのエコバッグ、
そしてサコッシュまで全部肩にかけ、どや顔。
「小豆沢詩音、出動完了っ!」
背筋をしゃんと伸ばしてポーズをとる。
「まぁまぁ、ありがとね。詩音は力持ちだわ」
「デヘヘ……あ、おばあちゃんも気をつけてね。転んだら大変だよー」
そう言った瞬間、
詩音自身がつるっと足を滑らせ、前につんのめった。
「わわっ!」
ドサッ。
「大丈夫かい、詩音?」
おばあちゃんが慌てて駆け寄る。
詩音は、ほこりまみれになりながら、
へらっと笑って手を振った。
「デヘヘ……元気な子だからっ!」
おばあちゃんも、ふっと苦笑い。
詩音の肩にそっと手を添えた。
そんなふたりは、
夕暮れの道を、二世帯住宅の我が家を目指して、肩を並べて歩いていく。
「帰ったら、怪我してないか見ときなよ」
おばあちゃんのやわらかな声。
「わかったよー、おばあちゃん」
詩音は、転びたての膝をさすりながら、
照れくさそうに答えた。
——空は、じわりと夜に沈もうとしていた。
◇◇◇
「ただいまー」
玄関前で、おばあちゃんと別れて、
勢いよく、家のドアを開けると、
チワワがダダダーッと突進してきた。
「うわっ!」
止まりきれず詩音に体当たり。
けれど詩音は、飛ばされながらもワシャワシャ撫で回す。
「チワワー、ただいまー、いい子にしてたかー」
そんな風にじゃれあってると、
ほのかに、いい匂いがしてきた。
「おぉー、今日はお母さん特製のカレーじゃないですかー!」
キッチンに目をやりながら、母の背中に声をかける。
「おかえり。いいから、早く着替えてきなさい」
そっけない声で答える 母。
「はぁーぃ」
詩音はちょっとテンションを落としつつ、二階へ向かった。
(お母さん、あんなに優しいポエム描くのに、結構こわいんだよねー)
ぶつぶつ言いながら、自分の部屋へ。
ドアには【しおんの部屋】と書かれたプレート。
ちなみに、何もかかってない向かいの部屋は、お姉ちゃんの部屋だ。
部屋着に着替えて一階に戻ると、食卓にはカレーが並んでいた。
「お姉ちゃんは?」
「今日は遅くなるから、夕飯いらないって」
「そっかー。ま、いただきまーす!」
お母さんと二人だけの晩ごはん。最近はそんな日が多い気がする。
「仕事、どうなの?」
「うん、美味しいよ」
「は?」
「賄いは最高レベルで金賞ものだね」
「そう……良かったわね」
微妙な空気が流れたが、詩音は美味しそうにカレーを頬張る。
「……あ、違う違う!お母さんのカレーが美味しくないって言ってるわけじゃないよ!
金賞超えて水星くらいに美味しいよ!」
詩音は、慌てて言い直す。
「……ありがと」
母は理解していた。
金星より水星の方が太陽に近いから、最上級だよ!と言いたいらしいことを…
いつものことだ。
◇◇◇
食後のコーヒーを飲み終えるころ、
母は立ち上がりながら言った。
「詩音、あとはお願いね。私、もうひと仕事してるから」
そう言うと、仕事部屋へ姿を消す。
「ふぁーい」
気の抜けた返事をして、
詩音は立ち上がり、食器をシンクへ運ぶ。
お皿を洗いながら、ふと心の中でつぶやいた。
(最近は、お母さんと二人きりの晩ごはん、多いな……
お父さんも、お姉ちゃんも忙しそうだし。)
ぬるま湯に手を浸しながら、
ぽつりぽつりと思いが浮かんでくる。
(みんな頑張ってるなぁ。
それにつけて、私は……)
一瞬、胸の奥が、ざわつく。
けれども、すぐに首を振った。
(いやいや、頑張ってるじゃん!
今日だってしっかり仕事したし…)
(……でもなぁ )
何かが、引っ掛かる。
(カフェ、楽しいし、みんないい人なんだけど…)
(うーん。なんか違うんだよなぁ〜)
ぼーっと中空を見つめたまま、手が止まる。
その隙に、お皿が指の間からずるりと滑りかけた。
「おっと!」
慌ててキャッチ。
ぎりぎり 「セーフ!!」
詩音は得意げに、
泡だらけのお皿を天に掲げた。
泡が飛び散り、まわりのカウンターをびしょびしょにする。
(……これはアウトだろ)
苦笑しながら、お皿を持ち直した。
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