第149話 ガラガラ☆トラベラー
1月20日、火曜日。
朝8時半。
冷んやりとした空気が、玄関先に立った頬をきゅっと引き締めた。
「いってきまーす!」
そう言って、詩音はぱっと外へ飛び出す。
スモーキーベージュのダウンジャケットに、オリーブ色のカーゴパンツ。
生成りのニット帽を深めにかぶって、防寒対策はばっちりだ。
一歩、家の前に出てから、ふと立ち止まる。
空を見上げると、雲ひとつない冬晴れが広がっていた。
「……うん、いい天気だ」
胸いっぱいに空気を吸い込んで、ゆっくり息を吐く。
その瞬間、実感が追いついてくる。
――いよいよ、ソロキャンが始まる。
口元が、勝手に緩んだ。
笑顔を抑えきれないまま、詩音は拳を小さく握る。
「さあ行くぞっ!」
グレイッシュピンクの旅行用キャリーバッグを、がらがらと引き出す。
中には、テントに寝袋、マットにランタン――キャンプギアがぎっしり詰まっている。
背中には、サンドカラーの大きなリュック。
その上には、インフレーターマットがしっかりとくくりつけられていた。
リュックをひょいと背負い直した瞬間、
カラン、カラン――
派手な音が、静かな朝に響く。
明島アウトドアヴィラージュで買った、ふたつのゴツいカラビナ。
そこに、それぞれマグカップとランタンをぶら下げているせいだ。
(キャンプのリュックって、こういうもんだよね?)
そんなふうに、疑いもなく思い込んでいる詩音だった。
派手な音も気にせず、足取りは軽い。
詩音は意気揚々と、瀬原駅へ向かって歩き出した。
◇◇◇
瀬原駅に着くと、構内は朝の時間帯らしく、それなりに人で賑わっていた。
上りホームには、通勤や通学の人たちがぎっしり詰まっている。
一方で、詩音が向かった下りホームは、思ったよりも余裕がある。
(よしよし。予想どおり、下りは空いてる)
いつもラフォーレへ出勤するときに使うのも、この下りホームだ。
勝手知ったる場所に、詩音はにんまりとする。
リュックを下ろして、キャリーバッグを足元に寄せる。
ほどなくして、下り電車がホームに滑り込んできた。
――が。
ドアが開くと、そこにはそれなりの人影。
しかも、今日はいつもとは事情が違う。
(……荷物、多すぎ)
普段の通勤バッグとは比べものにならない大荷物を抱え、
詩音は「すみません……」と小さく声をかけながら車内へ入った。
周囲を見渡すと、仕事へ向かう人、学校へ行く学生ばかり。
スーツや制服に囲まれていると、自分だけが遊びに行く身のようで、
ほんの少しだけ、胸の奥がちくりとした。
(……ま、いいよね)
そんな気持ちを振り払うように、詩音は気持ちを切り替える。
胸の内は、相変わらずワクワクでいっぱいだ。
終点の海老名で電車を降り、小田急線へ乗り換える。
改札へ向かう通路は、さすがに人が多く、大荷物を抱えての移動はなかなか骨が折れた。
(電車キャンプ、案外大変だぁ……)
小田急線も下り電車。
通勤のピークは過ぎているものの、車内はそれなりに混雑している。
それでも、電車は順調に走り、
三十分ほどで、新松田に到着した。
詩音は、ふうっと小さく息を吐いた。
(ここまで来れば、もうひと息)
今度は、小田急線から御殿場線へ乗り換える。
詩音にとっては、初めて降りる駅だった。
ホームに立った途端、思わずきょろきょろと周囲を見回してしまう。
その拍子に、リュックにくくりつけたインフレーターマットが、通り過ぎる人の肩や荷物に当たりそうになる。
「あ、すみません……」
思わず声が小さくなる。
(絶対邪魔だ。怒られちゃう……)
そのたびに足を止め、ぺこぺこと頭を下げるうちに、詩音はふと考えた。
(……これ、先に降りた人たちをやり過ごしてから動いたほうがよくない?)
そう思い、しばらくその場で待つことにした。
人の波が落ち着いた頃、顔を上げると、遠くから電車の接近を知らせる音が聞こえてくる。
「あ、ヤバっ!」
慌ててキャリーバッグを引き、御殿場線のりばへと急いだ。
◇◇◇
御殿場線・松田駅。
ホームに入ってきた電車は、思ったよりも空いていた。
詩音はほっとしながら乗り込む。
(お、座れる!)
そう思った瞬間だった。
発車時の小さな揺れにバランスを崩し、
「わっ――」
どすん、という鈍い音とともに、詩音は尻もちをついた。
「いててて……」
リュックにつけたゴツいカラビナが、
マグカップとランタンを盛大に揺らし、がしゃん、と派手な音を立てる。
一斉に向けられる、周囲の視線。
(……やっちゃった)
「大丈夫?」
声をかけてくれたのは、すでに座っていた女性だった。
四十代くらいだろうか。ショートヘアで、小柄で、やわらかい雰囲気の人。
「ありがとうございます。大丈夫……です」
立ち上がりながら、詩音はお尻をぽんぽんと払った。
「となり、いいですか?」
そう言われて、詩音はその女性の横に腰を下ろす。
「すごい荷物ね。キャンプ?」
「あ、はい」
「いいわね、キャンプ。みんなでワイワイして」
「ひとりなんです。ソロキャンプで」
「あら、ひとりなのね」
女性は少し驚いたように目を丸くする。
「おねえさんも、荷物多いですね」
「あら、おねえさんだなんて。もうおばさんよ」
そう言って、うれしそうに笑った。
「これね、仕事道具。ピアノの調律と修理をしてるの」
「ピアノの調律ですか?」
「そう。いつもは車で移動するんだけど、今日は壊れちゃってね」
「ピアノの調律かぁ……なんか素敵」
「案外、力仕事なのよ」
そう言って、女性は力こぶを作る真似をする。
思わず、ふふっと二人で笑った。
「ひとりのキャンプってことは、寝るときも外で一人なんでしょ?」
「はい、テントで」
「気をつけてね。変な男についてっちゃダメよ」
「あはは、はい」
「おせっかいよね……でも、あなたと同じくらいの娘がいてね。つい心配になっちゃうの」
「いえ、ありがとうございます」
「男は狼なのよ、気をつけなさいって」
「あ、それ、ピンク・レディーですよね!」
「あら、知ってるの!?若いのに」
「はい。うちのお父さん、昔の音楽とか映画が好きで」
「じゃあ、きっと話が合うわね」
そんな話をしているうちに、電車は御殿場駅に到着した。
「あ、降りないと」
「キャンプ、楽しんでね」
やさしい笑顔でそう言われて、詩音も笑顔で返す。
「お姉さんも、お仕事がんばってください」
ホームに降りると、ドアが閉まり、電車はゆっくりと走り出した。
窓の向こうで、小さく手を振る女性に、詩音も手を振り返す。
「……なんか、旅してるって感じ」
ぽつりとそうつぶやいて、詩音は駅舎のほうへ歩き出した。
◇◇◇
「よっこいしょっと……」
御殿場駅の改札を抜け、
詩音は「富士山口」と書かれた出口へ向かった。
「まずはスーパーで買い出しして、ごはんにしよっと」
階段を降り、駅の外へ出る。
「ここが御殿場かぁ……ん?」
目の前に広がっていたのは、
タクシー乗り場とバスロータリー。
その向こうに小さな商店街らしき通りは見えるものの、
目立つのは飲み屋やカラオケ店の看板ばかりだった。
「……駅前に、スーパーとかない感じ?」
きょろきょろと辺りを見回しながら、
詩音は慌ててスマホを取り出し、ゴーグルマップを開く。
(……あれ?ない?)
駅周辺をいくら拡大しても、
それらしいスーパーは見当たらない。
「うそでしょ……」
困っていると、近くを歩いていたおばあさんが目に入った。
詩音は思い切って声をかける。
「すみません。近くにスーパーってありますか?」
「歩いて十分くらいのとこに、エビディがあるよ」
「……エビディ?」
「大きなスーパー。なんでもある」
そう言って、おばあさんは少し誇らしげににこっと笑った。
「ありがとうございます!」
スマホで場所を確認する。
「……ここだ!」
思ったより距離はあるけれど、
買い出しできる場所があると分かって、詩音はほっと息をついた。
(よかったぁ……)
バスの時間をざっと確認し、
キャリーバッグをガラガラと引きながら歩き出す。
十分ほど歩いた先に現れたのは、
広い駐車場を備えた大きな建物だった。
壁には牛のイラストとともに、
――エビディ・ビッグストア
と書かれている。
「おっきいなぁ……」
中に入ると、店内は人で賑わっていた。
ショッピングカートを手に取ったものの、
キャリーバッグと見事に干渉する。
「……めっちゃ歩きにくい」
カートとバッグに足を取られそうになりながら、
ぶつぶつ言いつつ売り場を進む。
「買っていくのは……」
スマホのメモを開きながら確認する。
「オリーブオイルと、冷凍エビと……」
ポン。
「あと、ポテチも!」
ポン。
次々とカートに放り込んでいく。
お惣菜コーナーに差し掛かったところで、
詩音はふと立ち止まった。
(……お昼ごはん、ここでいいんじゃない?)
時計を見ると、もうすぐ正午。
お腹も、正直言ってぺこぺこだ。
結局、おにぎりと野菜コロッケ、
それにホットのお茶を手に取った。
会計を済ませると、
エコバッグはパンパンに膨らんでいる。
「……荷物、また増えた」
大きな荷物がひとつ増えたけれど、
それでも詩音の表情は、どこか楽しそうだった。
◇◇◇
スーパーを出た詩音は、
パンパンに膨らんだエコバッグを肩にかけ、辺りを見回した。
「さて……お昼、どこで食べようかな?」
それらしいベンチは見当たらない。
時計を見ると、バスの時間まであと三十分ほど。
(駅まで戻るのに十分……戻って、またバス乗り場まで歩いて……)
「……あんまり余裕ないじゃん」
そう呟いた、そのときだった。
キィーッ、とブレーキ音を立てて、
スーパーの前に一台の自転車が止まった。
「おねえちゃん、登山かい?」
振り向くと、
自転車にまたがったおじいさんが、にこにことこちらを見ている。
「いえ、キャンプなんです」
「ほう、キャンプか。てっきり富士山でも登るのかと思ったよ」
笑った拍子に見えた前歯が一本なくて、
そのなんとも言えない可愛らしさに、詩音は思わず頬がゆるんだ。
「歩きかい?」
「今から御殿場駅に戻って、バスで……」
「どこまで乗ってくんだい?」
「えっと……上小林、ってバス停だったかな」
「ああ、それならさ」
おじいさんはハンドルから手を離し、
少し先を指差した。
「そこの“湯沢”から乗れば行けるよ。駅戻るより、ずっと近い」
見ると、確かに道路沿いに小さなバス停の看板が立っている。
「ほんとだ……!」
「ありがとうございます!」
「気をつけてな〜」
軽く手を挙げて、
おじいさんはそのままスーパーの中へ入っていった。
「……御殿場の人、やさしい」
詩音は思わず、にこっと笑った。
◇◇◇
湯沢のバス停で時刻表を確認する。
(ここで大丈夫そう)
発車までは、まだ二十分ほどあった。
安心した、その瞬間。
「……ぐぅ〜」
お腹が、正直すぎる音を立てる。
「バスの中で食べようと思ってたけど……」
周りを見回す。
歩道はなく、
ベンチも、当然のように、ない。
「……もう食べちゃお!」
詩音はキャリーバッグを道の端にそっと倒し、
その上に腰を下ろした。
がさがさと袋を開けて、
まずはおにぎりをひとつ。
ぱくり。
続けて、お惣菜の袋にも手を伸ばす。
「野菜コロッケ……おいしい!」
思わず声が出る。
「やっぱ、空腹は最高のスパイクだよなぁ〜」
完全に本気のひとりごとだった。
(……)
当然、誰からも何の反応もない。
間違った知識を訂正してくれる人もいなければ、
「それスパイスでしょ」と笑ってくれる人もいない。
それこそ、ソロキャンプ。
何事もなかったように、
詩音はコロッケを平らげ、おにぎりを頬張った。
そのとき、
一台のバスが道路を曲がってやってきた。
フロントには、
――河口湖駅 行
の文字。
「これだ〜!」
詩音は思わず、ぴょんぴょん跳ねて手を振る。
(……別に、跳ねなくても止まってくれるんだけど)
そんな詩音の気持ちなど知らない顔で、
バスはちゃんと停まった。
中に乗り込むと、乗客は他に二人だけ。
「よいしょ……」
座席に腰を下ろすと、
バスはゆっくりと走り出した。
窓の外では、
御殿場の町並みが、のんびりと流れていく。
◇◇◇
バスを降りると、あたりは林と畑と空き地ばかりだった。
ごくごく普通の県道が、静かに横たわっている。
「……ほんとに何もないなぁ」
スマホを取り出してマップを確認する。
ここから「たかね野キャンプ場」までは、徒歩で二十五分ほど。
「よし!歩くぞー!」
気合いを入れて、詩音は買い出しのエコバッグをキャリーバッグにくくりつけた。
ガラガラ、と音を立てながら、それを引いて歩き出す。
畑のあぜ道を抜け、まばらな民家を横目に見ながら進む。
遠くには冬の空が高く広がっている。
「……重いなぁ……」
思わずこぼれた本音。
それでも、チェックインまではまだ時間に余裕がある。
(急がずに、ゆっくりいこう……)
自分に言い聞かせるようにして、マップを頼りに足を進める。
とはいえ、体力には自信のある詩音でも、
重たいリュックとキャリーバッグの組み合わせはじわじわと効いてくる。
「ふぅ〜……」
息を整えながら、角にお寺のある三叉路へ。
マップの通り、右へ曲がる。
「……もう少しだよねぇ……」
足取りが少し重くなった、そのときだった。
視界の先に、白い立て看板が現れる。
『たかね野診療所
たかね野ゴルフクラブ
たかね野サイクリング』
その下に、小さく——
『キャンプ場入口』
「あ!」
詩音の声が、ぱっと弾んだ。
「ここだ!」
一気にスイッチが入ったように、足が前へ出る。
さっきまでの重さなんて、どこかへ消えてしまった。
「着いた、着いた〜!」
看板の案内に従い、木々に囲まれたゆるやかな坂道を登っていく。
——いよいよ、
詩音のソロキャンプが本格始動する。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




