第146話 居酒屋ごはんと、次の話
とある日の夜。
矢鞠の商店街にある、個室が売りの某居酒屋チェーン店。
仕事を終えたメイは、少しだけ足早に店の引き戸をくぐった。
暖簾の奥から、揚げ物と出汁の混じった、いかにも居酒屋らしい匂いが流れてくる。
「予約している、平瀬です」
そう告げると、店員がにこやかに頷いた。
「はい、奥の“もみじ”のお部屋です」
靴を脱ぎ、細長い廊下を進む。
ところどころに下がった小さな行灯の灯りが、夜の空気をやわらかく照らしている。
──“もみじ”。
札のかかった引き戸を開けると、すでにひとり、先客がいた。
「早いね」
メイが声をかけると、梓は壁際に座ったまま、ちらりと視線を上げた。
「電車だと、時間が読めなくてな」
「いつもバイクだもんね」
「まあな」
短いやり取り。
でも、その間に流れる空気は、すでにどこか落ち着いている。
そのとき、廊下の向こうから、どたどたと少し慌ただしい足音が聞こえてきた。
しかも、部屋の前を通り過ぎた気配がする。
「お待たせっ……あ、あれ? すみません!」
聞き覚えのある声。
梓とメイは顔を見合わせ、思わず小さく笑った。
次の瞬間、隣の個室の引き戸がすぐに閉まる音。
そして、改めてこちらの戸が勢いよく開いた。
「お待たせー!」
満面の笑みで現れたのは、詩音だった。
「……部屋、間違えただろ」
梓が淡々と言う。
「え!? 梓ちゃん、エスパー?」
詩音が目を丸くした、その横から、ひょいと顔を出す影。
「こんばんは〜」
少し控えめに手を振ったのは、凛々花だった。
「詩音、中、入らないと。通れないよ」
メイが苦笑いする。
「あっ、ごめん!」
わちゃわちゃしながら詩音が身を引き、四人がようやく揃う。
「よしっ」
席に着くなり、詩音はタッチパネルを抱え込んだ。
「飲み物、何にする〜?」
「私は、ゆずレモンサワーかな」
メイが言うと、
「私も、それ」
凛々花が続く。
「私は……ウーロン茶」
梓は迷いなく即答した。
「オッケー! じゃあ、食べ物は?」
詩音が画面をスクロールしながら聞く。
「凛々花ちゃん、何かある?」
「……ほっけ」
一瞬、間が空く。
「凛々花が、ほっけか……」
梓がぽつりと呟いた。
凛々花は気にする様子もなく首をかしげる。
「梓ちゃんは?」
「詩音に任せるよ」
「了解。じゃ、テキトーに頼むね!」
「詩音、頼みすぎないようにね」
メイが念を押すと、
「大丈夫だよ〜」
詩音は軽い調子で言い切った。
その返事に、メイは少しだけ不安そうな顔をする。
やがて、最初の飲み物が運ばれてきた。
「お待たせしました〜」
グラスが揃ったところで、詩音が声を上げる。
「じゃあ……新年を祝って、かんぱーい!」
グラス同士が軽く触れ合い、澄んだ音が響いた。
それぞれが、ひと口飲んだあと。
「そうそう」
凛々花が、バッグから小さな箱を取り出す。
「みんなに、お土産があるの」
差し出されたのは、ハワイ土産のマカデミアンナッツ。
いかにも定番、だけど間違いのないやつ。
「何がいいのか、よく分からなくて……」
「ううん、ありがとう」
「ハワイといったら、これだよね」
詩音が嬉しそうに受け取る。
「どうだったの、ハワイ?」
メイが聞くと、凛々花は少し考えるように視線を上に向けてから答えた。
「……いつもより、空と海が仲良しだったかな」
「……?」
梓が一瞬、首を傾げる。
(空と海が……仲良し?)
「良かったね〜」
「うんうん」
詩音とメイは、なぜか納得したように頷く。
「雲もね、ケラケラって舞ってたんだよ」
「へぇ……楽しそう」
(どんな会話だ……)
梓はそう思いながら、ウーロン茶をぐっと一口飲んだ。
「海鮮サラダでーす」
店員が料理を運んでくる。
「取り分けるね」
メイが箸を手に取るが、どうにも手つきがぎこちない。
「あっ……」
少し、こぼした。
「メイちゃん、私やるよ」
凛々花がサラダを引き受け、丁寧に小皿に取り分けていく。
「メイは、そういうの苦手だよな」
梓が言うと、
「へへっ……」
メイは照れたように笑った。
その後も、注文した料理が次々と運ばれてくる。
テーブルの上は、あっという間にいっぱいになった。
「うわー! お腹すいてきた!」
「……なんか、多くない?」
メイがぽつりとつぶやく。
「大丈夫だよ〜」
そう言いながら、詩音は唐揚げをぱくり。
凛々花はすでに無言で、ほっけの身をきれいにほぐしている。
「まあ、いっか…」
メイはクスッと笑った。
「わっ、これ、なかなかいける」
「これも、美味しいよ。食べてみて!」
料理を分け合い、飲み物をおかわりしながら、
四人は自然と、にぎやかな時間の中へ溶け込んでいった。
そんな賑わいの中で、
ウーロン茶を一口飲んだ梓が、ふと思い出したように言った。
「そういえば詩音、ソロキャン行くんだって?」
「そーなんだよ!」
詩音は即答だった。
「御殿場の、たかね野キャンプ場ってとこ」
「たかみ野……?」
梓は首をひねりながらスマホを取り出す。
「聞いたことないな。御殿場はノーマークだった」
画面をスクロールしながら、ふむ、と小さく唸る。
「写真は見たけど、よさそうだよ」
詩音は得意げに言った。
「1月後半だから…寒いんじゃない?」
メイが梓の方を見て尋ねる。
「そうだな。夜は零度、下回るかもな」
「寒そう……」
ほっけを頬張りながら、凛々花がぽつり。
「大丈夫だよー」
軽く言う詩音に、
「おまえ、冬キャン舐めると死ぬぞ」
梓の声が低くなる。
「え、そうなの!?」
詩音は焼き鳥を持ったまま固まった。
「防寒だけはちゃんとしろよ。
あと、テント内で火器使うのは絶対ダメだ」
「一酸化炭素中毒だね」
メイが静かに補足する。
「どうしてもって言うなら、一酸化炭素チェッカー使うとか」
「……持ってない」
詩音が小さく言うと、
「一応、私の持っていけ」
梓がさらっと言った。
「ありがとー、梓ちゃん!」
ぱっと笑顔になる詩音。
その様子を見ていた凛々花が、そっとメイに身を寄せる。
「……詩音ちゃん、ひとりで行くの?」
「うん。ソロキャン、行きたいんだって」
「ひとりで……大丈夫なの?」
「詩音は、心配だけどな」
梓の一言に、
「そんなことないもん!」
詩音は肉じゃがを頬張りながら、むっとした顔をすると、誰ともなく笑いがこぼれた。
一拍置いて、
今度は梓が話題を切り替える。
「で。四人のキャンプなんだけど、いつにする?
1月は、詩音がソロ行くだろ……」
「凛々花ちゃん、テストとかあるんじゃない?」
メイが箸を止めて聞く。
「あるけど……大丈夫」
凛々花は迷いなく頷いた。
「おお、余裕ですなぁ」
詩音が感心したように言う。
「となると、2月前半とか?」
「それは……」
詩音が、少しだけ言いづらそうに視線を落とす。
「バレンタインフェアの準備があるんだよ」
「じゃあ、後半?」
「ごめんなさい、2月後半はちょっと……」
「私も、その時期は仕事が忙しいな」
梓が続ける。
「じゃあ……3月のはじめは?」
詩音が、恐る恐る言う。
「大丈夫」
凛々花が、こくりと頷く。
「私も、問題ないかな」
「じゃあ、3月上旬にしよう」
メイが、静かにまとめる。
3月10日(火)〜11日(水)の一泊。
あーだ、こーだと言いながら、
この日程で落ち着いた。
「……場所はどうする?」
箸を置きながら、梓が聞く。
「富士山ドーンがいい!」
詩音が、待ってましたと言わんばかりに即答した。
「また富士山かよ」
呆れたように言いながらも、
梓の声には、どこか笑いが混じっている。
「いいじゃん、富士山」
詩音は、思わず身を乗り出して、にこっと笑ってみせた。
「……まあ、な」
そう言いながら、梓はグラスに視線を落とした。
詩音の満面の笑みに、これ以上言い返す気が失せたらしい。
その横で、今度は凛々花が身を乗り出す。
「富士山ドーンがいい」
凛々花は、梓のほうを見て、にこっと笑って言った。
「……ほら」
詩音が得意げに、メイを見る。
「梓ちゃん、どこかない?」
メイが、やさしく話を戻す。
「四人、だろ……」
梓は少し考え込むように天井を見てから、言った。
「いつも、ソロだったからな…」
「私も探してみるから、梓ちゃんも、お願い」
メイがそう頼む。
「わかった」
梓は短く返した。
そのやりとりを聞きながら、
詩音は凛々花の方を向いた。
「やっぱ、富士山ドーンだよね」
「富士山ドーン」
凛々花は、楽しそうに同じ言葉を繰り返す。
しばらくしてから、
梓がふと思い出したように言った。
「ところでさ」
箸を置いて、凛々花のほうを見る。
「凛々花は、テントとかあるのか?」
「ないよ」
迷いのない即答だった。
「じゃあ、私のテントで一緒する?」
詩音が、軽い調子で言う。
「まあ、それもありだけど……」
梓が続けて、少しだけ間を置いた。
「寝袋は?」
「ないよ」
これも、あっさり。
「寝袋は、あった方がいいよね」
メイが、やさしくフォローするように言う。
凛々花は少し考えてから、ぽつりと口を開いた。
「私も……テント、欲しい」
その一言に、詩音の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ今度、マウントワン、みんなで行く?」
身を乗り出して、勢いよく続けた。
「私もさ、ソロ用で買いたいものあるし!」
「それ、いいかも」
メイはにこやかに凛々花を見て、うなずく。
凛々花は、その視線を受け止めてから、少しだけ照れたように笑った。
「……うん。考えとくね」
テーブルの上には、まだ湯気の立つ料理と、少し減ったグラス。
そのとき。
「もつ鍋、お待ちどうさまです!」
店員の声と一緒に、
大きな鍋がどん、とテーブルの中央に置かれた。
「え、まだ来るの?」
思わずメイが声を上げる。
「うん。あと、アイスも頼んどいたよ」
「まじか……」
梓が、半分呆れたように言う。
「え? アイスは別腹でしょ?」
詩音がきょとんとして首をかしげる。
「別腹〜」
凛々花が、楽しそうに重ねた。
「梓ちゃん、パフェのほうが良かった?」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ、頼もうか?」
凛々花が、さらっとタッチパネルに手を伸ばす。
「いや、いいから!」
梓が即座に止める。
また、笑いが起きる。
湯気の立つ鍋を囲んで、
箸が伸びて、声が重なって、
誰かが笑って、誰かがつっこむ。
その様子を眺めながら、
メイは、ふっと肩の力を抜いた。
(……なんか、いい雰囲気だな)
笑って、食べて、少し心配して。
そんな時間が、特別なことをしなくても、
自然と続いていく夜だった。
◇◇◇
その夜。
凛々花が家に帰ると、リビングには明かりがついていた。
ソファにはパパ——伊藤海樹が座っていて、テレビをつけたまま、ぼんやりと画面を眺めている。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
それだけの、短いやりとり。
けれど、以前よりも、その距離は少しだけ近かった。
凛々花は靴を脱ぎながら、今日のことを思い出す。
居酒屋での笑い声。
キャンプの話。
テントの話。
少し迷ってから、リビングに顔を出した。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「……キャンプ、行こうと思って」
海樹は、一瞬だけ眉を上げたあと、すぐに元の表情に戻る。
「キャンプかぁ」
それだけ言って、少し間を置いた。
「いいんじゃないか。道具はあるのか?」
凛々花が小さく首を横に振った、そのとき。
ダイニングテーブルでノートパソコンを広げていたママ——陽子の声がした。
「キャンプ?」
手を止めて、淡々とした声で話し出した。
「この前の仕事のクライアント、ゴールマンさんだったわ」
パソコンの画面から顔を上げて凛々花を見る。
「キャンプ用品も扱ってるし……
どうせ買うなら、ゴールマンのを買った方がいいわね」
「……次の仕事の話もしやすくなるし」
それだけ言うと、視線をまたパソコンの画面に戻す。
凛々花は、少しだけ目を瞬かせた。
(……キャンプ行くの、いい、ってことだよね)
誰も「行っていい」とは言っていない。
だけど、誰も「ダメだ」とも言っていない。
でも、それで十分だった。
「そうだな、道具はちゃんとした物がいいし」
海樹が付け足す。
「そうだ、凛々花」
陽子が手を止めて話し出す。
「明島にゴールマンの直営店があるの。エリア統括の三浦さんに話しておくから、そこで買ってちょうだい」
何となく乗せられてる……でも、今の凛々花の気持ちはキャンプに傾いていた。
「分かった。ありがとう、ママ。
じゃあ……今度、見に行ってみるね」
そう言うと、陽子は小さくうなずいた。
部屋に戻りながら、凛々花はスマホを手に取った。
ママの言い方には、少しだけ引っかかるところもあるけれど——
――みんなで行く、って言ってたもんね。
グループRainに、
「明島で買いたいんだけど、いい?」
と短く送る。
送信してから、ふっと息をついた。
頭の中に浮かぶのは、
居酒屋での笑い声と、
「富士山ドーン」という、あの言葉。
凛々花は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
(キャンプ、かぁ)
知らなかった世界。
でも——もう、怖くはなかった。
その夜、凛々花の部屋の明かりは、
いつもより少しだけ、遅くまで灯っていた。
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