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第142話 動きだす空気に包まれて


1月5日。

ほんの少しだけお正月の香りを残した冷たい朝の空気が、肌をくすぐる。


カフェ・ラフォーレ リーヴルスの更衣室では、沙織とユキが袖を通しながら身支度の真っ最中だった。


「明けましておめでと〜!」


元気いっぱいの声とともに、詩音が勢いよくドアを押しあける。


「おめでとう、詩音。今年もよろしくね」

沙織が笑うと、詩音もロッカーを開けながらうなずいた。


「なんかさ、六日も会わないのって不思議じゃない?

ほぼ毎日一緒にいたようなもんだったし」


「たしかに」

シャツを取り出した沙織が苦笑する。


そのとき、ふと気配を感じて沙織が視線を向けると――

詩音がじーーーっと、無言でこっちを見つめていた。


「……え? な、なに?」


詩音はゆっくり近づき、沙織のお腹の前でしゃがみ込む。


「……沙織ちゃん……これ、ヤバくない?」


「…………」

沙織はそっと天井を見上げ、現実から目をそらした。


「私も、ヤバいと思う」

すかさずユキも並んで沙織のお腹をのぞき込む。


「だよねぇ……」

詩音もうんうんとうなずく。


じーーーっ……。


「もぉーっ! 確かに2キロ増えたわよ!!」


「くわばら…くわばら…」

詩音とユキがそろって手を合わせる。


「拝むなって!!」

沙織が慌ててお腹を隠したその瞬間――


「おはようございまーす!」

「おめでとうございまーす!」

更衣室にバイトちゃんたちがぞろぞろと入ってきた。


「あ、くるみちゃん、ミホちゃん! おめでとー!」

詩音が振り向いて明るく手を振る。


「なんか、拝んでましたよね……?」


「実はね、沙織ちゃんがね――」


「言わんでいいからっ!!」


年始早々、ラフォーレの更衣室はいつも通りのにぎやかさに包まれていた。



着替えを終え、詩音たちがカフェフロアへ足を踏み入れた瞬間――

視界がぱぁっと開けた。


「……なにこれ、まぶしい……!」


思わず立ち止まるほど、フロア全体がピカピカに磨き上げられていた。

棚の縁には細かな影が落ちるほど艶があり、カウンターの木目はまるで生まれ変わったように滑らかに光っている。

床のタイルは照明を柔らかく反射し、奥の窓ガラスは、冬の朝の光をそのまま映して、澄みきっていた。


休業中に専門のクリーニングが入ったとは聞いていたが――想像以上だった。


「うわぁ……なんか、オープンの日みたい」

くるみがぽつりと感嘆の声をこぼす。


詩音も、その場で一周するようにフロアを眺めまわした。

いつも見慣れているはずの景色なのに、ぜんぶが新鮮に見える。


去年のバタバタした日々も、忙しさでごちゃついた気持ちも、

ぜんぶまとめて洗い流されたみたいに――空気そのものが軽くなっていた。


胸の奥がじんわり温かくなる。


——ラフォーレの“新しい年”は、今日から始まるんだ。


自然とワクワクがこみ上げて、詩音はひそかに拳をぎゅっと握りしめた。


気持ちのいい一年のスタートだった。


ーーー


開店準備を終えると、スタッフたちはカフェ側のテーブルにゆるやかに集まっていった。

年始独特のしゃんとした空気があり、みんなほんの少しだけ背筋が伸びている。


「じゃあ、今年もよろしくお願いします」


店長の敦子が柔らかく頭を下げると、店内にきゅっと心地よい緊張が走った。


「早速だけど、みんなに重大なお知らせがあります」


その一言だけで、ざわ…っと小さな波が広がる。

視線が一斉に敦子へ。


敦子はタブレットを手に取り、軽く掲げた。


「来月から、AI管理システムの本稼働が決まりました」


「……えっ、ついに!?」

「マジで?」

「なんかSF感ある〜」

ざわつきが一気に明るく広がる。


敦子は“落ち着いて落ち着いて”と言わんばかりに手を振った。


「そんな映画みたいな話じゃないわよ。

 シフト管理、書籍の在庫・配置管理、店内の混雑分析…

 今まで人だけだと追いつかなかった部分を助けてくれるシステムよ」

「ただ、まったく新しいオペレーションになるから、慣れるまではちょっと大変かもね」


そこで、敦子の視線がふっと詩音の方へ向けられた。


「というわけで、システム研修には——副主任の詩音ちゃんに行ってもらいます」


「えっ、私!?」

詩音の声が跳ねあがり、ミーティングの空気が一瞬止まる。


すかさず沙織がニヤニヤしながら肘でつついた。

「年始早々、やるじゃん副主任〜」


「詩音さん、頑張ってください」

となりのミホも微笑む。


詩音は頬を赤くしながら、目をぱちぱちと瞬かせるばかり。


しかし、敦子はにこやかに続けた。


「あなたが一番、全体の流れを客観的に見て動けるし、

 現場の声をシステムに反映させる役としても最適だと思ってるわ」


胸の奥がじんと熱くなる。

“副主任として、少しは認めてもらえた”その実感が、そっと広がっていく。


「……私、E.Tとかよく分からないですけど…頑張ってきます!」


「それを言うならITな」

沙織のツッコミが即座に飛ぶ。


「AIだけどね……よろしく」

敦子がクスッと笑う。


「あ、はい! AR頑張ります!」


「……言葉は迷子だけど、やる気は一番」


ユキがぼそりと言うと、ミーティングの輪に大きな笑いが弾けた。


——今年も、カフェ・ラフォーレ リーヴルスはにぎやかで、あたたかかった。


◇◇◇


同じく1月5日の朝。


正月休み明けの〈ふれあい文学館〉へ続く公園は、人影もまばらで、冬特有の澄んだ空気がゆっくりと漂っていた。


メイはマフラーをぎゅっと掻き寄せ、関係者入口のドアを押す。

ほんのり冷えた館内の匂いが鼻に触れる。


——ラフォーレとは違う、ここだけの“落ち着く匂い”。


慣れた足取りで廊下を歩き、自動灯がぽつりぽつりと灯っていく静けさの中、事務室の扉を開けた。


まだ誰もいない。

机の並んだ広い空間に、朝の光が一筋だけ差し込んでいる。


「……今年も、よろしくね」


小さく囁き、自分の席にバッグをそっと置く。

卓上カレンダーをめくる音だけが、ひとつ落ち着いたリズムで響いた。


ーーー


朝礼を終え、パソコンを立ち上げようとしたその時。


「平瀬ちゃん、ちょっといいかな?」


背中のあたりがピクッと反応する。

“タナ坊”こと田中部長の声だ。


「……はい」


これまでの経験上、呼ばれて良かった試しがない。


(また何かやらかした?)


警戒レベルをMAXにして近づくメイ。


ところが——今日はどこか様子が違う。


声の調子が、いつもよりほんの少しだけ柔らかい。

眉間のシワも、いつもよりゆるんでいる気がする。


タナ坊は手にしていた書類をひらひらと揺らしながら言った。


「いまラフォーレで展示してる『ふれる、なじむ、自然』展なんだけどね——延長することに決まったよ。好評でね」


「……え?」


メイは目を瞬く。


“延長”。


その二文字が、胸の奥にぽ、とあたたかい灯りをともした。


自分の手がけた展示が「もっと見たい」と思われた——

その事実が胸にすとんと落ちた瞬間、

背中をそっと撫でられたような、ふわりとした温かさが広がっていった。


「年末にアンケートまとめたらね、これがまたすごかったんだよ」


タナ坊は得意げに鼻を鳴らしながら続ける。


「見る人によって感じ方が違う、とか、

 心がやわらかくなる展示でした、とか。

 テーマ性がすごく評判でねぇ」


語る横顔は、まるで自分が全部プロデュースしたかのように——

“功績だけはしっかり拾うタイプ”そのものの自慢げさがにじんでいた。


「やっぱり僕の目に狂いはなかったんだよなぁ〜」


(タナ坊、思いっきり丸投げしたくせに……)


喉まで出かかった言葉を飲み込みつつ、

それでもメイの胸にはほのかな笑みが灯っていた。

だって、嬉しい。素直に。


「……ありがとうございます」


自然と頭が下がっていた。

一生懸命がちゃんと届いた。その実感が、心の奥でじんわりと響く。


——しかし、その温もりは長く続かなかった。


タナ坊が「あ、それでね」と書類をパラリとめくり、

まるでおまけのようにサラッと告げる。


「ちょうどバレンタインの時期に合わせてさ、

 ミニ企画展とかイベントをやりたいんだよ。

 平瀬ちゃん、ここはひとつ、案を出してくれないかな?」


(……やっぱりタダでは終わらなかった)


メイの笑顔が、ほんのわずか ひきつる。


でも、先ほどの“延長決定”が胸に残っていたから、

心は思ったより前向きだった。


「わかりました。考えてみます」


そう返すと、タナ坊は満足そうに「頼んだよ〜」と手をひらひら。


背中が事務室の奥へ消えていくのを見届けてから、

メイは小さくため息をこぼした。


「こりゃあ、年始から忙しくなるぞ……」


でもどこか、吹き出すような活力が湧いてくる。


——頑張らなきゃ。


静けさの残る仕事始めの文学館。

その空気の中で、メイの心には

“新しい一年のスタート”が確かに芽吹き始めていた。


◇◇◇


同じく1月5日。

朝の通勤ラッシュの電車は、新年早々の洗礼と言わんばかりにぎゅうぎゅうだった。


「……満員電車、最悪」


梓は吊り革を掴み、小さくため息をつく。

今日は仕事始めで、本社へ顔を出さなければならない。

よりによって、いちばん混む時間帯に。


次の駅でさらに乗客が押し寄せてきた。

その中に、やけに大きな荷物を抱えた女性が、申し訳なさそうに乗り込んでくる。


大きめのザック。

サイドポケットには折りたたみテーブル。

ふわふわした寝袋らしき袋もぶら下がっている。


——どう見てもキャンパーだ。


梓の眉がぴくりと動く。


徒歩キャン…か。


電車が揺れ、女性がバランスを崩した瞬間、

梓は反射的に手を伸ばして腕を支えた。


「あ、すみません!」


「いえ……」


そっけなく返しつつも、心の中では別の景色が立ち上がる。


精進湖の、あの澄んだ空気。

鼻の奥に残る焚き火の匂い。

そして——

Rain越しに、みんなと同じ空を共有したあの時間。


(……悪くなかった、あの感じ)


ほんの少し、梓の口元がゆるむ。


車窓の外には、冬らしい澄んだ青。

梓は吊り革を握り直し、静かに目を閉じた。


◇◇◇


同じ朝。

凛々花の家は、まだ少し冬休みの静けさをまとっていた。


誰もいないリビングで、彼女はそっとカメラを構える。

大学の課題——「冬の光」。

そのテーマを前に、凛々花は朝の空気をひとつ吸い込んだ。


開け放した窓から、やわらかな日差しが細く床をなでている。

その光の道に、ふわりと自分の影が重なった瞬間、

凛々花は小さく首をかしげた。


「今年は……どんな“光”に会えるかな」


ぽつりと落とした声は、まるで空気に触れた途端に溶けて消えていくみたいだった。


ファインダーをのぞく彼女のまなざしは、相変わらず無口でまっすぐ。

でも、その奥には“何か小さな物語を拾い上げている”ような集中が宿っていた。


光が、ほんの一瞬だけ粒子となって舞った。


その世界の変化を凛々花は逃さない。


カシャ。


静かな部屋に、ひときわ澄んだシャッター音が響く。


撮れた一枚を確認しながら、凛々花はゆっくりと口元をゆるめた。


——いい光。


そんな言葉を、心のどこかでそっとつぶやく。


そしてふと顔を上げる。


朝の光。

床の輝き。

壁の色——。


どれも、去年よりほんの少しだけ明るく見えるリビング。


その“変化”をまるごと抱きしめるように、

凛々花はふわりと微笑んだ。


◇◇◇


同じく1月5日。

ル ポ ドゥ レヴ・コーポレーションの仕事始め。


まだ新年の匂いがわずかに漂う社長室で、

草薙麗佳は手帳と端末を前に、びっしり埋まったスケジュールを静かに眺めていた。


「……ふぅ」


深い息が、張りつめた空気へすっと溶け込む。


視線の端に入るのは、部屋の隅にぽつんと置かれた“赤いリュック”。

落ち着いた空間の中で、そこだけが異物のように存在感を放っていた。


コンコン、と控えめなノック。

秘書の浜岡理子が入室する。


「おはようございます。今年もよろしくお願いします」


「うむ。よろしく頼む」


理子は少し笑みを含ませながら、抱えた手帳を胸の前で整える。


「お正月は……ゆっくり、できましたか?」


「いつも通りだ。都内のホテルでな。静かでよかった」


「それは何よりです」


「理子は?」


「はい。実家の高崎に帰って、のんびりしてきました」


言葉を交わすうち、麗佳の視線がふいに横へと逸れる。

理子もつられて部屋の隅へ目を移した。


「……あれ? 麗佳さんがリュックなんて、珍しいですね」


「借りもんなんだよ。……返さないとな」


淡々とした声の奥に、微かに揺れる影。

理子は、それ以上踏み込まないほうがいいと判断したように、話を切り替える。


「では、本日のスケジュールです。

 ――まずは会議が一本増えました。

 明日は山梨の案件で飯島様が15時に来社。その後は——」


年始とは思えないほどの予定の多さに、

理子の声は淡々と、しかし忙しさを物語るように続く。


説明を終えると、理子は丁寧に一礼して退室した。


扉が閉まった瞬間、社長室には再び深い静寂が戻る。


麗佳は椅子の背にもたれ、ひと呼吸おいてから、

ゆっくりと赤いリュックへ視線を向けた。


そこに宿っているのは、仕事とは別種の“重み”。

触れればきっと、胸の奥の古い記憶まで揺らしてしまう。


だからこそ、視線を切るように立ち上がる。


すぐに「社長」としての顔へ戻し、会議へと向かうためドアへ歩き出した。


部屋の隅に残された赤いリュックは、

その場にただ静かに佇み、麗佳の背中を無言で見送っていた。


◇◇◇


ラフォーレの朝。

ふれあい文学館の静かな始業。

ル ポ ド レヴ本社の、張りつめた空気。


詩音も、メイも、そして麗佳も——

それぞれの場所で、それぞれの表情で、

“新しい年の最初の一歩”を踏み出していた。


胸の奥に灯る、小さな期待。

その隣にある、ほんの少しの不安。

それでも、不思議なほどみんな同じ方向を向いていた。


——前へ。


けれど、このときはまだ誰も知らない。


その“前へ”の力が、やがて大きな波となり、

お互い運命を静かに、しかし確かに結びつけていくことを。



ここまで読んでくださってありがとうございます!

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