第141話 詩音の、小さな大決心
夕焼けがゆるく滲む空の下、メイの家からの帰り道を歩く詩音。
家の前まで来ると、アウディの隣に見慣れない赤い車がすっと停まっているのが目に入った。
「……あれ? 誰か来てるのかな?」
冬の冷たい空気を胸に吸い込みながら、そっと近づいてみる。
(軽…ではないよね? でも、なんかコンパクト…?)
ぐるりと周りをのぞき込みながら、まるで新種の生き物を観察するようにジロジロ眺める詩音。
「ん? Nのマーク……?ニッ、なんとか??
……ニンテンドーじゃないよね?」
車にはとことん無頓着な詩音には、ちっとも正体がつかめない。
首をかしげたまま、結局「ま、いっか」と玄関へと向かっていった。
「ただいま〜」
玄関の扉を開けた詩音の声が、家の中にぽんと溶けていった。
けれど——いつもなら真っ先に駆け寄ってくるはずのチワワが姿を見せない。
(あれ……? お出迎え、ない)
不思議に思いながら靴を脱ぐと、奥のリビングからにぎやかな笑い声が聞こえてきた。
「詩音、お帰り〜」
キッチンから母・裕子が手を止めて顔をのぞかせる。
「……ただいま」
返事をしながらソファの方へ視線を移すと——
そこには、叔父の浩太がいた。
「おー、詩音ちゃん。おじゃましてまーす」
浩太の膝には、例のチワワがすっぽりおさまっていた。
撫でてもらってご満悦のその顔。これでは飛び出してくるはずがない。
ソファには父・壮太と、姉の歌音も座っていて、家族で談笑している最中らしかった。
ふだんより少しにぎやかな空気に、詩音の肩の力がふっと抜ける。
「浩太おじちゃんの車だったんだ〜」
ソファに近づきながら詩音が言うと、浩太はにこっと笑ってうなずいた。
「あ、見た? あれ、ノートオーラ。年末に納車でね、新車なんだ」
「へぇ〜、もっとごついのじゃなかったっけ?」
「フォレスターのことか。あれはもう手放したよ。キャンプもしなくなったからさ」
「こいつ、昔っから飽きっぽいからな」
父・壮太がからかうように言うと、みんなの間にふっと笑いが広がる。
「今日も昨日の続きなの?」
詩音が首をかしげると、浩太は「ああ」と苦笑いを浮かべた。
「いや、昨日の集まりのときさ、メガネ忘れちまって。取りに来たんだよ」
「あー、浩太おじちゃん、べろべろだったもんね」
詩音がニヤッと笑うと、浩太は「ははは……」と頭をかきながら視線をそらす。
「詩音ちゃんも座んなよ」
浩太に言われて腰かけようとしたその瞬間、
「お前んちじゃないだろ」
と壮太が即ツッコミ。
その一言にまた笑いが起き、リビングがよりいっそうあたたかくなる。
昨日の親戚の集まりは人が多くて、浩太とはほとんど話せなかった。
詩音はちょこんと浩太の横に座り、ようやく落ち着いて言葉を交わせる。
「そうそう、キャンプのお土産、ありがとうね。子供たちが喜んでたよ」
「よろこんでもらえた?
ほらね〜、やっぱセンスいいんだよ、私」
胸を張る詩音に、歌音が半眼でツッコむ。
「で、どんなお土産だったの?」
「これこれ」
浩太がスマホを取り出し、画面を詩音たちに向ける。
映っていたのは、テレビ台の横に堂々と置かれた――
武田信玄のフィギュア。
腕を組んで仁王立ちの鎧姿。
……なのに、二の腕と胸筋が不自然なくらい膨れ上がっており、
肩当てが今にも弾け飛びそう。
極めつけは台座に金文字で刻まれた一文字。
「勝」
「……変わった信玄だな」
壮太が思わず本音を漏らす。
「子供たちがさ、『何に使うのか分かんないけど強そう!』って大はしゃぎしてたよ」
浩太が笑いながら言うと、歌音が肩をすくめた。
「詩音のセンス、ほんと分かんないわ。
私なんか、変な顔がいっぱい描いてあるブドウのぬいぐるみだったし」
「えー! あれ可愛いじゃん?」
「可愛いわけないでしょ……ってか、あの顔の密度、怖いし」
呆れたように眉をひそめ、ツンとした顔で言い放つ歌音。
すると、キッチンから裕子の声が飛んだ。
「あら歌音、あれベッドに置いてあるじゃない」
「えっ、それは……!」
「なーんだ、お気に入りなんじゃん!」
詩音が即座に突っ込むと、
リビングにまた笑いが広がり、犬のチワワまで尻尾を振って和んだように見えた。
そんなとき、浩太がふと思い出したように声を上げた。
「おお、そうだ、詩音ちゃん」
紙袋をガサゴソと探りはじめる。
「これさ、片づけてたら出てきてさ。いる?」
差し出されたのは、細長いナイロンの袋。
詩音が首を傾げながら口を開いて中をのぞくと——
「あ、これ……!」
中から姿を現したのは、アウトドアメーカー『キャプテン・ディア』のローテーブル。
「知ってる! メイちゃん持ってたやつだ!」
目を輝かせる詩音。
メイが使っていたものと形は似ているけれど、こちらは落ち着いた木目調の天板がついている。
浩太はどこか照れくさそうに肩をすくめる。
「一応、限定品なんだよ。よかったら、どーぞ」
「……いいの?」
遠慮がちに聞くと、
「もう使わないからね」
と、軽く笑いながら言った。
「ありがとう!」
詩音はローテーブルを胸に抱えたまま、くるっと軽やかに一回転。
そのまま片手を大きく突き上げ、満面の笑みで叫んだ。
「フィーバー!」
「……ジョン・トラボルタかい」浩太が思わず突っこむ。
「ていうか詩音ちゃん、よく知ってるね?」
すると壮太が苦笑しながら言った。
「小さい頃な、『サタデー・ナイト・フィーバー』を見せたら、このポーズばっかりするようになってさ」
「やっぱ兄さんの影響か!」と浩太。
部屋にくすくすと笑いが広がる。
けれど――詩音だけは、その目がキラリと光った。
「……よし、なんか、いける気がしてきた!」
突然スイッチが入ったらしい詩音に、
ソファの3人がそろって「え?」と眉を上げる。
テーブルを掲げたまま、詩音は胸を張った。
「浩太おじちゃん、私ね、ソロキャン行こうと思ってて!」
高らかな宣言がリビングに響いた。
その瞬間——
ソファの3人は一斉に動きを止めた。
目だけがゆっくり詩音へ向く。
ぽかん、と口を開ける壮太。
「は?」と小さく呟く歌音。
浩太は手に持っていたカップを危うく落としそうになる。
予想外すぎる宣言に、数秒の静寂。
「……ソロキャンかぁ。ビギナーがまた大きく出たねぇ」
一番に口を開いたのは浩太だった。
目を丸くしたまま、苦笑いとも心配ともつかない表情で詩音を見る。
「あんた、ひとりでなんて無理でしょ」
歌音が即座にツッコミを入れる。
「そんなことないもん!」
詩音はぷくっと頬を膨らませた。
「初心者だし、ある程度設備の整ったとこの方がいいんじゃないかな」
浩太が腕を組んで考え始める。
「どこかいいキャンプ場、ない?」と詩音。
「そうだなぁ……諏訪湖の方とか夜景がキレイだし、八ヶ岳なら星空も楽しめるし……で、車で行くのかい?」
「そうしようかと……」
その瞬間、話を聞いていた壮太と歌音が声を揃えた。
「それはやめとけ!」
壮太と歌音の声が見事にハモった。
「えーーっ!?」
詩音の抗議がリビングいっぱいに響き渡る。
「徒歩キャンなら、あまり遠くじゃない方がいいよね」
浩太が苦笑しながら話を戻す。
「御殿場たかね野キャンプ場なんか、いいかもな」
「それって、どこ?」
詩音は身を乗り出す。
「御殿場なんだけどね。ゴルフコースに隣接してるし、設備も良いし……初心者でも安心じゃないかな」
「ちょっと待って!」
詩音はすばやくスマホを取り出し、フリック入力でメモを打ち込み始める。
「ほかにも……」
浩太はいくつかのキャンプ場の名前を挙げていく。
詩音は「うんうん!」と相づちを打ちながら、真剣そのものの表情でメモを続けた。
「おまえ、そんなにあちこち行ってたのか?」
壮太が半ば呆れ、半ば感心した声をもらす。
「いや、調べただけだよ。行ったのは清里と御殿場の二つだけ」
「だろうな……」
壮太がぼそっと返すと、リビングにまた笑い声が広がった。
その中で詩音だけは、夢中でスマホに指を走らせている。
その姿はまるで——新しい世界の扉を、今まさに開けようとしているみたいだった。
「浩太クン、晩ご飯食べてかない?」
キッチンから裕子の声が飛んできた。包丁の軽やかな音がBGMのように続いている。
「ありがとう、姉さん。でも、家でもう作っちゃってるからさ。そろそろおいとましないと」
浩太はチワワをそっとソファに戻し、立ち上がりながら笑った。
「えー、もう帰っちゃうの?」
詩音が名残惜しそうに言う。
「今日は酔ってないから、忘れ物もしないよ」
浩太が肩をすくめると、
「昨日のべろべろ具合はすごかったよなぁ」
壮太がニヤッとつつき、歌音も「スマホを冷蔵庫にしまってたよね」と追い打ち。
「おいおい、そこまで言う? 今年は酔い方に気をつけるよ」
浩太は照れ笑いを浮かべながら玄関へ。
裕子が布巾で手を拭きつつ顔を出す。
「寒いから、気をつけて帰るのよ」
「はいはい、母さんみたいなこと言わないでよ」
浩太は靴を履きながら軽口を返す。
玄関のドアを開けると、夕暮れの冷たい空気がふっと流れ込んだ。
「じゃ、またな。詩音ちゃん、ソロキャン、ほんと気をつけてな!」
「任せて!」
詩音が胸を張ってこたえると、
「……その自信が一番不安なんだが」
壮太がぼそっと言い、また笑いが起きた。
浩太は手をひらひら振りながら玄関をしめる。
小豆沢家の四人と一匹は、名残惜しそうにその背中を見送った——。
◇◇◇
その夜。
詩音は自室のベッドに寝転び、枕元に置いたタブレットで
浩太の教えてくれた『御殿場たかね野キャンプ場』をゴーグルマップで検索していた。
「うおー、富士山見えるじゃん!!」
画面いっぱいに広がる富士山の写真に、思わず声が漏れる。
ふかふかの芝生の上にテントを張って、
朝日を浴びながらあったかいコーヒーを手にする自分。
焚き火のそばでマシュマロを焼いている自分。
写真を撮って「いい感じ〜!」とひとりで盛り上がる自分。
……次々と妄想がふくらんで、胸がくすぐったくなる。
「へへ……最高じゃん……」
気づけば頬がゆるみっぱなしで、
顔の横に「デヘヘ」と文字が浮かんでいそうなくらいだった。
◇◇◇
そのころ——。
メイの家。
和室では、干しておいたテントをきれいに畳んでいるところだった。
リビングのテーブルから、
“ピコン” とRainの着信音が響く。
「ん? 誰かな?」
メイが手を止めてリビングに戻り、スマホを手に取ると——
画面には詩音からのメッセージ。
『私、ソロキャン行きますっ!』
勢いそのままに、鼻息ブンブンの馬が荒ぶっているスタンプまで添えられていた。
「……詩音らしいんだけど」
メイは苦笑しつつも、胸の奥にほんのり不安が灯る。
(大丈夫かぁ……ひとりで)
だけど、その不安と同じくらい——
いや、それ以上に、どこか嬉しくも感じていた。
詩音がまた一歩、前に進もうとしている。
メイはスマホを見つめながら、そっと微笑んだ。
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