第140話 今年も、よろしくね
1月2日。お昼前のメイの家。
カーテン越しの冬の日差しが、静かなリビングをほのかにあたためている。
メイは壁の時計をちらちら気にしながら、ソファの前に座ってテレビを見つめていた。
画面には、箱根駅伝の中継。
アナウンサーの声が、少し緊張を含んだ調子で流れてくる。
「四区に入ってもトップは依然、中都大学。この先に待ち受けるのは急勾配の押切坂。左へカーブしながら下りきると、今度はすぐに上り、そのあとまた下る難所です」
(うわ……きつそうだなぁ)
走者の荒い息づかいがマイクに拾われるたび、メイまで胸のあたりがそわっとする。
そのとき──
――ピンポーン。
(来た、来た!)
ぱっと表情が明るくなる。
メイは立ち上がり、玄関へ向かった。
玄関を開けた瞬間、
「あけまして、おめでとー!」
弾む声が飛び込んできた。
満面の笑顔の詩音が立っていた。
片手には風呂敷に包んだおせち、もう片方にはハンバーガーショップの紙袋。
メイも「あけましておめでとう」と笑顔で答える。
「メイちゃん!チーズバーガーも買ってきたよ!
正月って、こういうの食べたくなるじゃん?」
「わかる! なんか急に食べたくなるよね」
ふたりは靴を脱ぎ、明るい笑い声を響かせながらリビングへ入っていく。
「おっ、箱根駅伝? うちでも見てたよ〜」
「駅伝って、走ってるだけなのにさ……なぜかずっと見ちゃうんだよね」
「それ、めっちゃ分かる! 気づくと応援してるんだよね」
詩音はテーブルに風呂敷をそっと広げる。
中からあらわれたのは、小さめの二段重。
「じゃーん!
これ、うちで作ったおせち。
お母さんが“メイちゃんにも持っていきなさい”って」
ぱかっと蓋を開けると、
伊達巻き、黒豆、松前漬け、栗きんとん、煮しめ……
色とりどりの料理が、きれいに並んでいた。
「これ作ったの? すご……!」
「黒豆と松前漬けは買ってきたやつだけどね。
あっ、この里芋の煮っころがしは私! がんばった!」
やさしいおだしの香りがふわりと立ちのぼり、
部屋の中が一気に“お正月のあたたかさ”で満たされていく。
メイは、胸の奥がじんわりあたたまるのを感じながら微笑んだ。
「……おせちなんて、何年ぶりだろう。
ほんとにありがとう、詩音」
その声はどこか照れくさく、でも嬉しさが滲んでいた。
ーーー
「いただきまーす!」
テーブルにつくなり、メイはさっそく箸を伸ばした。
つやつやした紅白なますを口に運ぶと、思わず目を細める。
「このなます、美味しい…」
「でしょ? おばあちゃん秘伝のやつなんだぁ」
詩音はチーズバーガーをほおばりながら得意げに笑う。その対比がなんとも可笑しくて、メイもつられて笑った。
テレビでは、大磯の海沿いを走るランナーたちが映る。
『3号車です。4位争いはまだまだ予断を許しません——』
「接戦だ〜、4位」
詩音がつぶやきながら視線を横にそらすと、隣の和室が目に入った。
「あっ、しっかり干してるね!」
そこにはテントやシュラフがきれいに広げられ、やわらかな日差しを受けてふわりと揺れていた。
「昨日帰ってすぐ干したよ。あとで、なんて思ったら絶対やらなくなるから」
メイは黒豆をひと粒つまみながら肩をすくめる。
「キャンプって、最後の片付け大変だもんね……。で、で! ソロキャンはどうだったの?」
「うん、よかったよ! 写真見る?」
「見る見るっ!」
メイがスマホを取り出し、フォトアプリを開く。
画面には、駿河湾の向こうにそびえる富士山。
「おお〜、ふじさーん! これ、Rainで送ってくれたとこだよね?」
「そうそう。西浦キャンプ場」
スワイプすると、青空の下でぱっと映えるオレンジのテント。
「うわ、これ映える〜! 青空とオレンジ、最強じゃん」
「天気、めちゃ良かったからね」
さらに進むと、ローチェアに座ったメイの自撮り。
詩音はすかさず身を乗り出す。
「メイちゃん、かわいい〜!」
「やめてよぉ……。あ、ここが受付で——」
次々に現れる写真に、「いいな〜!」と歓声をあげる詩音。
説明しながら、メイの声にも自然と熱がこもる。
ふたりの間に、ソロキャンの風がふわっと吹き抜けていく。
「いいなぁ……私もソロキャン行きたいなぁ」
「詩音のソロキャン……なんか危なっかしいけど」
「そんなことないもん!」
ぷくっと頬をふくらませる詩音に、メイはくすっと笑顔を向けた。
そのとき、一枚のよく分からない写真が画面に現れる。
右下に湯気の立つケトルの注ぎ口が少し。あとは葉っぱの垣根。
「え、これ何?」
「ああ……これね。“風が微笑んでるな”って思って撮った写真」
ふたりの間に一瞬の静寂。
——ぷっ。
詩音が吹き出す。
「もう〜、絶対まちがえて撮ったやつかと思ったよ!」
「違うよ! 凛々花ちゃんの真似したんだけど……やっぱ変だよね」
メイもつられて笑い出す。
「凛々花ちゃんの感性は別格だからね〜」
「だね。凛々花ちゃんみたいには、なかなか上手くいかないよね……」
メイは頬をかきながら小さく苦笑した。
お昼の沼津港で食べた海鮮丼、帰りに寄った温泉旅館──
ひと通りメイのスマホをスクロールし終えると、詩音は大きく背もたれに寄りかかった。
「なんかさ……今すぐキャンプ行きたくなっちゃったよ〜」
そんな詩音にメイは苦笑しながらも、少し嬉しそうにうなずく。
「グルキャンの話も進めないとね」
「あっ、そうだ! グルキャン!」
詩音の顔がぱっと明るくなる。
「クリスマス会で決めたよね、絶対行く!” って。あれ、本気だから!」
「日程とか、場所とか……そろそろ決めなきゃだね」
「じゃあさ、今度“グルキャン計画会議”やろう!」
詩音が親指を立てて、勢いよく言う。
そのテンションに引っ張られて、メイも思わず笑う。
「うん。梓ちゃんと凛々花ちゃんに、私から連絡しとくね」
そう言うとメイは伊達巻きをひょいとつまんで口に運んだ。
ほんのり甘い正月の味が、静かな午後にやさしく広がった。
ーーー
おせちもチーズバーガーも食べ終え、テーブルの上がようやく落ち着いたころ。
テレビでは箱根駅伝の中継が続いていた。
「先頭は小涌園前を通過していきます」
画面には、険しい表情のランナーたち。冬の光に照らされながら、ひたむきに前へと脚を運んでいる。
「城東学園大学の富岡くん、脇腹を押さえてますね」
解説者の少し緊張した声が響く。
「苦しそうだね……」とメイ。
「富岡くん、頑張れっ!」
詩音は身を乗り出すようにして、選手を応援する。
こういうところの入り込み方が真っ直ぐで可愛い。
ふとメイが思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、中学のときのクラスメイトで、陸上で800メートルやってた子がいたんだよ」
「800って……しんどそう」
詩音が苦い顔をする。
「でね、その子が卒業文集にこんなこと書いてたの。
『人は皆、楽な方へと行きたがる生き物である。だから私は厳しい方へ行こうと思う』って」
詩音が「ほえ〜」と変な声を出す。
「その子、陸上の強豪校に進学して、インターハイまで行ったって聞いたな……」
湯気の立つ湯のみを手に、メイはテレビをぼんやり見つめながらつぶやく。
「名言だよ、それ。なんか、かっこいい」
詩音が素直に感心して頷く。
その時、テレビからレポーターの声が響いた。
「箱根神社の大鳥居が、選手の到着を今か今かと待ち侘びています。こちらからは以上です」
画面には、真っ赤な鳥居と、その周りにびっしり集まった観客たち。
冬の空気に吐く息が白く揺れていた。
詩音がぱっと振り向く。
「ねぇ!初詣、行こうよ!」
「ちょっと距離あるよ。車出す?」とメイ。
詩音は得意げに胸を張った。
「いや、きびしい方で行こう!」
徒歩で行くことに決まった瞬間、メイは思った。
(あの中学の子の話に、絶対影響されてる……)
でもそんな詩音の勢いが、なんだかおかしくて。
メイは思わず笑顔になった。
◇◇◇
支度をして、矢鞠の深里神社へ向かって歩き出したふたり。
「歩いて二十分くらいかな」
メイがそう言うと、
「お昼のあとのいい運動だね〜」
詩音は軽やかにスキップでもしそうな勢いで、楽しげに歩幅を合わせてくる。
お正月の昼下がり。
雲ひとつない青空が広がり、日差しは明るいのに、空気はきゅっと冷たい。
「……やっぱ寒いよね」
メイはマフラーに顔を埋めて、肩をすくめた。
「放射冷却っ!」
詩音は唐突に立ち止まると、両手を空へ突き上げて意味不明なポーズで叫ぶ。
そして、くるりと振り向いてニコッと笑う。
「……ふふ。今年も詩音は元気だね」
自然と笑みがこぼれるメイだった。
ーーー
矢鞠駅を通り過ぎたあたりから、初詣帰りらしい家族連れやカップルの姿がぽつぽつと見えはじめる。
遊歩道から小さな路地へ曲がると、
木立のあいだから静かに佇む石造りの鳥居が見えてきた。
深里神社——地元で昔から親しまれている、小さな神社だ。
境内の外には簡素な屋台が数軒並び、焼きそばの香ばしい匂いと甘酒の湯気がふわりと漂っている。
参拝の列は思いのほか長く、鳥居の近くまで三十メートルほど伸びていた。
「わ、けっこう人いるね」
「いつもは静かなんだけどね……さすがお正月」
ふたりは列の最後尾につき、肩を寄せて息を白くしながら順番を待った。
しばらく並んで、ようやく参拝の順番が回ってきた。
チャリン、とお賽銭を入れ、二礼二拍手。
胸の前でそっと手を合わせ、静かに目を閉じる。
最後に深々と頭を下げると、肩の力がふっと抜けた。
「メイちゃんは、なんてお願いしたの?」
隣で詩音が小声で聞いてくる。
「今年も元気で過ごせますように……って」
「えっ、まったく同じだよ! 私もそうお願いした」
ふたりは思わず顔を見合わせ、ほころぶように笑い合った。
ーーー
「屋台も見ていこっ!」
詩音に誘われるまま人だかりの方へ向かう。
境内の片隅に、五、六軒ほどの屋台が並んでいて、
焼きそばの香りや甘い綿あめの匂いが、ふたりの心をふわりと弾ませた。
「なんか夏祭り、思い出すね」
詩音が懐かしそうに笑う。
「うん。規模は全然違うけど……あのとき迷子も出てたし」
「迷子、いたねぇ〜」と詩音がふふっと笑う。
「あ、りんご飴! 食べようよ」
赤く光るりんご飴に目を奪われ、ふたりは迷わず購入した。
「そういえば、あのときも食べたよね」
「うん。浴衣着て、下駄履いて……」
「なんか懐かしいねぇ」
カリッとひと口かじると、甘酸っぱい香りが口の中に広がる。
りんご飴を揺らしながら詩音が言った。
「また今年も行こうよ!」
「うん、行こう」
そんな会話をしながら鳥居をくぐった瞬間、
詩音がふいに立ち止まり、ぱっと振り返った。
「ねぇ、メイちゃん。今年もよろしくね!」
あまりにも急で、あまりにも屈託のない笑顔。
メイは少し慌てながらも、自然と笑みを返した。
「うん……よろしく」
冬の空気は冷たいのに、胸の奥がじんわりと温かい。
ふたり並んで歩き出すと、午後のやわらかな陽ざしが背中をそっと押してくれるようだった。
今年は、どんな思い出ができるんだろう。
そう思っただけで、メイはまたひとつ、静かに微笑んだ。
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