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第137話 赤いリュック


12月26日。澄んだ冬の空が広がっていた。

街は一夜でクリスマスの余韻を脱ぎ捨て、年の瀬の空気に包まれていく。


朝のカフェ・ラフォーレ リーヴルス。

昨日まで店内を彩っていたデコレーションは跡形もなく、本来の落ち着いた姿に戻っていた。


「…では今日もよろしくお願いします!」


朝ミーティングを終え、スタッフが散っていく。

この日の早番は、敦子、詩音、沙織、ユキ、そしてアルバイトのくるみ。


「クリスマスの雰囲気、なくなっちゃったよ〜」

詩音がぐるりと店内を見渡してぼやく。


「そんなもんでしょ、もうすぐ年末だよ」

沙織が肩を軽く叩く。


「時は待ってはくれない」

ユキが低い声でつぶやいた。


「エントランスの大きなツリー、撤収早かったよね」

沙織はテーブルを拭きながら言う。


「本社の装飾チーム、仕事早すぎる」

厨房へ向かうユキがぼそっと続ける。


「サンタのコスプレ、気に入ってたのにな〜」

詩音が名残惜しそうに言うと、


「似合ってましたよ」

椅子を揃えていたくるみがくすっと笑う。


「でしょ!ずっと着ていたかったくらいなんだから」


「はーいはーい、開店準備急ぐよー」

沙織の声に、スタッフがそれぞれ持ち場へ散っていく。


敦子はそんな様子をやわらかく見つめ、控室へ戻っていった。



そのころ、矢鞠駅前の道を一台の車がゆっくり進む。

セージグリーンのボルボSUV。

フロントガラス越しに、カフェ・ラフォーレ リーヴルスの建物が見えていた。


車は静かにその方向へ向かっていく。


◇◇◇


「オープンしまーす!」


詩音が鍵を外し、店にやさしいジャズが流れ出す。

レジに入ってひと息ついた、そのとき——


ーーカランコロン。


ドアベルが澄んだ音を立て、店内の空気がふっと張りつめた。


「いらっしゃいませ」


振り返った詩音の視線の先——

草薙麗佳が立っていた。


いつものきっちりしたスーツではなく、落ち着いたカジュアル。

それなのに、纏う空気にはやわらかな緊張感がある。


「麗佳社長!?」


詩音の声に、スタッフ全員が一斉に振り向き、軽いざわめきが走る。


「おはよう。みんなそのままで。今日は“ただの客”だからね」


麗佳は柔らかい笑みを浮かべ、軽く手をあげた。


「ブレンド、ホットで」


千円札を差し出しながら、いつもの簡潔さで注文する。


「は、はいっ!」


慌ててレジを打つ詩音に、麗佳はふっと目を細めた。


「詩音。みんなをここまでまとめてくれて…ありがとう」


「えっ……あ、はい!」


「これからも、頼むよ」


支払いのあと、麗佳はバイブベルを手に取り、店内へ向かった。


途中、沙織が頭を下げる。


「沙織さん。副主任のサポート、大変だったでしょう。感謝してます」


「と、とんでもありません!」


沙織は照れたように顔を赤くした。


ユキには——

「本の扱いが丁寧で助かっています。ありがとう」


くるみには——

「その笑顔、お客様にもきっと伝わってますよ」


ひとりずつ名前を呼び、ひと言ずつ、丁寧に。


「……全部覚えてるのかな、名前」

詩音がぽつり。


「覚えてるわよ、あの人」

いつの間にか横に来ていた敦子が答える。


「仕事ぶりも、店長会議のとき聞いてきたり…

日誌も全部読んでるしね」


「全部って……すごいですね」


「毎年12月は、自分の休みに全部の店を回るのよ。急に来るから、みんなびっくりしちゃうんだけどね」


敦子が微笑む。


「私、ちょっと行ってくるわね」


そう言い残すと、麗佳のところへ向かった。


詩音の視線の先では、麗佳が窓際カウンターで敦子と楽しそうに言葉を交わしていた。


やがて敦子が展示エリアの方を指し示すと、

麗佳はうなずき、ゆっくりと歩いていった。


「……ほんと、すごいオーラ」

沙織がつぶやく。


「吸い込まれそうなんだよね、あの人」

詩音も小さく笑った。


すると後ろで控え室の扉が開いた。


「おはようございます!」


資料を抱えてメイが店内へ入ってくる。


「二人とも、どうしたの? ぼーっとして」


「あ、メイちゃん!」


詩音が振り返る。


「麗佳社長が来てるんだよ。今、写真展の方へ行ったよ」


「えっ!? そうなの!?」


メイは資料を抱え直し、足早に展示エリアへ向かった。


◇◇◇


「ふれる、なじむ、自然……か」


入口のイーゼルに目を落とし、麗佳は静かに展示エリアへ足を踏み入れた。


自然素材のオブジェが散りばめられ、パネルひとつひとつが柔らかい光に包まれている。

奥へ進むと、「木陰でしゃがみ込む女の子」の写真が目に留まった。


落ち葉をいじっているのだろうか。

しゃがむ背中は小さいのに、どこか強さを感じさせた。


『ひとりでも大丈夫』


そんな声が、ふっと聞こえた気がする。


もう一度見直すと、今度は——


『パパ、まだかな?』


無邪気な声が聞こえてくるような気もした。


(……見る側の気持ちで、こんなに表情が変わる写真なのね)


わずかに目の奥が熱くなるのを感じながら、麗佳はそっと息を吐く。


次に目を向けた写真には、焚き火の前で笑い合う二人の女の子。

後ろにはテントが映っていた。


ただのキャンプのワンシーンのはずなのに、胸の奥がきゅっと掴まれる。


「あぁ……そういえば……」


長いあいだ閉じていた記憶の扉が、かすかに軋む。

その瞬間——


「おはようございます!」


明るい声に現実へ引き戻された。

振り返ると、メイが資料を抱えて立っていた。


「ああ、おはよう」


麗佳はすぐに微笑みを整えた。


「すみません、いらっしゃったの気づかなくて……」


「気まぐれで立ち寄っただけだから。驚かせたね」


そう言って、メイの方へ歩み寄る。


「平瀬さん、よく仕上げたね。この写真展。

ここまでまとめるの、大変だったでしょう?」


「いえ……そんな……」


「あなたの頑張り、聞いてるよ。ありがとう」


その言葉にメイは顔を上げる。

麗佳は、どこか懐かしむような、寂しさを帯びたような目でメイを見ていた。


その視線に、メイは胸がきゅっとなる。


(……な、なんだろう。こんなに見つめられると……)


気恥ずかしさに、そっと視線を落としたそのとき。


麗佳の手元でバイブベルが震えた。


「コーヒーができたみたいだ。それじゃあ」


短く告げて、麗佳はメイの横をすり抜けていく。


「あ、ありがとうございました!」


メイは深々と頭を下げた。


(……そんなに見られるほど、変な顔してたのかな……?)


ふと不安になり、メイはあわててスマホを取り出して自分の顔を確認した。


◇◇◇


席に戻った麗佳がコーヒーを飲み終える頃には、店内はすっかり朝の賑わいを見せていた。


本を片手に静かな時間を楽しむ老紳士。

パフェを前に、はしゃぎながら写真を撮り合う女子学生。

絵本を広げ、子どもと並んで物語の世界へ入り込む母親。


大きな窓から差し込む冬の陽光が、彼らの姿をやわらかく照らし、

それぞれの「くつろぎ」がラフォーレの空気に溶け込んでいた。


その光景に、小さく息をつくような微笑みを浮かべてから、

麗佳はそっと立ち上がった。


「もうお帰りですか?」

レジから敦子が声をかける。


「ああ。またふらりと寄らせてもらうよ」


そう言いかけて、ふと足を止めた。


「敦子……いい店にしてくれたな。ありがとう」


敦子は、胸の奥を温かく撫でられたように微笑んだ。


「麗佳さんの想いのままに、ですよ」


その言葉に麗佳は、少しだけ照れたような、それでいて満ち足りた笑顔を浮かべる。

軽く手を上げて店を後にした。


外に出ると、冷たい冬の風がほほをかすめた。

ボルボのシートに身を沈め、ドアを閉める。

車内に戻った静けさが、胸の奥に沈んだ思いをそっと揺らす。


ハンドルに両手を添えたまま、しばらく窓の外を見つめ──

「……本当に、そっくりだな」


かすかに落ちる独り言。

長く胸にしまっていた記憶の扉が、またひとつ小さく軋んだ。


はぁ……と息をひとつ吐き、麗佳はゆっくりとエンジンをかけた。


セージグリーンのボルボは、静かに動き出し、

ラフォーレの駐車場を後にした。


国道を北へ。

年の瀬の街は、どこか落ち着かない気配で満ちている。


前の車の流れに合わせてゆっくり減速すると、

赤信号がフロントガラスに淡く映り込んだ。


その赤が、麗佳の意識に火をつける。


赤いリュック。

焚き火の前で笑うふたり。

展示エリアの写真。

そして──平瀬メイの、あの面立ち。


「……ずっと、あのままだったからな」


ぽつりと落ちた独白は、自分に言い聞かせるようで、

どこか悔いているようでもあった。


信号が青に変わる。

麗佳はスッとアクセルを踏み込んだ。


視界の端を「町田方面」の標識が流れる。

その一瞬、胸の奥にそっとしまい込んでいた“扉”が、

静かに、ゆっくりと軋むように開いた。


◇◇◇


「鵜野森」と書かれた交差点を曲がり、

住宅街を抜けていくと、見覚えのある古い建物が現れた。

焦げ茶色の木壁、小さなガラス窓。

どこか冬の陽ざしに溶け込むような、懐かしい佇まい。


麗佳はその横の空きスペースへ、ごく自然な手つきで車を停めた。

ドアを開けた瞬間、冷えた空気に混じって、

遠い日々の香りがふわりと胸をくすぐる。


──Branchée。


昔から変わらない小さな看板。

その下にある「営業時間 AM7:00〜AM11:00」の文字まで、

まるで時が巻き戻ったかのように見えた。


少しのあいだ看板を見つめたのち、

麗佳は小さく息を整え、木製のドアに手を添える。


ーーカラン、コロン。


扉が開いた瞬間、

焙煎した豆の甘い香ばしさが静かに迎えてくれた。

店内には、朝の名残だけがひっそりと漂っている。


カウンターの内側では、老紳士がカップを丁寧に拭いていた。

「すみません、今日はもう……」

そう言いかけて顔を上げた彼は、言葉をふっと止めた。


わずかに目を細め、手元のカップを拭く動きが、ほんの一瞬だけ止まった。

その気配を悟られまいとするように、老紳士はすぐ視線を戻し、静かに口を開いた。


「……めずらしいじゃないか」


「ええ……」


わずかな沈黙が、

店内の静寂をゆっくりと満たしていく。


「立ってないで、座ったらどうだ」


「はい……」


促されるままに、麗佳は店の奥へ進み、

カウンターにそっと腰を下ろした。


椅子が、ごく小さな音を立てた。


カウンター越しの空気は、どこかぎこちなく、落ち着かないままだった。

麗佳は視線をテーブルへ落としたまま、静かに息をつく。


「コーヒーでいいか」


「……はい」


老紳士は、手元のカップを置いて湯を沸かしはじめた。

その背中に向けて、かすかに声だけを投げる。


「何年ぶりだ?」


「母さんの七回忌以来だから……三年ぶりかな」


「……そうか」


しんとした店内に、湯を沸かす炎の音が、細く長くにじむ。


麗佳がそっと顔を上げると、

作業に集中する栄三郎の背中が、視界にふと映った。


(……少し、小さくなったのかな)


思わず心の中でつぶやき、視線を店内へと移す。

木のぬくもりのある壁。

昔と変わらない、こじんまりとした空間。

そのすべてが、どこか遠い時間の底から浮かび上がってくるようだった。


カウンター奥の木製棚に目をやると、

白黒の小さな写真がふと目に入る。


古びた額の中、カフェ・ブランシェのオープン時の記念写真。

父・栄三郎と、母・寿美子。

若い頃の自分。

そして、隣で無邪気に笑う加輪隅明夫の姿。


麗佳の視線に気づいたのか、

栄三郎は手を止めずにぽつりと声を漏らした。


「ラフォーレのオープンのときは……カワがいろいろ迷惑かけたな」


「いえ……。カワさん、本社まで謝りに来てくれて」


「……そうか」


やがて湯が沸き、

栄三郎が静かにドリップをはじめると、

柔らかなコーヒーの香りが店いっぱいに広がっていった。


しばらくして、

カウンターに湯気の立つカップがそっと置かれる。


「ありがとう」


そう言って麗佳は両手でカップを包み、口元へ運ぶ。

ひと口含むと、胸の奥底をそっと温めるような、

いつかの“あのコーヒーの味”が広がった。


栄三郎は手元を片付けながら、ぽつりと言った。

「……で、何の用なんだ」


「え?」


「お前が、何の用事もなくこの店に来るタマじゃないだろ」

その声音はぶっきらぼうなのに、不思議とあたたかみがあった。


麗佳は視線を落とす。

「取りに来たものがあって……」


「リュックか。赤いリュックだろう」


「……はい」

思わず顔を上げてしまう。


「やっぱりな。ちょっと待ってろ」


栄三郎はカウンター脇のベージュの暖簾へ入り、すぐに赤いリュックを抱えて戻ってきた。


「あれだけ大事にしてたくせに、置いてくなんてと思ってな」


赤いリュックを懐かしそうに見つめながら続ける。


「すぐ取りに来るかと思って、ずっとそこに置いておいた」


カウンター越しに、そっと差し出される赤いリュック。


「……ありがとう」

麗佳はひとことだけ言って、それを受け取った。


すこし色褪せた“ゴールマン”の赤いリュック。

忘れていたわけじゃない。ここへ来づらかったのもあるけど……。

ただ――


ストラップに刺繍された金色の「K.K」の文字が、

麗佳の胸をぎゅっと締めつけた。


ーーあれは、

大学を卒業して、最初の夏の終わり。


矢鞠駅そばの小さなカフェバー。

カラン、と氷の音が響く中、裕子がストローをくわえて目を丸くした。


「麗佳がキャンプなんて、意外」


「会社の人に誘われてね。断れなくてさ」


「へぇ〜」

隣の奏恵が意味ありげに笑いながら、グラスの縁を指でなぞる。


「で、キャンプ道具なんて持ってるの? 麗佳」


裕子がソルティドッグをひと口飲みながら首を傾げる。


「手ぶらでいいって言われたから……」


と言いかけたとき、

奏恵がぱっと身を乗り出した。


「わたし、キャンプ用のリュックあるよ!貸したげる!」


「キャンプ用?」


「うん。彼がキャンプ好きでさ、この前連れてかれた時に買ったやつ」


「はい出た、ラブラブ〜」

裕子がストローをくるくる回しながら茶化す。


「ち、ちがうってば!……でも、もう私は行かないかな〜」


「奏恵、めっちゃインドアだもんね」


「それにさ、虫……多すぎ!」


三人の笑い声が弾ける。

その空気がどこか眩しくて、麗佳もつられて笑った。


「じゃあさ、今度うちまで持っていってあげるね!麗佳!」


屈託のない笑顔でそう言う奏恵は、

いつものように太陽みたいに明るかった。


ーー


数日後。

奏恵が唐突に家を訪ねてきた。


「はい、これリュック!」


家の前で、真っ赤なリュックを両手で差し出す。


「ありがとう。よかったら上がって――」


「ううん、これからドライブなんだ」


そう言って振り返った先には、深緑のステーションワゴン。

その横で細身の男性が軽く会釈する。


麗佳も少しだけぎこちなく頭を下げた。


「これね、人気で、かぶると困るから、イニシャル入れてもらったんだよ」


ストラップには

“K・K”――喜多原奏恵の小さな刺繍。


「あと、これも!」


リュックの金具に、やたら存在感のあるスヌーピーのぬいぐるみがぶら下がっていた。


「げっ……これは遠慮しとくわ」


「えー!? スヌーピーかわいいじゃん!信じられない!」


笑いながらぬいぐるみを外す奏恵。

その無邪気な姿を眺めていると、

胸の奥がふっと温かくなり、少しくすぐったかった。


「返すの、いつでもいいからね。もう使わないと思うし!」


満面の笑顔でそう言うと、

奏恵は手を振りながら、彼の元へ小走りに向かっていった。


麗佳はその背中を、

しばらく何も言えずに見つめていた。


ーーー


返さなかったのではない。

返せなかったのだ、と今なら分かる。


忙しさに紛れたふりをして、

その実、向き合うことを避けていた。


そうしているうちに──

奏恵は帰らぬ人になってしまった。


あの赤いリュックは、

いつの間にか“奏恵の想いを背負うもの”になり、

麗佳を励まし続けてくれた半面、

見るだけで胸の奥が痛む存在にもなった。


会社を立ち上げた時も、

家を出るときも、

結局あれを持っていくことはできなかった。

そうして実家に置いていった。


でも──今は。

返せる相手がいる。


「……そういえば」


栄三郎の声に、ハッと現実へ引き戻された。


「一度、このリュックを使ったことがあってな」


栄三郎は、どこか気まずそうに目を伏せた。


「カワのノベルティが、こっちに届いたときだ。

 お前の店のスタッフが取りに来て……その荷物を運ぶのに、借りた」


「あ……うん」


麗佳はそっとまばたきをした。

(栞の時か…)


「勝手に使って悪かったな」


「別に……。いいよ、そんなの」


短いやりとりのあと、ふっと言葉が落ちた。


「元気のいい子だったよ」

栄三郎は、淡々とした声で続ける。


「そのあと、ふたりでリュックを返しに来てくれた」


「ふたり……?」


思わず問い返す麗佳。


「ああ。詩音ちゃんと……メイちゃん、だったか」


その名を聞いた瞬間、麗佳の指先がぴたりと止まった。

胸の奥で小さな何かが揺れる。


「その後も、何度か来てくれてな」


ぽつりと言いながら、栄三郎の視線がカウンター奥のサックスへと流れた。

磨かれた銀の管に、ふたつの光景がふっとよみがえる。


小さなカウンター越しで、目を輝かせながら話を聞いてくれたふたり。

そして、ラフォーレの駐車場で、大きく手を振ってくれた声援。


まるで、そのあたたかさにそっと目を細めるように、栄三郎はしばしサックスを見つめ続けた。


麗佳も、吸い寄せられるように同じ方向へ視線を向ける。

静かな店内で、父娘のまなざしが銀色の管の一点で重なった。


「……そうだったんだ」


ぽつりと漏れたその声は、

ほんのひとしずくの“あたたかさ”を帯びていた。


栄三郎は、ただ静かにうなずいた。


◇◇◇


「そろそろ行くよ」


席を立った麗佳に、栄三郎が「ああ」と短く返す。

赤いリュックの肩紐を整え、出口へ向かいかけたところで、

ふと何かを思い出したように振り返った。


「……サックス、音、出てたじゃん」


不意の言葉に、栄三郎がわずかに眉を上げる。


「お前、聞きに来てたのか?」


「いや。動画で見ただけだけど」


「そうか」


ほんの一瞬、照れくささが混じったような表情。

その表情に、麗佳もつられて口元をほんの少しだけ緩ませた。


「じゃあ、また」


軽く手を上げて、麗佳はドアに手をかけた。


ーーカラン、コロン。


麗佳の背中がドアの向こうに消え、

店内にふたたび静寂が戻る。


カップを片づけようと手を伸ばしたとき、

栄三郎の胸にふ、といくつかの光景が浮かんだ。


必死で栞を取りに来た、あの子の真剣な表情。

ラフォーレの駐車場でふたりが声を張り上げて応援していた姿。

スタッフたちの、どこか誇らしげな笑顔。

そして――この店のカウンターで、楽しそうに話を聞いていった横顔。


あれは、ただ“若い客”でも、ただ“部下”でもなかった。


(……俺はずっと、麗佳の仕事を

 “人を使う仕事”だと思っていたが)


(あいつは――

 人と人を、ちゃんと“繋いで”きたんだな)


栄三郎は、洗い場にカップを置きながら

ほんの少しだけ、目尻を和らげた。



ここまで読んでくださってありがとうございます!

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