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第132話 交差する光の中で


冬の朝の光が、薄いカーテンを透かして部屋の壁を染めていた。

ラフォーレのミニトークショー当日。

凛々花はゆっくりと自宅の階段を降りていった。


ダイニングでは、母がコートを羽織りながら慌ただしくバッグの中を探している。


「凛々花、おはよう。急に現場から呼び出しがあって……朝ごはん、冷蔵庫に入ってるから、適当に食べてね」


「わかった……ねえ、パパは?」


「今日の夕方には帰るって言ってたけど……ごめん、もう出るわ」


「……いってらっしゃい」


「私も夕方には帰れると思うから」


そう言い残して、母は小走りで玄関を出ていった。

閉まるドアの音が、静かな家の中にやわらかく響く。


ぽつんと残された凛々花。

けれど、その静けさはもう、彼女にとって“いつもの朝”だった。


「パパ……今日、帰ってくるんだ」


テーブルの上に手を置きながら、ふとつぶやく。

明日のサイン会のことを思い浮かべると、胸の奥が少しだけざわついた。


「いけない、いけない。今日は私のトークショーなんだから」


気持ちを切り替えるように、両手で頬を軽くパンパンと叩く。

その音が、冬の静けさの中に小さく弾んだ。


◇◇◇


カフェ・ラフォーレ リーヴルスの控え室。

朝の空気には、まだほんのりと眠気の名残があった。


ロッカーの前で、詩音がしょんぼりと肩を落とす。


「やっぱ昨日、出かけなきゃよかったよ〜」


「後悔、先に立たずってな」


沙織が制服のボタンを留めながら、からかうように笑った。


「だって、あのカイさんだよ? 会いたかったよぉ〜」


「今日も来るって敦子店長が言ってたよ。打ち合わせしに」


「……あ、そうか!」


一瞬で顔がぱっと明るくなる詩音。


「よし、今日はミニトークショーもあるし、気合い入れて頑張るぞー!

 ……あ、メイちゃんは?」


「もう来てるよ。朝から展示エリアで準備してるって」


「おぉ〜、さすがメイちゃん!」


詩音の元気な声が、控え室の空気を少しあたためた。

その声を背に、沙織は鏡の前で髪をまとめながら、

「にぎやかな一日になりそうね」と、小さく笑った。


◇◇◇


展示エリアでは、朝早くからトークショーの準備が進んでいた。


レイアウト変更のために机を移動し、

中央には二十脚ほどのパイプ椅子が整然と並べられている。


「平瀬さん、こんな感じでいいですかね?」

ふれあい文学館のスタッフが声をかける。


「はい、ありがとうございます」

メイはレイアウト表を片手に、会場を見渡した。


ステージでは、司会を務める柳森淳子がマイクテストをしている。

音響担当の太田さんは、いつものように落ち着いた手つきで機材を調整していた。

グランドオープンの時にも支えてくれた頼れるベテランだ。


「さすがだなぁ……」


メイは小さくつぶやきながら、ほっと微笑む。

時計を見ると、開店まであと三十分。


(なんとか間に合いそう)


胸の奥で、緊張と安堵がゆっくりと混ざり合っていく。

メイは深呼吸をひとつして、もう一度展示エリアを見渡した。

今日の空気には、確かに“いい始まりの予感”が漂っていた。


◇◇◇


午前10時前。

矢鞠の街に、冬のやわらかな光が差し込んでいた。


カイ・イトウは、黒のコートの襟を立てながら

カフェ・ラフォーレ リーヴルスの前に立った。


入口の掲示板には、

明日の自分のサイン会と並んで、もう一枚のポスターが貼られている。


『ふれる、なじむ、自然。写真展』

――アマチュアカメラマンによるミニトークショー

本日13:00〜


その文字を、静かに一読する。

少しだけ目を細めてから、

カイは扉に手をかけた。


——カラン、コロン。


ドアベルの澄んだ音が、店内に小さく響く。

ふわりと漂うコーヒーの香り。

カップの触れ合う音と、温かな空気が心地よい。


「おはようございます」

レジカウンターの奥から、敦子が微笑みながら出迎えた。


「おはようございます。……少し早かったですかね?」


「いえいえ、大丈夫ですよ。ようこそ」


「昨日は突然おじゃまして、すみません」


「とんでもないです。お待ちしていました。

 どうぞ、こちらへ」


敦子に案内され、カイは静かにうなずくと、

そのまま控え室の方へと向かっていった。


その様子を、少し離れた場所から見ていた詩音。

トレーを手にしたまま、ぽかんと立ち尽くす。


「……あの人が、カイ・イトウさん……」


すぐ隣で様子を見ていた沙織が、

にやりと笑いながら小声でつぶやいた。


「どう? 愛しの写真家さんは?」


「……なんか、ふつうの人だった」


「え、そこ?」


「うん。もっとこう……無骨で、山で熊と戦ってそうな人かと思ってた」


「それ、どんな想像よ」


詩音は首をかしげながらも、目をキラキラさせて続けた。


「でもさ、なんかいい。すっごく“ふつう”で……でも、“特別”な感じ!」


「……は?」


「うん、“ふつう”って最高だよ! あの空気感、なんか、写真の中の人って感じ!」


急にテンションが上がりはじめた詩音に、沙織は目をぱちくり。


「いや、何そのスイッチ……」


詩音はトレーを抱えながら、頬をほんのり赤くして笑った。


「やばい、ちょっとテンション上がってきたかも……!」


「……おちつけ、副主任」


沙織のぼやきが虚しく響く。

朝のラフォーレに、詩音の浮かれた声が小さく弾んでいた。


◇◇◇


「散らかっていて、ごめんなさいね」


敦子に促され、カイは控えめにうなずく。


「いえ……失礼します」

黒いコートを脱ぎ、椅子に腰を下ろした。


「もうすぐ、他の方もいらっしゃると思うんで」

敦子が言いかけた、そのとき。


控え室のドアが小さく開いた。


「失礼しまーす……」

トレーを持った詩音が入ってくる。


「詩音ちゃん、ありがとう」

敦子の声に振り向いた詩音は、

その瞬間、ぴたっと固まった。


カイ・イトウ。

まぎれもなく、目の前にいる。

写真の中で見てきた“あの人”が、

いま、ほんとうにここに。


「……」

手が震え、カップがカチャカチャと鳴る。


「カイさん、紹介するわね。こちら、副主任の――」


「は、はじめましてっ! 小豆沢詩音です!」


思い切り上ずった声に、控え室の空気が一瞬止まった。


「カイ・イトウです……」

カイが穏やかに笑う。


「あ、あのっ、わ、わたし――」


詩音のスイッチが入った。


「カイさんの写真集、大好きなんです!

『風のあとを、歩く』を見て、わたし、すごく変わったんです!」


「そうでしたか」

カイは穏やかにうなずく。


「なんかこう……体が“ぐいっ”て持ってかれて、心が“バーン”ってなったような!

ほんとに、ほんとにありがとうございます!

あの写真集、みんな大好きなんです! メイちゃんとか、凛々花ちゃんとか――」


その名が出た瞬間、

カイの笑みがほんの少しだけ、揺れた。


「……あ、メイちゃんと凛々花ちゃんは、私の友達で、その、あの写真集をきっかけに――」


「詩音ちゃん、落ち着いて」

敦子が苦笑しながら声をかける。


「……あ。すみません、取り乱しましたっ」


我に返った詩音は、顔を真っ赤にして深々と頭を下げた。


一拍の間。

カイは柔らかく微笑んで言う。


「いえ。そんなふうに言ってもらえて、私も嬉しいです。ありがとう」


その言葉に、詩音はぱっと顔を上げ、

少し泣きそうな笑顔でうなずいた。


「失礼しました。……明日のサイン会とトークショー、楽しみにしてます」


一礼して控え室を出ていく詩音の背中を見送りながら、敦子は小さく息をついた。


「ごめんなさいね。うちの子、ちょっと舞い上がっちゃって」


「いえ。大丈夫です」


カイは静かに答える。

けれどその胸の奥では、

聞きなれた“凛々花”という名が、

波紋のように何度も揺れていた。



控え室のドアをそっと閉めたあと、

詩音はその場で固まった。


「…………」

頭の中が、真っ白。


「その顔は……やらかした顔だな」


背後から沙織の声。

詩音が振り向くと、腕を組んだ沙織がじっと見ていた。


「うん。絶対、変な子だと思われた……」


「それ、間違いじゃないから、いいんじゃない?」


「えぇぇ〜っ!」


詩音の情けない声が、廊下にこだまする。


そのとき、資料の入ったファイルを抱えたメイが、

早足でふたりの横をすり抜けた。


「あ、メイちゃん!」


「ごめん詩音、これからリハーサルなの!」


言い終える前に、メイはもう展示エリアの方へ駆けていく。

残されたのは、風のような気配だけ。


「メイちゃん、頑張ってるなぁ」

詩音がぽつりと呟く。


そのとき。


——カランコロン。


入口のドアベルが軽やかに鳴った。

視線を向けると、柔らかな陽射しの中に凛々花の姿。


「凛々花ちゃん! おはよう!」


「おはよう、詩音ちゃん」


凛々花はマフラーを外しながら、

いつもの穏やかな笑顔を見せる。


「大丈夫? 緊張してる?」


「ううん。大丈夫だよ!」

凛々花は小さく握りこぶしを作って見せた。


「おー、それそれ! 私みたいにドーンとやらかしても、世界はわりと優しいから!」


「……やらかし?」

きょとんと首をかしげる凛々花。


「ほら、やっぱり反省してないじゃん」

沙織がため息をつく。


「はいはい、副主任、持ち場戻るぞ〜」


「はーい!

 じゃあ凛々花ちゃん、頑張って! あとで見に行くからね!」

詩音が元気に手を振る。


「うん、ありがとう」

凛々花は小さく笑って手を振り返した。


ふたりの背中がフロアの奥に消えると、

凛々花は小さく息をついた。


「……よし」


ほんの少し肩の力を抜いて、

展示エリアへと歩き出した。


展示エリアの前には、ミニトークショーのポスターが貼られている。

それをちらりと見上げた凛々花は、ゆっくりと中へ入っていった。


ーーー


「おはようございます」


凛々花の声に、打ち合わせをしていたメイが顔を上げた。


「凛々花ちゃん、おはよう。今日はよろしくね」


「うん、がんばるね」


凛々花は少し緊張気味に笑いながら、肩にかけたバッグを下ろした。


いつもの展示エリアとは、どこか空気が違う。

床には整然と並んだ椅子、前方には小さなステージ。

奥ではアマチュアカメラマンたちが談笑しながら、

それぞれの資料を手にリハーサルの準備をしている。


照明もいつもより少し明るい。

ざわざわとした声と機材の音が重なり、

“本番前”の独特の緊張が、会場を満たしていた。


(なんだか、胸がざわざわする…)


けれど凛々花は、

その小さな波を胸の奥でそっと押し沈めるように、深呼吸をひとつした。


ーーー


「それでは、リハーサルをはじめます」

メイの声が響く。


進行の流れ、登壇者の立ち位置、

開演BGMと照明のタイミング――。


柳森淳子の落ち着いた司会の声に合わせて、

スタッフとカメラマンたちの動きがひとつひとつ確認されていく。


リハーサルはおおむね順調。

最後にマイクチェックが終わると、

緊張の糸がふっとほどけるように、

展示エリアの空気がやわらいだ。


「みなさん、お疲れさまでした」

メイが笑顔で声をかける。


「開演は13時です。15分前にはこちらに戻ってきてくださいね」


アマチュアカメラマンたちは安堵したように笑いながら、

それぞれの荷物を手に会場をあとにしていった。


ふと見ると、

ひとりだけ残って椅子に腰かけている凛々花の姿。


「凛々花ちゃん、おつかれさま」

メイが近づいて声をかける。


「メイちゃん……」

凛々花は小さく顔を上げた。


「大丈夫?」


「うん。なんかね、メイちゃんとか詩音ちゃんとか、

 みんないるから……大丈夫かなって思えるようになってきた」


「そっか」

メイはほっと笑みをこぼす。


そこへ、リハーサル資料を抱えた淳子が歩み寄ってきた。


「そうそう。いつも通りで大丈夫よ。

 難しいことは考えなくていいの。

 “好き”をそのまま話してくれれば、それが一番伝わるから」


「ありがとう」

凛々花は少し照れたように笑った。


その笑顔には、

いつか見た“おびえた光”のような影は、もうなかった。


(うん、大丈夫そうだな……)


メイは心の中でそうつぶやき、

小さく頷いた。


◇◇◇


午後1時が近づくころ。


野太い排気音を響かせながら、ホンダ・レブルがラフォーレの駐車場に滑り込んだ。


エンジンを止めると、途端にあたりが静かになる。

梓はヘルメットを外し、ふっと息を吐いた。


「……なんとか、間に合ったな」


冬の光がバイクのタンクに反射し、白くきらめく。

外から見たラフォーレは、思った以上に人の出入りが多く、

ガラス越しに見える展示エリアの中もにぎわっているようだった。


「凛々花、緊張してなきゃいいけど」


そんな独り言をつぶやきながら、

ヘルメットをバイクのロックフックに留めて、足早にエントランスへ向かう。


ドアを開けると、カランコロンと小さな鈴の音。

店内にはコーヒーの香りと、人の話し声が混ざり合っていた。


展示エリアにはすでにたくさんの観客が集まっている。

椅子席はほとんど埋まり、壁際には立ち見の人も並んでいた。


梓は最後列のあたりに立ち、

背伸びをしてステージの方をのぞき込む。


「……結構入ってるな」


胸の奥に小さな鼓動。

その音を確かめるように、

梓はポケットに手を入れ、静かに開演を待った。


◇◇◇


展示エリアのステージ脇。

パーテーションで区切られた小さな控えスペースには、

今日のトークショーに登壇するアマチュアカメラマンたちが集まっていた。


「お客さん、けっこう入ってるみたいですよ」

「うそ、ほんとに? 緊張してきた……」


ざわつく声。笑いまじりの小さなため息。

その中で、凛々花だけは穏やかな笑みを浮かべたまま、指先をそっと握り込んでいた。


(大丈夫。息をして、ちゃんと笑えば、なんとかなる)


そう心の中でつぶやいた瞬間――

時計の針が、午後1時を指した。


メイの合図で、司会の淳子がステージへと歩み出る。

マイクが小さく音を拾い、場の空気がぴんと張りつめた。


「お待たせいたしました。

 ただいまより、『ふれる、なじむ、自然』展――

 アマチュアカメラマンによるミニトークショーを開演いたします」


BGMがゆるやかに流れ、スポットライトがステージを照らす。

温かな拍手が波のように広がった。


「みなさん、たくさんお集まりいただいて、本当にありがとうございます。

 本日、司会進行を務めさせていただきます、柳森淳子です。よろしくお願いいたします」


その声に、観客席からまた拍手。

会場の空気がゆっくりとひとつにまとまっていく。


ステージ袖からそれを見ていた凛々花の胸にも、

静かな鼓動がトン、トン、と響いた。


ふと客席のほうをのぞくと、

人の隙間から、詩音の顔がちらりと見えた。

目が合うと、詩音はニコッと笑って小さく手を振る。


(詩音ちゃん、仕事……いいのかな?)


思わず苦笑いがこぼれる。

けれどその瞬間、肩の緊張がほんの少しだけほぐれた。


もう一度ステージを見つめ、

凛々花は深く、静かに息を吸い込んだ。


◇◇◇


――そのころ。


ラフォーレの控え室のドアが静かに開いた。

敦子、カイ・イトウ、そして数名のスタッフが中から出てくる。


「では、明日よろしくお願いします」


軽い会釈と、確認の声が飛び交う。

手にした資料の束を抱えたまま、

鈴原店長が別のスタッフに指示を出していた。


「鈴原店長、こちらの配置なんですが」

「ああ、そこはうちのスタッフにやらせます。大丈夫です」


そんなやり取りを横目に、

カイは腕時計にちらりと視線を落とした。


秒針が指すのは、午後1時を少し過ぎたところ。


「……もう始まっているな」


小さく息をついて、

カイは足音を立てぬよう、その場を離れた。


控え室のざわめきが遠ざかると、

店内のBGMと人の話し声が混じり合う。

そのまま展示エリアの方へと歩を進める。


――ざわ、ざわ。


会場の熱気が、廊下を抜けてこちらまで届いた。

カイが足を踏み入れると、

そこにはすでに多くの人が詰めかけていた。


立ち見の列の最後尾に身を置き、

背伸びをするでもなく、静かに視線を前へ。


ステージの上では、司会の柳森淳子がマイクを手に、

アマチュアカメラマンたちに質問を投げかけていた。

その横に、四人の登壇者が並んでいる。


――その中のひとりは。


光を受けて立つ、小柄な影。

凛々花だった。


「それでは最初のテーマです。

 “写真を撮るときに大切にしていること”」


淳子の声がマイクを通してやわらかく響く。

登壇者たちが順にマイクを手に取り、それぞれの想いを語っていく。


最初の登壇者は、風景撮影を得意とする海原悠人。

少し理屈っぽいが、写真への向き合い方は誠実で、言葉の端々に経験の重みがあった。


続いて、女性カメラマンの西原柚季。

柔らかな声で会場を包み込むように語り、笑いを交えながら“撮ることの楽しさ”を伝えていた。


そして三番目が、凛々花。

一呼吸おいて、マイクを両手で包み込むように握った。

その仕草の静けさに、会場の空気が少しやわらぐ。


「……私が写真を撮るときに大切にしているのは、

 “誰かの気配”です。

 たとえ人がいなくても、

 そこにいた誰かの時間や、呼吸を感じられるような……

 そんな光を見つけたいと思っています」


凛々花の声はかすかに震えていたが、

その震えさえも、写真の中の“光”のように澄んでいた。


観客のあいだに、小さなざわめきが起こる。


カイはそのスピーチを聞いた瞬間、胸の奥で何かが跳ねるのを感じた。


――“誰かの気配”。


その言葉に、

ずっと目を逸らしてきた場所を、

やさしく、しかし確かに刺された気がした。


目の前に立つのは、紛れもなく娘の凛々花。

マイクを握る指先の動きも、

光を探すときの、わずかな首の傾け方も――

間違いなく、凛々花のはずなのに。


それでも、

彼女はどこか、違う光を纏っていた。


写真は、光を写す。

凛々花は、ずっとその光の向こうにある“心”を見ていた。


「“自然の中で、シャッターを切りたくなるのはどんなときですか?”」

「“あなたにとって、“いい写真”とは?”」


淳子の質問が続く。

やり取りは穏やかで、どこか温かい。


凛々花が再びマイクを握る。

一瞬だけ視線を下に落とし、静かに言葉を選んだ。


「いい写真って、撮る人の“心”が写ってるものだと思うんです。

その一瞬の光に、想いが宿る、そんな写真が、わたしの“いい写真”です」


凛々花は続けた。


「“いい写真”は、きっと“いい人”にしか撮れないんだと思います。

 その人の優しさとか、痛みとか――

 光が、全部それを知っている気がして……」


「だから、そんな光が撮れる人に、私もなりたいです」


やわらかな拍手が、会場を満たしていく。


その音の中で、

カイはゆっくりと目を伏せた。


胸の奥に広がるのは、

温かさと、

それと同じだけの、鈍い痛み。


――彼女は、気づいていたのだろう。


自分に向けられたシャッターの音も、

僕がその光を、写しきれていなかったことも。


指先が、わずかに震れていることに気づく。

カイは静かに、両手を組み直した。


そして、

もう一度、ステージを見上げた。


その瞬間――

壇上の凛々花が、ふと視線を動かす。

照明の隙間から、会場の後方――

立ち見の中にいる黒いコートの男が、目に入った。


――え?


ほんの一瞬。

でも、確かに見えた。


なんで……ここにいるの。


心臓の奥が、急に冷たくなる。

何かが胸をすり抜けるように、呼吸が浅くなった。


淳子の声が遠くで響く。

「――はい、ありがとうございました」


拍手。

観客の笑顔。


けれど凛々花は、下を向いたまま、

しばらく顔を上げられなかった。


視界の隅で、黒いコートの影が

立ち見の列の間を、静かに抜けていくのが見えた。


その背中に、声をかけることは――できなかった。


◇◇◇


トークショーは、拍手と笑顔に包まれながら幕を閉じた。

会場のあちこちで「良かったね」「あの話、すごく共感した」といった声が飛び交う。


その中で、梓も後方から静かに手を叩いていた。


「あいつ、なんだか、ちゃんと話してたじゃん」


思わず小さく笑う。


ステージ上で深くお辞儀をする凛々花の姿は、少し大人びて見えた。


(……ほんと、頑張ったな)


胸の奥でそうつぶやきながら、梓の手のひらに残る拍手の余韻がゆっくりと消えていった。


◇◇◇


トークショーを終えた淳子とアマチュアカメラマンたちが、

控えスペースに戻ってきた。


「みなさん、お疲れさまでした! すごく良かったです!」

メイが満面の笑みで迎える。


「メイちゃんもタイミングばっちりだったわよ」

淳子が笑顔で返し、まわりの空気もふっとやわらぐ。


「いやぁ、みなさん堂々としてましたよ」

音響スタッフの太田さんも頷き、控え室には安心感と達成感が漂っていた。


そこへ、詩音が勢いよく顔を出す。


「メイちゃん、すごく良かったよ! 淳子さんもカッコよかった!」


「まぁ、詩音ちゃんったら」

「ありがとう」


笑い声が控えスペースに溢れ、

緊張していた空気が一気にほどけていく。


「……あれ、凛々花ちゃんは?」

詩音がふと辺りを見回した。


「さっきまでいたのに……あれ?どこ行ったんだろ」

メイが首をかしげながら辺りを見回す。


しかし、そこに凛々花の姿は――もうなかった。


◇◇◇


展示エリアからは、人の波がゆっくりと外へ流れていた。

梓もその流れに合わせて歩き出す。

――そのとき、視界の先で、人混みをかき分けるように小走りで出ていく姿が見えた。


「あ、凛々花……」


その背中を追うように、梓は足早になる。


凛々花を追ってエントランスを抜けると、外の空気はもう夕方の匂いを帯びていた。

少し先に、凛々花が立っていて、辺りを落ち着きなく見回している。


「凛々花!」


声をかけると、凛々花がふり向いた。


「梓ちゃん……」


その顔は、怯えたように、不安と戸惑いが入り混じっていた。


「どうかしたか?」


梓の問いに、凛々花はしばらく黙ったまま。

冬の風がふたりの髪を揺らして通り過ぎる。


「おい、黙ってたら分からないだろ」


やさしいようで少し不器用な声。

凛々花は俯いたまま、ぽつりと口を開いた。


「梓ちゃん……今日、泊まりに行ってもいい?」


「はあ?」


思いがけない言葉に、梓は目を瞬かせた。

冬の風が、ふたりの間を通り抜けていく。

吐く息が白くほどけて、空に消えた。


――まるで、ふたりのあいだに生まれた沈黙の形のように。


ここまで読んでくださってありがとうございます!

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