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第131話 雪の終わり、光のはじまり


冬の富良野。

透きとおる空気の中で、吐いた息がふわりと白く凍る。


雪原の奥に、一本の白樺が立っていた。

傾いた陽を受けて、細い枝先まで金色に染まり、長い影を雪の上に落としている。


その影の先に、三脚を立てたひとりの男がいた。

カイ・イトウ。

レンズの向こうには、雪原にゆっくりと夕刻の光が溶けていく瞬間がある。


――カシャ。


静まり返った空気を、シャッター音がやさしく裂いた。


「……よし」


カイが小さくつぶやいて、モニターをのぞき込む。

隣で、田嶋麻耶が息を止めたまま、画面を見つめている。


「……きれいですね」


ぽつりと落ちた声に、カイは口の端を少しだけゆるめた。


「ああ…」


それだけ言って、もう一度画面に視線を戻す。


「……これで行こうか」


カイは、口の端をわずかに緩めた。


近くに停めてあった、オーブグリーンのトヨタRAV4へと歩く。

吐く息が風に流れ、雪を照らす光の中で淡く揺れた。


車から、現地コーディネーターの上原咲子が降りてくる。

手には湯気の立つ紙コップがふたつ。


「お疲れさまです。熱いコーヒー、どうぞ」


「ありがとうございます」

カイは軽く頭を下げ、紙コップを受け取った。


「咲子さん、寒いのにいつも同行してくれて……ありがとうございます」

麻耶は笑いながら両手でコーヒーを包む。


「いいえ。でも早いですね、もう最終日なんて」


「上原さんのおかげで、順調に進みました」

カイはコーヒーを口にして、ほっと息をもらす。


「またいつでも、声をかけてくださいね」


白い息と湯気が交わり、

その一角だけが、凍てつく雪原の中で、ほんのりと温もりを宿していた。


◇◇◇


翌朝、旭川空港。


一階の出発ロビーのベンチに、カイ・イトウは静かに腰を下ろしていた。

木の梁が交差する天井の下、広い窓から差し込む光が、雪明かりのように床をやわらかく照らしている。


行き交う人々の笑い声や、コートの擦れる音。

どこからともなく漂うコーヒーの香りが、旅立ちの朝をほんの少し温めていた。


カイが窓の向こうに広がる雪景色をぼんやりと眺めていると、

麻耶がチェックインカウンターから戻ってきた。

手には、搭乗券と領収書を挟んだ小さな封筒。


「お待たせしました」


「ありがとう」


カイがそれを受け取ると、麻耶はスマートフォンの画面を見せながら、少し首をかしげた。


「カイさん、これ……」


画面には、カフェ・ラフォーレ リーヴルスのSNS投稿。

『ふれる、なじむ、自然』展――


「ここって、明後日のサイン会の場所ですよね」


「ああ、そうだけど……」


カイは画面をのぞき込む。

そこに添えられた一枚の写真に、思わず目が止まった。


静かな木漏れ日。

淡い光。

その柔らかさの奥に、なにか“知っている”感覚があった。


胸の奥が、ふっとざわつく。


「この写真……」


「素敵ですよね。なんだか“カイさんの写真”みたいで」

麻耶がくすりと笑う。


「……そうかな」


カイは短く答え、視線を窓の外へ戻した。

降り積もる雪が、滑走路の向こうで光を返している。


アナウンスが響く。

「羽田行き11時10分発、4720便は、ただいま皆さまを機内へご案内中です」


「そろそろ行きましょうか」

麻耶がスーツケースの取っ手を握りながら言う。


カイはカメラバッグを肩にかけ、静かに立ち上がった。

麻耶のあとを追いながら、搭乗口へと歩き出す。


胸の奥のざわめきは、まだ雪のように溶けきらないままだった。


◇◇◇


午後1時前。

羽田空港の到着ロビー。


人の流れがゆるやかに交差する中、

カイはふと足を止め、隣を歩く麻耶に声をかけた。


「田嶋くん。悪いが、先にホテルへ行っていてくれないか」


「どうかしました?」


「ちょっと寄りたいところがあるんだ。夜の会食までには戻るから」


麻耶は少し驚いたように瞬きをし、それから静かに頷いた。

「……わかりました」


カイは軽く手を挙げて別れ、

そのままタクシー乗り場へと歩いていった。


外の光は、富良野よりも柔らかく、

けれどどこか落ち着かない明るさを帯びていた。


◇◇◇


午後3時ごろ。


――カランコロン。


扉のベルが鳴り、冬の光とともにひとりの男性が入ってきた。

黒のコートの襟を立て、長身のシルエットがすっと店内に溶け込む。


「いらっしゃいませ」

レジカウンターにいた敦子が顔を上げた瞬間、

その男性が穏やかに微笑んだ。


「お久しぶりです、鈴原さん」


「……カイ・イトウさん?」


その名を口にした途端、カフェの空気がふわりと揺れる。

近くにいたスタッフたちが、驚いたように小声を交わした。


「あの人……カイ・イトウさん?」

「え、明日のサイン会の?」


沙織が慌てて周りを見回す。

「詩音は?どこ行ったの?」


「さっき、休憩中にちょっと出かけてくるって……」

ユキが答える。


「うっそ、よりによって今!?」

沙織は額に手を当ててため息をついた。


――あんなに写真集のファンだったのに。

心の中で、苦笑いを浮かべる。


「確か……去年の春先でしたか。

うちの会社の創立十周年ブックの撮影のとき以来ですね」

敦子が少し懐かしそうに微笑む。


「ええ。あのときはお世話になりました」

カイは落ち着いた声で応じた。


「でもカイさん、サイン会の打ち合わせは明日の予定では?」


「はい。ただその前に、こちらで開催されている写真展を少し拝見したくて」


柔らかくも芯のある声に、敦子は微笑みを返す。

「そういうことでしたら……少々お待ちくださいね。すぐにご案内を」


ちょうど展示エリアで準備をしていたメイが、店内のざわめきに気づいて顔を出した。


「メイちゃん、ちょうどよかった。

こちら、カイ・イトウさん。明後日のサイン会の――」


「えっ……!」


メイは思わず姿勢を正した。

(この人が……あの写真集の)

胸の奥で息をのむ。


「展示をご覧になりたいそうなの。案内、お願いできる?」


「は、はい!」

少し高くなった声を慌てて整えて、

メイは進行表を抱えたまま、展示エリアへと案内した。


◇◇◇


展示エリアは、やわらかな照明に包まれていた。

木製のパネルに並ぶ写真たち。

森の光、風に揺れる布、窓辺の影――。


静けさの中に、かすかな温もりが漂っている。

冬の午後の空気が、作品たちの間をやさしく流れていた。

展示エリアには、ほかに人の気配はない。


カイはゆっくりと歩いた。

一枚、一枚、時間をかけて見つめていく。


「……いい展示ですね」


「ありがとうございます。地元のアマチュアカメラマンの方々の作品を中心にしていて……」


少し緊張した声で説明するメイ。

カイは微笑みを浮かべながら、穏やかにうなずいた。


やがて、壁の中央――。

キービジュアルとして掲げられた一枚の前で、彼の足が止まる。


森の中。

にじむように光を落とす木漏れ日。

その木陰に、しゃがみ込む少女の姿。


淡い光と影の境界線には、

「ここにいる」と語りかけるような静けさがあった。


下には、小さく《撮影者:リリカ》の文字。


カイは立ち尽くしたまま、息をのんだ。


「……そうか」


胸の奥を、微かなざわめきが通り抜けていった。


メイが隣で口を開く。

「とても、評判なんです。この写真」


「そうですか……」


カイは少しだけ笑った。

けれど、その笑みは遠く、どこかやわらかい寂しさを帯びていた。


「……ありがとうございました。

 少し、空気を感じたかったもので」


「こちらこそ、ありがとうございます」


やわらかく頭を下げたメイの胸に、

ほっと小さな安堵が生まれる。


そして、ふと――思いつく。

この人に、あの人たちの声を聞いてもらえたら。

きっと何かが動くかもしれない。


「……カイさん」


「なんでしょう?」


「明日、トークショーがあるんです。

 このカメラマンさんたちのイベントで……」


一瞬、カイが目を向ける。

そのまっすぐな視線に、メイは少し背筋を伸ばして続けた。


「もしお時間があれば、ぜひご覧になっていただきたいんです。

 みなさん、一生懸命写真に向き合ってる方々ばかりなので……」


カイは静かに目を細めた。

その表情は、光を受けた雪解けのように、どこか柔らかかった。


「時間が合えば。ありがとう」


「はいっ。……よろしくお願いします!」


メイは深々と頭を下げる。


静かに歩き去っていく背中を、

メイはしばらくのあいだ見送っていた。


残された展示エリアには、

まだ彼の体温が残っているような、淡い余韻が漂っていた。


◇◇◇


カイが展示エリアを出ると、

レジカウンターの横で敦子が立っていた。


「どうでしたか、写真展は?」


「はい。とても良かったです」


「プロの方にそう言っていただけると嬉しいです。

 よかったら、コーヒーでも……?」


「いえ、このあと所用がありまして」


「そうですか……」


「明日また、打ち合わせで伺います。そのときにでも」


「はい、ぜひ。お待ちしています」


敦子のやわらかな笑みに、

カイは軽く会釈をしてラフォーレをあとにした。


午後の陽ざしが、街路のショーウィンドウにやわらかく反射している。

ドアの外に出た瞬間、カフェの温度が背中から離れていった。


「……あの子が、あんな写真を撮るなんて」


小さくつぶやいた言葉が、

冬の風に溶けて消える。


それが写真家としての驚きなのか、

父親としての戸惑いなのか――

カイ自身にも、答えはわからなかった。


ひとつ、静かに息を吐く。

矢鞠の冬の空気は、

あの富良野の雪原よりも、少しだけあたたかかった。


ここまで読んでくださってありがとうございます!

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