第128話 色を残すレンズ
11月最後の日曜日。
メイは、カフェ・ラフォーレ リーヴルスのカウンター席に腰を下ろしていた。
今日はここで、梓と待ち合わせだ。
昼どきの賑わいが過ぎた店内は、ひと息ついたように静まり返っている。
カップを傾ける音や、スチームミルクの短い唸りが、穏やかな午後の空気に溶け込んでいた。
ふとガラス越しに外へ目を向けると、街路樹の葉はすっかり落ち、歩道を行き交う人々は厚手のコートに身を包んでいる。
さっきまでの秋の気配はもうどこにもなく、景色は確かに冬へと姿を変えていた。
「……11月も、今日で終わりかぁ」
ぽつりと呟いて、メイは手にしたコーヒーをそっと口に運んだ。
香ばしい香りが鼻をくすぐり、月日の流れが静かに胸の奥に染み込んでいく。
——カランコロン。
扉のベルが軽やかに鳴った。
視線を向けると、黒いツーリングジャケットに身を包んだ梓がエントランスに立っていた。
メイを見つけて軽く手を挙げると、カウンターで注文を済ませ、そのまままっすぐこちらへと歩いてくる。
「悪い、ちょい遅れた」
「ううん、私も今来たところ」
リュックを下ろして、梓はメイの隣の席に腰を下ろした。
「休みなのに……良かったのか、ラフォーレで」
「うん。ここにいると、なんだか落ち着くんで」
メイはそう言って、ふわりと微笑んだ。
梓は「そうか」と小さく頷くと、リュックの中をガサゴソと探り、ビニールの手提げ袋を取り出した。
「はい、これ……お土産」
少しぶっきらぼうな声。その裏に、ほんのりとした照れが滲んでいた。
数日前の西伊豆キャンプの帰りに立ち寄った店で買ったもの。
「ありがとう、梓ちゃん」
メイが袋を受け取って顔を上げると、梓は視線を合わせないまま「いや、この前のお返し……」とだけつぶやく。
袋の中を覗くと、見覚えのあるパッケージが目に入った。
「潮カツオのふりかけ」――伊豆名産の塩鰹を使った、素朴で味わい深い一品だ。
「あ、これ、美味しいんだよね!」
「メイは西伊豆、田舎だって言ってたから、ありきたりになるかもだけどな」
「ううん、ありがとう。嬉しい」
メイの声は自然と柔らかくなった。
小さな手土産ひとつに、どこか温かな空気が流れ込んでいく。
「梓ちゃん、いらっしゃい!」
いきなり背後から元気な声が飛んできた。
詩音が梓の肩をポンと叩く。
「あ、詩音、ちょうど良かった。
これ、キャンプのお土産……」
「えー!なになに!」
「みんなで食べて」
梓が差し出した箱には、わさびのキャラクターがでかでかと描かれ、タイトルには『ツーン!わさびのゴーフレット』の文字が躍っていた。
「うわー!ありがとう!!」
詩音の目がきらりと輝いた。
「ツーンで甘っ!ツーンで甘っ!
これ、たぶんアレだよ!
甘いのにツーンてきて、また甘い、クセになるヤツ!」
詩音は一気にまくし立てると、箱を両手で高々と掲げた。
「優勝〜〜〜っ!!」
カウンターの方を振り向き、まるでトロフィーを掲げる勝者のようなドヤ顔。
その視線の先では、レジにいた沙織とアルバイトのくるみが「わ〜」と拍手を送っている。
「……そんな大したもんじゃ、ねーから」
梓が苦笑いまじりにぼそっとつぶやく。
「いやいや、大喝采だよこれ!」
詩音はご機嫌なまま、箱を抱えてレジの方へと駆けていった。
「……騒がしいやつだ」
梓は肩をすくめる。
その様子を見て、メイは思わず笑みをこぼした。
ちょうどそのとき、梓のポケットでバイブベルがブルっと震えた。
「コーヒー、取ってくるわ」
そう言って、梓は席を立った。
◇◇◇
「キャンプ、どうだった?」
メイが身を乗り出して梓に問いかけた。
「ああ、よかったよ。……西伊豆、いいな」
梓の口元が、ほんの少しゆるむ。
「西伊豆って、おばあちゃんいるから何度も行ってるけど、キャンプなんて考えてもみなかったよ」
「駿河湾の向こうに富士が見えて……景色は最高だった」
「へぇ〜。海と富士山か……それ、いいなぁ」
メイは目を細めながら、まるでその風景を思い浮かべるように呟いた。
「今度のキャンプ、西伊豆にすれば?」
「梓ちゃんも一緒に行く?
グルキャンの本、買ったことだし」
いたずらっぽく笑いながらメイが言うと、梓は一瞬ぎくりとしたように目を瞬かせた。
「あ、いや、その……」
咄嗟に話題をそらすように、視線を落とす。
「そう、そういえば……凛々花は?」
「昨日来てたけど……大学の課題で忙しいんだって」
「そうなんだ……お土産は今度だな」
梓はリュックに視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「そうそう! 凛々花ちゃん、ミニトークショー出てくれるようになったんよ」
「そう……それは、良かったな」
梓の脳裏に、この前、公園で話したときの――
どこか迷いを含んだ、凛々花の表情がふっと浮かんだ。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
「で、他に何か言ってなかったか?」
「ううん。なんで?」
「いや、それならいいんだ」
(……あいつ、父親のこと、話してないのか)
梓はカウンター席から見える公園の方へと視線を向け、ぼんやりと遠くを見つめた。
冬の淡い陽射しが、木々の枝の間を透かして差し込んでいた。
◇◇◇
夜のキャンパスを抜けると、冷たい空気が頬をかすめた。
大学の課題で遅くなった凛々花は、肩に掛けたバッグを少し持ち直しながら、校門を出たところでポケットのスマホを取り出した。
Rainの通知には、珍しく母からのメッセージが一件届いている。
『今日は何時ごろ帰ってくるの?』
いつもは用件だけの短文か、そもそも連絡すらない母からのメッセージ。
凛々花は思わず、小さく首をかしげた。
ーーー
南前田駅に着くころには、気温もぐっと下がっていた。吐く息が白く夜気に溶けていく。
いつものように、家路へと足を向けた。
家に着いて玄関の扉を開けると、キッチンから香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。
ダイニングテーブルの上には、彩り鮮やかな料理がずらりと並んでいる。
その真ん中には、ホイップの乗ったケーキまで鎮座していた。
「おかえり、凛々花!」
エプロン姿の母が、満面の笑みで振り向いた。
「……どうしたの、これ?」
「ちょっとしたお祝い!仕事が大成功だったの!」
母はエプロンを外すと、うれしそうに椅子を引く。
凛々花は半ば驚き、半ば戸惑いながら、ゆっくりと席に着いた。
「パパは?」
「撮影旅行。クリスマス前には帰るみたいよ」
軽い調子で言いながら、母は楽しそうに料理を取り分けていく。
料理はどれも美味しかった。
母は上機嫌で、仕事の話をまくし立てる。
「でね、ゴールマン——ほら、あのアウトドアメーカーね、そこが急にKPIを店舗来訪数に切り替えるって言い出したのよ!
でも、こっちはもう駅貼りから縦動画、特設サイトの導線まで組んでたから、即プレゼンでOK!
『じゃあ御社で』って! そしたらね、……」
母の声は弾むように続いていく。
凛々花はそれなりの笑顔で相槌を打ちながら、グラスの水をくるくると回した。
やがて、母がひと通り話し終えると、部屋にはテレビの音だけが満ちた。
並んで座っているのに、どこかぽっかりとした空白が、食卓の上に落ちているようだった。
バラエティ番組の笑い声が、やけに遠く響く。
「ごちそうさま。おいしかったよ、ママ」
凛々花はグラスの水を飲み干し、椅子を静かに引いて立ち上がった。
ーーー
自室に戻ると、机の上に置かれたカメラが目に入った。
——FUJIFILM X100V。
大学の推薦合格が決まったとき、父が黙って差し出してくれたものだ。
「……パパ、今日は帰ってこないんだ」
ぽつりと呟き、凛々花はそっとカメラを手に取った。
金属のひんやりとした感触が、指先から少しずつ体温を移していく。
⸻
高校の頃の記憶が、ふとよみがえった。
当時は、入学祝いで買ってもらったCanon IXUSを片手に、通学路や何気ない風景を撮るのが日課だった。
大学の推薦入学が決まった頃。
ある夜のこと。
リビングで写真をディスプレイに映して見返していると、背後から静かな声がした。
「……なかなかいいの、撮るんだな」
振り返ると、父が少し離れた場所から画面を覗き込んでいた。
「そうかな? よくわからないけど」
そう答えると、父は何も言わずに一度自室へ戻り、しばらくして一台のカメラを持ってきた。
古めかしいデザインの、ずっしりとしたカメラ。
「合格祝いじゃないけど……これ、使ってみるか」
そして、短く言葉を添えた。
「このレンズなら、お前が見た線と色が、そのまま残る」
カメラを渡すと、父はスッといなくなった。
その言葉の意味は、当時の凛々花にはよくわからなかった。
でも、なぜか胸の奥に深く刻まれた。
ファインダーを覗き込むと、リビングの光や空気が、さっきまでとは違う距離感で写り込んでいた。
少し遠く、少し不思議な感覚。
それはまるで、父との距離をそのまま映し出したようだった。
あの日以来、このカメラは凛々花の“相棒”になった。
⸻
ベッドに腰を下ろし、膝の上にカメラを乗せたまま、ぼんやりと天井を見つめる。
「パパが……ラフォーレに来たとき……どんな色になっちゃうんだろう」
ミニトークショーに出ると決めたときの前向きな気持ちと、心の奥に沈むぼんやりとした不安。
相反する二つの感情が、夜の静けさの中でゆっくりと溶け合っていった。
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