第127話 惑う心の向こう側
三連休明けの火曜日の午後。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの控え室では、賑やかな声と、ちょっぴり甘い匂いが立ち込めていた。
詩音・沙織・ユキの三人が、クリスマス限定メニューの試作に奮闘していた。
『ラフォーレサンタのブックケーキ』——その名も物騒に甘い。
本社から届いた分厚いレシピを横目に見ながら、スポンジにフルーツを挟む詩音に、沙織が眉をひそめる。
「ちょっとクリーム多すぎない?」
「このくらいの方が絶対おいしいって!」
結果、型を外した瞬間――雪崩。
「……ほら」沙織が呆れる。
「これはアートだって!」
取り繕う詩音の横で、ユキがぽつり。
「芸術は爆発、ならぬ雪崩……」
仕上げにベリーソースを散らそうとした詩音の手がすべり、赤い筋が思い切り走った。
「ちょ、血文字みたいになってる!」
控え室はホイップとベリーでカオス。そこへ敦子店長が顔をのぞかせた。
「進んでる〜?」
粉まみれ、クリームまみれの三人を見て、ため息まじりに苦笑する。
「お願いだから、そのままでフロアに出ないでね……」
「え、これ顔についたままじゃヤバいよね」
「メイク、どうします?」
「……てか、これ食べられるのか」
三人の小声が飛び交い、控え室はまた笑いであふれた。
◇◇◇
一方、展示エリア裏の作業スペースでは、メイは机に広げた資料を前に、ノートパソコンをカタカタいわせながら、進行台本を作っていた。
アマチュアカメラマンたちのプロフィールや作品紹介を、一つひとつ確認しながら、順番や時間配分を慎重に決めていく。
——そして。
インタビューの最後のひとりに「伊藤凛々花」と名前を打ち込んだあと。
指が、ほんの一拍だけ止まった。
「凛々花ちゃん、出てくれる…よね」
心の中で呟きながら、そっと画面に視線を向けなおす。
キーボードを叩く音だけが、静かな展示エリアに響いていた。
◇◇◇
同じ頃。東湘大学の大講堂。
凛々花は講義に出ていても、ノートは白紙のまま。視線だけが宙を漂っていた。
ラフォーレにパパが来る。
その場に自分がいたら、きっと違う色の世界に変わってしまう。
ラフォーレと私。パパと私。
両方の色がぐしゃりと混ざって、色が、消える。白黒じゃなくて、黒くつぶれたネガみたいに。
——前なら、黙ってやり過ごした。
時間が流れて、ほとぼりが冷めれば、それで済むって。
でも今回は、何かが違う。
積み重ねた音色が、一瞬でかき消される気がした。
……まひるちゃんのときみたいに。
『トークショー、出るにせよ出ないにせよ、ちゃんと伝えろよ、メイに。それだけで違うから』
昨日の梓の声が、まだ耳に残っている。
メイのやわらかな笑顔が、ふっと浮かぶ。
胸の奥がちくりとした。
——やっぱり、言葉で伝えなきゃ。
分かってるのに、頭の中はからまったまま。
「はぁ〜……」
小さなため息に、隣の子が振り向いた。
「伊藤さん、大丈夫?」
「うん……」と、曖昧な笑みで返したその時、終業のチャイムが鳴り響いた。
◇◇◇
同じ日、梓はソロキャンプに出かけていた。
西伊豆の「雲見岬キャンプ場」。
午後一時を少しまわったころ、現地に到着した。
受付を済ませて区画サイトにバイクを停める。岬の先端、海に面したサイト。眼下には白波の立つ磯、遠くには駿河湾を挟んでかすかに富士山が浮かんでいる。息をのむような絶景だった。
「これは……当たりだな」
ひとりごちて、荷物を下ろす。
慣れた手つきでベージュのワンポールテントを立ち上げる。ペグを打ち込むたび、カンカンと乾いた音が澄んだ海風に溶けていく。風を読んで入り口の向きを微調整し、張り綱をピンと張る。無駄のない設営に、自分でも満足げに頷いた。
続いて、コットを組み立て、寝袋を広げ、ローテーブルを置く。最後にザックから真新しいヘリナックルスのグラウンドチェアを取り出した。パチン、と骨組みがはまり、ベージュの布地が広がる。
腰を下ろすと、低めの座面が体をやさしく包み込む。
「……やっぱいいなぁ、これ」
自然と声が漏れる。
空は透き通るように青く、白い雲がゆっくりと流れている。潮騒と風の音しか聞こえない。平日とあって、他のキャンパーはひとりだけ。ほぼ貸し切りの静けさだ。
ふと視線を横にやると、テーブルの上に置いた、新調したシングルバーナーのケースが目に入った。
「グルキャン見越して買ったんだよな、結局……」
ひとりの時間は好きだけれど、どこかで“誰かと使うこと”を想定している自分に、苦笑いを浮かべた。
そのとき、一羽のカモメが大きく旋回して、岬の向こうへと消えていった。
視線を追った拍子に、昨日の凛々花の表情がよぎる。
「ちゃんと伝えろよ、って言ったけど……あいつ、どうするんだろうな」
ぽつりと漏らした言葉は、潮風にさらわれて、すぐに消えていった。
◇◇◇
その日の夕方。
大学帰りの凛々花は、矢鞠駅で降りた。
たどたどしい足取りのまま、大通りを歩いていく。駐車場の向こうに見えるラフォーレの建物は、黄昏の中でぽうっと灯りをまとい、浮かび上がっているように見えた。
凛々花は立ち止まる。ほんの一週間ほど来なかっただけなのに、なぜだか遠い昔に訪れた場所のようで、胸の奥がそわそわと揺れる。
ふぅ、と長い息を吐きながら、口の中で小さくつぶやいた。
「トークショー、無理です……?」
「トークショー、だめです……?」
まるでおまじないみたいに唱えては、首を傾げる。
「トークショー、出られません……これかな」
そんな風に言葉を探しているうちに、少しだけ気持ちが整ってくる。
トートバッグを抱え直し、凛々花は足取りを重くしながらも、エントランスへと歩みを進めた。
——カランコロン。
ドアを押し開けると、ふわりと漂うのはコーヒーと本の匂い。変わらない景色がそこにあった。
「いらっしゃいませ〜!」
明るい声にハッとして顔を上げると、カウンターから詩音がひょこっと覗いた。
「凛々花ちゃん!」
驚きに目を丸くしたあと、すぐにぱぁっと笑顔を咲かせる。その元気な顔につられるように、凛々花もぎこちなく微笑んだ。
詩音はカウンターを飛び出すと、抱きつきそうな勢いで凛々花の前に駆け寄り、上から下まで視線を走らせる。
「うんうん、どこも悪くなさそうだ!
よかったぁ〜!」
安心したように笑うと、そのまま早口でまくし立てた。
「ちょっと、控え室で待っててもらっていい?
メイちゃん呼んでくるから!」
言うが早いか、くるりと背を向けてカフェの奥へ小走りに消えていった。
凛々花が控え室のドアを押し開けると、ふわっと甘い香りが迎えた。
部屋の隅には高く積まれた段ボール、片付けきれなかった気配のテーブルには、ケーキの材料がまだ散らばっている。ホイップの白い跡や粉砂糖の細かな粒が光を受けて、控え室を少し柔らかく彩っていた。
その箱のひとつに目をやると、『クリスマス限定メニュー試作材料 在中』と書かれたシールが貼られていた。
テーブルをぼんやり見ながら部屋の奥まで足を進めるうち、ふいに耳に届いたのは――笑い声。
静まり返っているはずの控え室に、どこか遠くからにじむように響いてくる。
——記憶の音だ。
『うわっ、崩れた!』
『またかよ、詩音』
『これで四回目です……』
空気の中に、揺らぐ影のように三人の姿が浮かんだ。
クリームを塗る詩音、肩をすくめる沙織、淡々と作業を続けるユキ。
幻のように淡く、けれど鮮やかにきらめいていた。
「みんな、きれいな色してるのに……」
そうつぶやいた時、控え室のドアが勢いよく開いた。
「凛々花ちゃん!」
メイが入ってくる。その顔には少し疲れがにじんでいて、心配そうな色が薄く覆っていた。胸には『ミニトークショー進行台本』と書かれた冊子を、大切そうに抱えている。
凛々花はうつむいたまま、体が固まった。声も出そうにない。
それでも、かすれるように、
「ごめんなさい……」
そう、絞り出す。
「ううん、私こそ、ごめんね。あんなRain、いきなりして……」
メイの声に重なるように、また遠くから声が広がった。
賑やかな詩音たちの笑い声。
メイがキーボードを叩く音。
『ちゃんと伝えろよ。黙って逃げたら、残るだけだ』――梓の声が、胸の奥で蘇る。
そして——
かつて、自分を理解してくれたただ一人の友達、まひるちゃんが、泣き顔で、それでも笑った。
『……ありがとう。わたし、あなたと出会えてよかった』
あの日はただ戸惑うだけで、胸に届かなかった言葉。
けれど今は、胸の奥にすっと沁みこんでいく。
ぱらり、と凛々花の胸の奥で糸がほどけた。
「出るよ、わたし」
凛々花は顔を上げ、まっすぐにメイを見た。
「……えっ?」
「トークショー、出るよ」
メイの表情がぱっと明るくなり、光が差すように笑みが広がる。
「本当に?ありがとう、凛々花ちゃん!」
「メイちゃんの色が戻って、良かった……」
凛々花の言葉に、メイはくすっと笑った。
「凛々花ちゃんも、だね」
甘い匂いと笑い声がまだ残る空気が、静かに、やさしく変わっていった。
◇◇◇
西伊豆の雲見岬キャンプ場。
焚き火の炎が、潮風に揺れていた。
梓はチェアに深く腰を下ろし、トワイライトに染まる海をただ眺めている。
空は群青から夜へと移り変わり、遠くに灯る漁火がちらちらと瞬いていた。
——ピコン。
ポケットのスマホが震えた。画面に浮かんだのは、凛々花からのRain。
『糸がほどけて、色がもどったよ』
「……なんだよ、それ」
意味不明な言葉に思わず眉をひそめるが、すぐに小さく笑みがこぼれた。
「まぁ……いい方向に進んだみたいだな」
肩をすくめ、再び炎に目を戻す。
オレンジの光が揺れ、梓の横顔を照らした。
やれやれ、と吐き出した息は白く溶けて、夜の海風に消えていった。
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