第125話 交わらないままの視線
夜。凛々花はベッドに腰を下ろし、ファインダー越しに撮りためた写真を見返していた。
雨上がりの水たまりに浮かぶ花びら。
途中で途切れたフェンスの影。
画面の奥には、言葉にならないざわめきが沈んでいる。
長く視線を落としたまま、ひとつ息を吐き、カメラをそっとテーブルに置いた。
そのとき——
ピコン、とRainからの通知。
スマホを手に取り、画面をのぞき込む。
メイからだった。
「こんどいつラフォーレに来る? 実は——」
表示された文字は、海の底に沈んでいくように凛々花の目から遠ざかっていく。
彼女はスマホを伏せ、ベッドに置いた。
しばらくそのままスマホを見つめていたが、ふとテーブルの上のデジタルカメラを手に取り、スマホにレンズを向ける。
シャッターの音。
カメラを戻すと、彼女は無言で部屋を出ていった。
残されたデジカメのディスプレイには、ベッドに伏せられたスマホが静かに映し出されていた。
◇◇◇
次の日。
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの控え室。
部屋の一角には段ボールが山のように積まれ、そのせいで隅に追いやられた小さなテーブルを、詩音と沙織、ユキの三人が囲んでいた。
ホワイトボードには、大きな字で「クリスマスデコレーション会議♡」の文字。ちょっとした落書きのようなハートが添えられている。
「よっこいしょっと!」
詩音が声をあげて、大きな箱をテーブルの上に持ち上げた。
「何、それ?」
「家にあったクリスマスツリーの飾り物だよ」
パカッと箱を開けると、星のオーナメントや雪だるま、赤い長靴の飾りに、きらきら光る電飾のストリングライトまで——宝箱みたいにいろんなものが詰まっていた。
「こういうのあると、気分あがるかなーって!」
詩音は楽しそうにひとつずつ取り出しては、テーブルに並べていく。
「……なんか、あがる」
ユキが表情を変えないまま、ぽつりとつぶやいた。
「さあーて、クリスマスイベントの飾り付け会議、はじめていきまーす!」
詩音が元気いっぱいに切り出した。
「まずはツリーはマストだよね」
「……邪魔にならない大きさのな」
沙織がサラッと釘をさす。
「えー、でっかいのをドーンってやりたいのに!」
「予算のことも考えなきゃ」
ユキが冷静に口を挟んだ。
「大きいツリーに、電飾をぐるぐる巻いてさ!」
「待て待て。電飾はてっぺんからまっすぐ下ろした方が絶対きれいだって」
沙織が手を斜めに滑らせながら説明する。
「そうかなぁ? ぐるぐるの方が絶対雰囲気出るって!」
「いやいや、真っ直ぐの方がいいって! ユキはどう思う?」
「……私、ツリー、飾ったことない」
ユキがぽつりと返す。
「じゃあユキちゃん、そこに立って! クリスマスツリー役ね」
詩音がぱっと立ち上がり、手招きする。
言われるまま立ち上がったユキの頭に、星のオーナメントがちょこんと乗せられた。
「なるほど、そうきたか。じゃあユキ、この電飾を持って」
沙織がストリングライトを手渡す。
ユキは頭の星と電飾の端を、素直に手で押さえた。
「こうやって、真っ直ぐ床まで引っ張るんだよ」
沙織はもう片方の端を持ち、しゃがみ込んで床に押さえ込む。
じーっと見つめる詩音。
「……なんか違うよ、沙織ちゃん」
そう言うなり、詩音は電飾の端をひょいと沙織から受け取り、ユキの体にぐるぐる巻きつけ始めた。
ユキは無言のまま、突っ立ってされるがまま。
長い電飾をすべて巻き終えると、詩音は一歩下がり、腕を組んで満足げにうなずいた。
「ほら見て! これこそ、クリスマスツリーだよ!」
「いやいや……詩音のセンス、ほんと分かんない」
沙織があきれ顔で首を振る。
「そう? 絶対こっちの方がイケてるって!」
そのとき——
ガチャッ。
「おはようございます〜」
裏手のドアが開き、淳子が姿を見せた。
「……えっ!?」
目の前に広がるのは、頭に星のオーナメントを乗せ、体に電飾をぐるぐる巻きにされたユキ。その前で、詩音と沙織が振り返る。
「あなたたち……何してるの?」
「クリスマスイベントのデコレーションです!」
詩音と沙織が声をそろえる。
「……私、ツリー役」
ユキがぽつりとつぶやいた。
「そ、そう……イジメじゃないのね」
淳子は思わず苦笑する。
「淳子さん、これ変じゃないですか?」
「えー! イケてますよねー?」
「いやいや、センス完全にバグってるから!」
詩音と沙織のツッコミ合いが続く。
「やれやれ……」
呆れ半分、でも楽しげに。淳子の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
その頃、メイは展示エリアの奥にある作業スペースで、パソコンに向かい企画書をまとめていた。
静かな空気の中、カタカタとキーを打つ音だけが響いている。
「おはよう、メイちゃん。入るわよ」
振り返ると、淳子が立っていた。
「あ、淳子さん。おはようございます。どうぞ……」
淳子は軽く腰をかがめ、メイの後ろからデスクに置かれたノートパソコンをのぞき込む。
「……企画書ね。どう? 進んでる?」
「えっと……なんとか」
メイは苦笑いを浮かべ、ちらりと見上げる。
その瞬間、何かを思い出したように「あっ」と声を上げた。
手を止め、椅子から立ち上がると、淳子の方へ向き直る。
「淳子さん、お願いがあるんですけど……」
「あら、改まって。何かしら?」
少し言いにくそうに、メイが口を開いた。
「あの……ミニトークショーの司会、やっていただけませんか?」
「え、私が?」
淳子の目がわずかに見開かれる。
「メイちゃん、オープニングイベントでもやったじゃない。あなたの方が向いてるんじゃない?」
「そ、そんなことは……ただ、あのとき思ったんです。誰かがちゃんと進行を回さないと、グダグダになっちゃうなって」
「まあ、それはそうだけど……」
「それに、アマチュアカメラマンさんのこともよく知ってますし、凛々花ちゃんが出るなら……淳子さんなら安心するだろうなって」
言葉を選びながら告げるメイを見つめ、淳子はしばし考え込む。
「サイン即売会の方もあるので、大変かと思うんですが……」
「分かったわ」
すまなそうに続けかけたメイを、淳子がやわらかく制した。視線を合わせ、すっと微笑む。
「えっ、いいんですか!」
メイの顔がぱっと明るくなる。
「ええ。即売会はうちのスタッフに任せればいいわ。だから大丈夫」
「すみません、本当にありがとうございます!」
メイは深々と頭を下げる。
「それに……ちょっと楽しそうじゃない?」
淳子はいたずらっぽく口元をゆるめた。
その表情に、メイも思わず笑顔を返す。
「ところで、凛々花ちゃんはOKしてくれたの?」
「……それが、まだなんです。Rainは送ったんですけど、返事が来なくて……」
明るさを取り戻したばかりのメイの顔に、影が差した。
◇◇◇
控え室から出てきた詩音たち。
「次は買い出し行かないとだねー!」
「ちゃんとスケジュール表、作っとけよ」
「分かってるって〜」
わいわい言い合いながら、それぞれの持ち場へ散っていった。
詩音はレジカウンターに入り、エプロンの紐をきゅっと結ぶ。そこへメイが顔を出した。
「メイちゃん! おつかれっ!」
「あ、詩音、おつかれ。
ねぇ、凛々花ちゃん、来てる?」
「私も今、会議終わったばかりだから……」
二人してフロアを見渡したが、凛々花の姿はなかった。
「そういえば凛々花ちゃん、ここ二、三日、見てないなぁ」
「そっか……ミニトークショーの件でRainしたんだけど、未読のままなんだよ」
「えー、そうなんだ……また大学の課題とかで忙しいのかな?」
「……ならいいんだけど」
メイは胸の前で手を組み、少し考え込むように俯いた。
「どうかしたの?」
「いや、気のせいかもなんだけど……この前の凛々花ちゃん、なんか引っかかってて」
「梓ちゃんが来てた時の?」
「うん。私、ソロキャンのことばかり考えてて、見過ごしたっていうか……」
「普通にニコってしてたように見えたけど」
「その“普通”がね、前と同じ“笑顔”に見えたっていうか、ちょっと遠いっていうか……うまく言えないけど」
詩音は一瞬考えてから、真剣な顔でうなずいた。
「じゃあ、私からも連絡してみるよ。凛々花ちゃんに」
「……うん、ありがとう」
メイの表情が少し和らいだ。
そんな話をしている時——
——カランコロン。
エントランスのドアベルが鳴り、詩音が反射的に声を張った。
「いらっしゃいませ!」
視線を向けると、黒いバイクジャケットを羽織った梓が入ってくる。
「えーっ、あずさちゃん!」
詩音が目を丸くした。
「どうしたの、最近。よく来てくれるよね?」
「悪いか? 私だって、カフェぐらい来るよ」
少し照れたように返す梓。
「いやいや、ありがとうございます! ご注文はいかがしますか?」
「じゃあ……ブレンド、ホットで」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、声の調子には照れがにじんでいた。
そんな光景に、メイの胸のざわつきは、ほんのひとときだけ和らいでいた。
◇◇◇
展示エリアで、メイはリーフレットを補充していた。
そこへ、ふらりと梓が入ってくる。
「梓ちゃん……こっちにも来てくれたんだ」
「あぁ……なんか気になってな。
今日、凛々花は?」
「それがね……連絡取れないんだよ」
メイはスマホを取り出し、Rainが未読のままになっていることを梓に話した。
「……なんかあったのか?」
「トークショーに出てもらおうと思ってて」
「えっ! 凛々花、あのカイなんとかってのとトークするのか?」
梓が目を丸くする。
メイは思わず吹き出しそうになりながら、小さく笑って首を振った。
「それは別件。
この展示エリアでミニトークショーをやるんだけど、それに出てもらいたくて」
「……なるほど、そういうことか」
梓は少し間をおいてから言った。
「あいつなら、ポワンと出てきて『いいよ〜』って言いそうなんだけどな」
「……だと、いいんだけどね。
あ、ごめん。写真、ゆっくり見てって」
ぎこちなく笑いながらそう告げると、メイはそっとその場を離れ、リーフレットを並べ直し始めた。
「ああ、そうするよ……」
そう口にしながらも、梓の胸の中には小さな引っかかりが残る。モヤモヤを抱えたまま、彼女は奥の写真の前に立った。
木陰でしゃがみこむ女の子の写真。
じっと見つめていると、この前メイに言われたように、胸の奥で何かが確かに訴えかけてくる。
「……何考えてるんだろうな」
それは写真の中の少女に向けた言葉だったのか。
それとも、凛々花に向けた言葉だったのか。
梓自身にも、答えは分からなかった。
◇◇◇
学校帰りの凛々花。小田急線の車内に座っていた。
「次は、矢鞠です。お出口は——」
車内アナウンスが流れる。
自然に立ち上がりかけた足が、不意に止まった。
そのまま、もう一度腰を下ろす。
背もたれに体をあずけ、ぼんやりと宙を見ていた視線が、ふと頭上の広告にとまる。
『カフェ・ラフォーレ リーヴルス』
『写真展「ふれる、なじむ、自然」 絶賛開催中』
「……水に沈んだ景色、みたい」
そんなつぶやきは、はかなく空気に溶けていった。
電車が矢鞠駅に停まり、ドアが開く。
けれど凛々花は動かない。
やがてドアが閉まり、電車は再び走り出した。
(どうしちゃったの……私)
ふっと笑みが浮かぶ。だけど、その笑顔はどこかぎこちなく、凛々花自身も気づかぬまま、かすかな影を帯びていた。
電車は矢鞠駅から遠ざかり、夕闇の中を静かに走り続けていった。
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