第124話 変わるまなざし、揺れる心
夜のカフェ・ラフォーレ リーヴルス。
そろそろ、ラストオーダーの時間。
静かな店内で、カウンター席に並んで座るメイと梓。
グラスに映る灯りが、ゆったりとした時間をつくっていた。
「ミニトークショーか。……また急な話だな」
梓が肘をつきながらつぶやくと、メイは疲れたように肩をすくめた。
「でしょ。今日もバタバタで。
だから、ソロキャンやめようかなって思って」
「でも、休みがないわけじゃないんだろ?」
「うん……。でも、こんな時に連休は取りづらいし。気持ち的にも、なんか落ち着かないっていうか……」
梓はふっと笑って、メイの横顔を見た。
「メイらしいな」
その笑みに、メイもつられて小さく笑う。
「梓ちゃんは、キャンプ行くの?」
「ああ……来週あたりに」
「そうなんだ…どこに?」
「今度は伊豆。西伊豆あたりにしようかと……」
「え、西伊豆!? お父さんの実家があるところだ!安久里ってとこ」
「へぇ〜。西伊豆、いいところだよな」
「うん。いいとこだよ……」
二人の会話がひと息ついた、そのとき――
「ジャジャーン!」
背後から元気な声が飛び込んできた。振り返ると、満面の笑みを浮かべた詩音が立っていた。
「なんだよ、びっくりさせて」
梓が眉をひそめると、詩音は得意げに胸を張った。
「これだよ、これ! カイさんの写真集!」
差し出されたのは『風のあとを、歩く』と題された一冊。
詩音は誇らしげにページを開いて、梓の目の前に広げた。
「今度のサイン会の人の本か」
梓は本を受け取り、ぱらぱらとめくる。
緑の森、川面の光、柔らかな朝焼け……自然の風景が、紙の上からあふれ出してくるようだった。
「自然がいっぱい写ってて、綺麗な写真集だな」
「でしょ! これなんか、気持ちがふっと軽くなる感じがするんだよね」
詩音は、朝の森を切り取った一枚を指さして笑顔を向ける。
梓は目を細め、そのページを見つめながら首を傾げた。
「ああ……でも、私、写真とかよくわからないからなぁ」
肩をすくめる梓に、メイが思い出したように声をかける。
「そういえば梓ちゃん、まだ写真展見てないでしょ? ちょっと行ってみようよ」
「ん、まあ……」
重い腰を上げるように立ち上がった梓と並んで、メイは展示エリアへと歩き出す。
背後で詩音が「ごゆっくり〜」と笑顔で手を振った。
ーーー
展示エリアに足を踏み入れると、ひんやりとした空気に切り替わった。
入口には「ふれる、なじむ、自然」と題されたポスターがイーゼルに掲げられ、柔らかなライトに照らされている。
壁一面に並ぶアマチュアカメラマンたちの写真。
湖畔の朝もや、草原の山小屋の前で伸びをする男性、焚き火の前で寄りそう女の子たち——
人と自然が触れ合う瞬間が、静かに切り取られていた。
「自然豊かな写真だな…」
梓が立ち止まり、じっと一枚を見つめる。
「こういうところでやるキャンプも悪くない」
横で聞いていたメイが、思わず口元をほころばせる。
「梓ちゃん、絶対そう言うと思った」
メイの笑顔に、梓は照れ隠しのように視線を写真に戻した。
「で、こっちが凛々花ちゃんの写真なんだぁ」
メイが案内したのは、キービジュアルに使われている一枚。
木陰でしゃがみこむ少女の姿が、やわらかな光の中に浮かんでいる。
「……凛々花のは、自然豊かって感じじゃないんだな」
梓が少し首をかしげる。
「うん。凛々花ちゃんのは、自然は自然でも“ありのまま”っていう意味の自然なんだよ」
「ありのまま……?」
メイは写真を見上げながら、ゆっくりと言葉を探す。
「この写真展の表のテーマはね、『自然ってこんなに素敵だよ』『自然を大切にしようね』ってことなんだけど……」
ひと呼吸おいて、続けた。
「でも、自然を大切にするって、結局“ありのままを受け入れる”ってことなのかもしれないなって」
梓もその写真の前に歩み寄り、無言で見入る。
光と影のコントラストが、静かに心に染みこんでくるようだった。
「だから……凛々花ちゃんの写真を見てもらって、“ありのままだからこそ響く”って感じてもらえたらいいなって思うんだ」
「……なんか、深いな」
梓は腕を組んだまま、分かったような、分からないような顔をした。
その隣には、柵の中のポニーに親子が餌をあげている写真が掛けられていた。
小さな手から差し出される人参に、ポニーが愛らしく首を伸ばしている。
梓は思わずつぶやいた。
「これなんか、自然の中の、ほのぼのした写真だよな……」
「だよね。でも……ポニーに餌を選ぶ自由はないんだ。
好きなところに行く自由もない。
それも“現実”っていう、ありのままの自然」
メイの言葉に、梓ははっとして写真を見直す。
なるほど。角度を変えると、ただの微笑ましい一枚が、ぐっと考えさせられるものに変わる。
「……なんか、写真が語りかけてくるような感じ、しない?」
メイが横から微笑んだ。
「ああ……なんとなく」
そう言われてみると、確かに胸の奥にすっと入り込んでくるような気がした。
(凛々花……あいつ、もしかして、すごいのか?)
梓は無意識に、他の作品へと視線を移す。
「今日は来ないのか、凛々花は?」
「……みたいだね。昨日も来てなかったって、詩音が言ってた」
メイの表情が、少しだけ曇る。
「ふーん」
ぶっきらぼうにそう返しながらも、梓は別の写真を一枚一枚眺めていく。
わからないなりに――でも、なんとなく凛々花の写真の良さを感じている自分に気づく。
(あんなにポワーンとしてるのにな……)
ほんの少しだけ、凛々花を見直した気がした。
◇◇◇
その頃——
凛々花は大学から帰り道を歩いていた。
家に帰ると、珍しく母がリビングにいた。
ノートパソコンに向かい、打ち込む指が絶え間なく動いている。
「おかえり」
「ママ、帰ってたんだ……」
短いやり取りのあと、凛々花はダイニングへ向かう。
テーブルには、お手伝いさんが用意した夕食が整っていた。
「テレビ、点けてもいいわよ」
そう言いながら、母は自らリモコンを押した。
画面からは賑やかな笑い声が流れ出す。
けれど、その場にいる誰も、テレビなんて見てはいなかった。
ーーー
凛々花が箸を手にしたとき、玄関のドアが開く音がした。
「今日は帰る日だったっけ?」
母が顔も上げずに尋ねる。
「ああ。明日から出張だよ」
父の声が返ってきた。
ダイニングに入ってきた父は、慣れた手つきで自分の食事を整える。
その姿に、凛々花の口元がふっと緩んだ。
——パパと一緒のご飯、いつぶりだろう。
胸の奥に温かいものが広がると同時に、不安の影が差す。
(パパ……ラフォーレでサイン会、やるの?)
喉の奥まで出かかった言葉は、声にならずに消えていった。
代わりに父と目が合う。
「どうした、凛々花?」
「……ううん、なんでもない」
笑ってごまかした自分の声が、少しだけ上ずって聞こえた。
近いのに遠い。
その距離感は、昔からずっと変わらないはずだった。
けれど今夜の遠さは、ほんの少しだけ違って見えた。
久しぶりに家族全員が揃った。
けれど、言葉は交わされず——
静かなリビングにテレビの笑い声だけがむなしく響いていた。




