第121話 春の風が似合う人
凛々花は、中学を卒業すると、鎌倉にある私立女子高へと進学した。
古都の自然に囲まれた、静かで落ち着いた環境。
校舎は少し古いけれど、緑に包まれたその雰囲気は独特で、凛々花には心地よく感じられた。
片道に一時間以上かかる学校を選んだのは、母の勧めもあった。
自然豊かな環境が、この子には合っている――そう思ったのだろう。
特進コースに入って、有名大学へ。
母のそんな思いも伝わってきたけれど、凛々花自身はどうでもよかった。
「木やお花も、いっぱい話してくれるかな」
学校見学のとき、そう思えたこと。
ただそれだけが、この学校を選んだ理由だった。
◇◇◇
入学してすぐのホームルームのあと。
生徒たちは二人一組になって、「お互いにインタビューをして、相手のことを紹介する」というワークをやることになった。
二人で前に出て、それぞれ相手のことをみんなに紹介する形式だった。
凛々花の相手になったのは、髪を耳にかけてにこっと笑う、明るい雰囲気の女の子だった。
声の調子も柔らかくて、最初から話しかけやすい空気をまとっている。
「好きな食べ物は?」
「部活は?」
「趣味は?」
次々と質問されて、凛々花も自然と笑顔になって答えていた。
緊張していたはずなのに、その子と向き合っていると不思議と心が軽くなった。
だが――問題はそのあとだった。
次は凛々花が、その子を紹介する番。
みんなの前に立つと、少し考えてから、すうっと口を開いた。
「都築さんは、いちごが好きで、ピアノが得意だと言っていました。
それから──、たぶん、春の風が似合う人です」
教室が、ふっと静まり返る。
「え? なにそれ」
「詩人かよ」
「春の風って……意味わかんないし」
前の席から、そんなつぶやきが漏れてきた。
けれど凛々花は、ただきょとんと首をかしげただけ。
誰かが笑ったのも、きっと面白かったからだろうとしか思わなかった。
彼女にとって「春の風が似合う」という言葉は、その子への素直な印象でしかなかったから。
席に戻ると、相手の子が小さく笑って言った。
「なんか、ちょっと恥ずかしかったけど……ありがとう」
凛々花は「うん、そう見えたから」とだけ答えて、微笑んだ。
けれど、その日を境に、凛々花に話しかける子は少しずつ減っていった。
声をかけられれば、にこっと笑って答える。
けれど、どこか“ちょっとずれてる”──そんな空気が、じわじわと広がっていった。
けれど凛々花自身は、まったく気づいていない。
「自分なりにちゃんと紹介できた」と思っていたから。
◇◇◇
凛々花が紹介した子の名前は──都築まひる。
おとなしくて、声は小さいけれど。
凛々花の「春の風が似合う」という紹介を聞いて、誰よりも先に、くすっと笑った子だった。
ある日、まひるは凛々花に話しかけてきた。
「実はわたし、あの紹介、ちょっと好きだったんだぁ。なんか、詩みたいで」
その言葉に、凛々花は胸の奥が少しあたたかくなる。
自分の言葉が、はじめて受け止められた気がした。
それから、昼休みに一緒にお弁当を食べるようになった。
休み時間も、教室の隅で静かにぽつぽつ話すことが増えていった。
まひるは「周りとうまくやるのが、ちょっと疲れるタイプ」らしかった。
そんなまひるも、自然体の凛々花は気を使わずにいられる相手だった。
凛々花の“ズレ”をおもしろがってくれる。
何か相談しても、意味不明な言葉で返ってくることもあったけれど──それで、かえって気持ちが軽くなることもあった。
凛々花も、まひるには不思議と遠慮せずにしゃべれた。
言葉をちゃんと聞いて、ちゃんと返してくれる友だちは、まひるが初めてだったから。
気づけば、ふたりはずっと一緒にいるようになっていた。
休み時間も、お弁当のときも。
学校でしか会わないけれど、それだけで十分だった。
◇◇◇
7月に入った、ある日の放課後。
まひるが、ぽつりと言った。
「ねぇ、来週で……転校するの」
こんな時期の急な転校。
家庭の事情らしかった。
まひるはわざと明るく言ったけれど、
凛々花はしばらく黙り込んで、やがてぽつんと答えた。
「……ふーん。じゃあ、この風景、もう撮れなくなるね」
「え?」
「まひるちゃんがいる教室。いつも、ちょっと静かで、優しい空気があったから」
まひるは目を丸くしたあと、ふっと笑った。
少し泣きそうな顔で。
◇◇◇
転校の前日の朝、凛々花はまひるの机の中に、小さな封筒をそっと入れておいた。
登校してきたまひるは、すぐにそれを見つけた。
「……なんだろう?」
中に入っていたのは、白黒にプリントされた一枚の写真。
ピントは少し甘く、机の上に並んだお弁当と、窓の外の空が一緒に写っていた。
お弁当はほとんど食べ終わっていて、散らかった箸や空のパックがそのまま残っている。
窓の向こうには、午後の光を受けて淡い雲が漂っていた。
きれいに整った写真ではなかった。
けれど、その中には“ふたりで過ごした時間”が確かに閉じ込められていた。
写真の裏には、小さな字でこう書かれていた。
「春の風が似合う人へ。
また、どこかで。」
まひるはすぐに凛々花を探した。
彼女はいつものように、教室の窓にもたれて空を眺めていた。
「凛々花ちゃん……」
その声に振り向くと、まひるは封筒をぎゅっと握りしめ、うつむいたまま言った。
「……ありがとう。わたし、あなたと出会えてよかった。
…凛々花ちゃんの言葉、好きだった」
凛々花はにっこり笑って、ただ「うん」とだけ返した。
最後のお弁当も、最後の下校も、ふたりはいつもと変わらず一緒に過ごした。
そして、駅の改札で別れるとき。
まひるの笑顔は、ほんの少し震えていた。
「……またね」
その声はかすかに揺れて、凛々花の耳に届く。
夕陽がまひるの横顔を照らし、目元の光をきらりと揺らした。
その瞬間、凛々花の胸の奥に、ちょっとだけざわめきが走った。
けれど、それが何なのかは分からないまま、ただ「またね」と笑って別れた。
それが最後の言葉になった。
◇◇◇
次の日の朝。
教室に、まひるの姿がないことで、凛々花はようやく気づいた。
好きなものを失うと、こんなにも心に穴が開くのだと。
窓の外に広がる雲は、いつもより遠くに見えた。
「春の風、もう止んじゃったんだ……」
そしてまた凛々花は、誰とも交わらない、ひとりの学校生活へと戻っていった。
——今になって思う。
どうして連絡先を交換しなかったんだろう、と。
けれど、あのときのふたりには、そんなことがどうでもいいくらい、確かにつながっていたのだと思う。
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