第120話 シャッター音の、その先に
凛々花が、まだ小学校の低学年だったころ。
友達が二、三人、よく家に遊びに来ていた。
おもちゃがたくさん並んだ部屋は、ちょっとした遊び場のようだった。
「リリカちゃんち、何でもあるね!」
友達は人形やブロックに夢中になっていた。
けれど凛々花は、同じ部屋にいながら窓辺に座って外を見ていた。
「……雲、笑ってるなぁ」
ぽつりと呟いても、友達は「次わたしの番!」と遊びに熱中している。
凛々花は気にすることもなく、また空を見上げた。
◇◇◇
中学生になっても、その状況に大きな変化はなかった。
地元の公立中学校に入学すると、『変わった子』というレッテルは、日増しに大きくなっていった。
休み時間は、ぼーっと天井を見たり、窓から外を眺めたり。
誰に話しかけるでもなく、ただ時間が過ぎていく。
給食の時も同じ。
ひとり黙々と食べていると思えば、突然ピタッと止まる。
「伊藤さん、どうしたの?」
同じ班で机を合わせていた子が、不思議そうに声をかけた。
「いま、牛乳が眠そうだったから」
ニコッと笑ってそう答える凛々花に、周囲はますます呆気にとられてしまった。
——やっぱり、この子はどこか違う。
そんな視線を浴びながらも、凛々花は気にする様子もなかった。
成績は優秀だった。
体育を除けば、学年でもトップクラス。
それもまた、近寄りがたい雰囲気を強めていった。
ひとりで過ごす学校生活。
時は、淡々と過ぎていった。
そんな凛々花にとって、ある日、とても大きな出来事が起きた——。
中学一年の秋。
学校から帰ると、珍しく母がキッチンに立っていた。
広いキッチンに、母の声が響いている。
白いエプロン姿で、お手伝いの真壁さんの隣に立ち、慣れない手つきで野菜を切っていた。
その光景が、凛々花にはどこか不思議に見えた。
「あら、おかえり、凛々花」
母は手を止めずに、ニコッとした。
「ただいま……」
そのあと、「どうしたの?」と聞こうとして、言葉を飲み込む。
「今日は誕生日でしょ。おいしいもの作るからね」
にこやかに話す母の隣で、テキパキと作業をこなす真壁さんが、少しおかしく見えた。
その日の夜。
テーブルには、ローストチキンやエビフライといった誕生日らしいごちそうが並んでいた。
真ん中には、ろうそくの立てられたケーキが置かれている。
凛々花が椅子に座ると、母はうれしそうに小さな箱を差し出した。
「凛々花、誕生日おめでとう」
「ありがとう。開けてもいい?」
「もちろん!」
包装紙を丁寧にはがし、白い箱を開ける。
中には、小ぶりで上品な腕時計。
ブランド物らしく、サクラピンクのベルトと文字盤がきらりと光った。
「凛々花、前の時計、かなりくたびれてきたでしょ」
手首に巻くと、たしかに似合っていた。
「ママ、ありがとう」
素直に言葉は出た。
そして、弾けるような笑顔を作った。そうしたほうが、ママは喜ぶと思ったから。
もう一度、腕時計をかざしてみる。
嬉しくなかったわけじゃない。
けれど凛々花の目を引いたのは、時刻ではなく——
針の刻む音と、ガラスに映る光の揺らめきだった。
夕食を食べはじめた頃、玄関の開く音がした。
「ただいま……」
大きなバックを肩からかけた父が、ダイニングへと入ってくる。
「おかえりなさい。今日は帰れたんだ」
「ああ、なんとか間に合ったよ」
そっけない母の問いに、やさしく答える父。
「いま、用意するわね」
そう言って、母は席を立った。
父は、凛々花を見て微笑む。
「誕生日、おめでとう」
そう言ってバックをごそごそ探り、小さな箱を取り出す。
「はい、プレゼント」
ふたつめの贈り物に、少し困惑しながらも「ありがとう」と受け取る。
「開けてごらん」
父に促され包装紙をはがすと、カメラの写真が印刷された箱が出てきた。
「カメラ……?」
箱を開けると、小さなデジタルカメラが顔をのぞかせた。
部屋の照明がボディに反射して、プラム色の表面がきらりと揺れる。
父なりに「女の子だから赤がいいだろう」と思ったのだろうか。
けれど、その単純さがかえって愛おしかった。
誕生日のプレゼントにデジタルカメラ——。
いかにも父らしい、不器用で、まっすぐな贈り物だった。
久しぶりの家族三人の食卓は、たいした会話もなく、淡々としたものだった。
でも、それが日常。
テレビから聞こえるバラエティー番組の下品な笑い声だけが、ひときわ大きくダイニングに響いていた。
***
食事のあと、凛々花はデジタルカメラを手に取ってみた。
隣でコーヒーをすする父に尋ねる。
「これって、すぐに使える?」
試しに電源を入れると、画面には無情な文字が浮かんだ。
——バッテリーを充電してください。
「……あ」
思わず肩をすくめる凛々花に、父は苦笑する。
「充電しないとダメだな」
そう言ってバッテリーを充電器に差し込み、棚の上へ置いた。
「すぐ終わるから」
父はそう付け加えたけれど、結局その夜はカメラを再び手にすることはなく、眠りについた。
◇◇◇
翌朝。
制服に袖を通して居間に降りると、父も母もすでに出勤していた。
静まり返ったテーブルの上、朝食と一緒に、昨日のカメラがぽつんと置かれている。
その横には、小さなメモが一枚。
——もう使えます。
凛々花はそっと手に取り、しばらく見つめた。
ヘタクソだけど、丁寧に書こうとした文字。
メモの横に置かれたカメラを手に取ると、赤紫の表面に朝の光が反射して、小さな光の粒が揺れた。
表を見たり、裏を見たり。
カメラを確かめるようにしてから、電源スイッチを押す。
命が吹き込まれたように、画面がふっと灯った。
「これで、撮れそうかも」
そう思うと、リビングをぐるっと見渡した。
ふと、目に止まったのは朝の光。
白いカーテンの隙間から差し込む、とても穏やかでやさしい光。
まるで「ここにいるよ」と語りかけてくるようだった。
——あの光、残せるのかな。
慣れない手つきでカメラを構えて、シャッターを押す。
——カシャッ。
液晶に一瞬の切り替わり。
そこには、風景だけでなく、いま感じた朝の光の声までも写し込まれていた。
「あ……切り取れた」
胸の奥に、驚きと喜びがじわりと広がる。
まるで写真が、自分の気持ちをそのまま語ってくれているかのようだった。
ふと、自分の手首に目を落とす。
昨日もらった腕時計が、朝の光を受けて針をきらりと光らせていた。
片手でカメラを持ち、その時計にレンズを向ける。
——カシャッ。
液晶画面に映っていたのは、高価な時計そのものではなく、
それを見つめる自分の心だった。
嬉しいはずなのに、どこか戸惑いを含んだ感情が、そこに残されている気がした。
「……こんな感じだった」
カメラは風景だけじゃなく、自分の心までも写してくれる。
そう思うと、不思議と胸の奥が少し軽くなった。
もう一枚撮ろう——そう思ってあたりを見渡すと、壁の時計が目に入った。
「あ……遅刻だ」
慌ててカメラを鞄に詰め込み、凛々花はダイニングを後にした。
◇◇◇
それ以来、凛々花はどこへ行くにもカメラを持ち歩くようになった。
空の色、窓辺の光、街路樹の影。
レンズを向ければ、胸に残ったきらめきを閉じ込められる気がした。
ある日、撮った写真を父に見せたことがある。
「凛々花は、筋がいいな……」
短くそう言って、やさしく笑った父。
何かを共有できたような気がして、少しだけ胸が温かくなった。
けれど本当は——
上手いか下手かなんて、どうでもいい。
ただ、私が見ているこの光を、父にも見て欲しかった。
そうしてカメラは、凛々花にとって“言葉のかわり”になっていった。
あの瞬間から、世界との向き合い方が、少しずつ変わりはじめていた。
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