第119話 凛々花、幼き日の断片
凛々花の母は、とても忙しい人だった。
若くして大手広告代理店の主任になり、出産してからも歩みを止めなかった。
仕事と母親を両立させようと、いつも前を向いていた。
そんな母を支えていたのが、お手伝いの真壁さんだ。
五十代半ばの、几帳面でまじめな人。
家事のほとんどをこなし、幼い凛々花の身のまわりの世話まで担ってくれていた。
凛々花が五歳のとき。
夕方の居間で、凛々花はちょこんとテーブルに座っていた。
テーブルの上には、湯気を立てるオムライス。
赤いケチャップが、無造作に線を描いている。
真壁さんは椅子に座らず、腕まくりを直しながら立っていた。
「はい、ごはんできましたから、ちゃんと食べてくださいね」
その声をよそに、凛々花はカーテンの隙間から差し込む光を見つめていた。
埃が舞って、きらきらしている。
「きれい」
ぽつりと呟くと、真壁さんがちらりと振り向いた。
「……埃ですね。あとで掃除しておきます」
それだけ言って、エプロンの紐を結び直す。
一緒に座ってほしいとは思わなかった。
ただ——心に残ったのは、食卓よりも光の粒だった。
◇◇◇
母は凛々花の興味をよく察してくれていた。
それを形にすることが、愛情だと信じていたように——。
デパートに行ったときのこと。
ショーケースの中に、リカちゃんがいた。
カラフルな家具や小さな雑貨に囲まれ、楽しげなポーズを決めている。
強い照明に照らされ、ガラス越しにきらきらと輝くその光景は、まるで舞台のワンシーンのようだった。
凛々花は足を止め、じっと見入った。
動けないまま、しばらく呼吸すら忘れていた気がする。
「欲しいの?」
母がしゃがんで問いかける。
「……うん」
翌日。会社帰りの母が、大きな箱を抱えて帰ってきた。
中には、昨日ガラスの中で見た『リカちゃんのおうち』がそのまま収められていた。
「これ、欲しがってたんでしょ?」
母は微笑んで言った。
「ありがとう……」
戸惑いながらも凛々花がそう答えると、母はもう一度ニコッと笑い、すぐに大きなカバンを手に奥の部屋へ。
「真壁さん、あとはお願いね」
「承知しました」
真壁さんはエプロン姿で淡々とパーツを床に広げ、赤い屋根を取り付け、家具をきちんと配置していく。
カチッ、カチッとプラスチックのはまる音が響いた。
その横で凛々花はじっと見つめていた。
「完成しました。遊ぶときは気をつけてくださいね」
差し出されたリカちゃんを手に取る。
けれどそれは、もう"ただの人形"だった。
——凛々花が心を奪われたのは、人形ではなく。
あのショーケースの中で、強い光に照らされ、ひとときだけ舞台の上に立っていた“きらめく光景”のほうだった。
◇◇◇
母が休みの日には、一緒にいろいろな所へ連れていってくれた。
凛々花は、その時間が好きだった。
ある日、水族館に行ったときのこと。
大きな水槽の前で、ふと気づくと母の姿がなかった。
青い光に照らされた空間は人であふれていて、急に心細くなる。
水槽の揺らめきが、壁や床に反射していた。
青い模様が静かに踊るように広がり、凛々花を包み込む。
でも泣き出すことはなかった。
その代わりに、凛々花は目の前の魚を数えた。
一匹、二匹、三匹。
群れが通り過ぎると、また一匹から。
繰り返すうちに、胸のざわめきは少しずつ消えていった。
「……あれ、どうしたの?」
制服を着た係員のお姉さんがしゃがみ込み、目を合わせてきた。
「ママはどこ?」
「……わかんない」
「そう。じゃあ待っててね。お姉さんが探してくるから」
その声にうなずいて、凛々花は小さく言った。
「……待つの、得意」
お姉さんは目を細めて微笑んだ。
「えらいね」
褒められて、凛々花は胸を張った。
◇◇◇
凛々花の父は、家にいないことが多かった。
仕事で何日も帰らないことも珍しくなく、むしろ家にいる日のほうが少なかった。
それでも、玄関の戸を開けて帰ってくるときには、必ず笑顔だった。
「いい子にしていたか〜」
そう言って、大きな手で凛々花の頭を撫でる。
「うん!」
そう返すと、父は「そうか〜」と声を弾ませて笑った。
そのやり取りが嬉しくて、凛々花も自然と笑顔になった。
けれど、不思議とその先の会話は、ほとんど覚えていない。
父はそのまま書斎へ消えてしまうのが、いつもの流れだった。
背中のあたたかい光は小さくなり、ドアがパタンと閉じると、ふっと消える。
その光景を、凛々花はぽかんとした笑顔のまま見つめていた。
優しい人だった。凛々花も、その優しさが好きだった。
けれど、その笑顔の奥にあるものは、いつも遠かった。
◇◇◇
凛々花が六歳の、とある日。
休みの日に、父とふたりで公園に行ったことがあった。
昼下がりの近所の公園。
凛々花は砂場にしゃがみ込み、小さな手で砂をすくっては積み上げ、ちいさな山を作っていた。
「できた!」
思わず声が弾んで、振り返る。
少し離れたベンチに、父が座っていた。
黒いカメラを構えたまま、じっとこちらを見ている。
カシャ。
シャッターの音が響いた。
父はカメラを下ろすと、にっこり笑った。
その笑顔が嬉しくて、凛々花も思わず笑い返す。
でも、父はベンチから立ち上がることはなかった。
砂場に駆け寄ってくることもなく、そのまままたカメラを構えた。
凛々花は小さな山に目を戻した。
「もっと大きくしよう」
誰に言うでもなく、小さくつぶやいた。
◇◇◇
母の背中。
真壁さんの手。
水槽の青い光。
父のシャッター音。
それらは言葉ではなく、音や景色として残っていた。
凛々花にとって、忘れられないのは、声よりも光や音の断片だった。
静かに積み重なって、目に、耳に、宿り続けていた。
そうして、凛々花の中に小さな輪郭を描いていった。
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