第118話 よみがえる面影
カフェ・ラフォーレ リーヴルスの帰り道。
凛々花の胸の奥には、どこか落ち着かない気配が残っていた。
矢鞠駅から小田急線に揺られ、中央林間で田園都市線に乗り換える。
地下へと続く階段を降りていくと、電車がすでにホームで静かに待っていた。
発車を控えた車両を横目に歩いていたとき――
「ママーっ! これ見てー!」
無邪気な声が響き、凛々花は思わずそちらへ顔を向ける。
幼稚園くらいの女の子が、電車を指さして立ち止まっていた。視線の先には、お母さんらしき女性の姿がある。
「そうね、電車だね」
「これ、乗るのー?」
「ええ、乗るわよ」
母の手に導かれ、女の子は楽しそうに電車へと乗り込んでいった。
その光景を目にした瞬間、凛々花の胸に、ふいに記憶の波が押し寄せた。
フラッシュバックのように――
——「ママー! これ見て!」
芝生の横の植え込み。たぶん、自宅の庭だったと思う。
小さなピンクの花がひとつ、風に揺れて咲いていた。
ママを探して辺りをキョロキョロ見回すと、縁側の端に後ろ姿を見つけた。
「ママー!」
振り向いた母は短く言う。
「あとでね、凛々花」
それだけ告げて、また背中を向けた。
今ならわかる。電話で仕事の話をしていたのだと。
私は小さな花に向き直り、しゃがみ込んで見つめた。
きれい……
けれど、ママは最後まで来てくれなかった――と記憶している。
ピロロロ……
発車メロディにハッとして、凛々花は電車へと足を踏み入れる。
空いた車内の端の席に腰を下ろすと、間もなくドアが閉まり、列車は静かに動き出した。
ドアを挟んだ向かいの席には、さっきの親子が並んでいた。
女の子は座席に膝を立て、窓の外をのぞき込んでいる。
「まっくらだよ」
「何にも見えないわね〜」
にこやかな母の声が車内に響く。
凛々花はそっと目を閉じた。
◇◇◇
ガタン——
電車が大きく揺れ、凛々花はそっとまぶたを開いた。
窓の外は、トンネルの暗闇から夜の街並みへと移り変わっていく。
まばらな車内にアナウンスが流れ、列車は次の駅に滑り込んだ。
さっきの親子が立ち上がり、お母さんが女の子の手を引いてホームへと降りていく。
その後ろを、大学生らしき男の子がノートパソコンを小脇に抱えて足早に去っていった。
——ノートパソコン。
ドアが閉まる音が響いた瞬間、凛々花の胸の奥に、また別の情景が静かに浮かび上がってくる。
——凛々花 4歳 居間
夕暮れの居間。
テーブルの上には、母のノートパソコンと分厚い資料の束。カタカタとキーを打つ音が絶え間なく響いている。
部屋の隅の小さなちゃぶ台に、凛々花はクレヨンを広げていた。
「ママ、みて!」
画用紙いっぱいに描いたのは、大きなピンクの丸と、小さな棒のような足。
自分とママが手をつないで歩いている“おさんぽの絵”だった。
母はちらりと目を上げ、微笑む。
「あとでね。ママ、今ちょっと忙しいの」
「うん」
凛々花は画用紙を抱え、畳の上をぺたぺた歩いて窓辺へ。
ペタンと腰を下ろし、暗くなり始めた外をじっと見つめる。
街灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
「ママ、まだかなぁ〜」
ふと手元の画用紙に目を落とす。
そこに描かれたママは、にっこり笑っていた。
結局その日、母が画用紙を開くことはなかった。
——凛々花 5歳 誕生日
母は、イベントごとはきちんとしてくれる人だった。
クリスマスには大きなケーキを用意してくれたし、誕生日も毎年ちゃんと祝ってくれた。
その年の十月七日。五歳になった日のこと。
この日は、叔父さん夫婦と従兄の子も遊びに来ていた。
夜。リビングのテーブルの真ん中に、大きなケーキが置かれる。
ろうそくに火が灯され、部屋の明かりが少し落とされた。
「ハッピ バースデー トゥーユー♪」
あたたかな炎の明かりに照らされて、歌うみんなの顔が浮かび上がる。
拍手とともに、母が言った。
「はい、凛々花ちゃん、ふーってして」
みんなの視線が一斉に集まる。
けれど凛々花の目は、垂れていくロウや、壁に揺れる影に奪われていた。
「凛々花? ほら、ふーって」
声をかけられても、動けない。
代わりに隣の従兄が「ふっ」と吹き消した。
大人たちの笑い声が弾け、ぱちぱちと拍手が響く。
その瞬間、胸の奥にひとつ安堵が広がった。
——誰かが代わりにやってくれると、胸の奥がふっと軽くなる。
注目の的から外れたことが、どこか心地よかった。
◇◇◇
程なく、電車は南前田に停車した。
凛々花はいつものように電車を降りる。
土曜日の夜の南前田駅は、ラズベリーモール帰りの人たちでまだまだ賑わっていた。
きらめく灯りは、どこか遠い世界の眩しさのように思えた。
人混みを横目に見ながら歩き出す。吐く息が白く揺れる。
いつもならその白さに何かを重ねてしまうのに、今夜はただ白い息が浮かんだだけだった。
5分も歩けば、さっきの喧騒が嘘のように消え、静かな住宅街へ。
木々の多い小径を抜けると、大きな家が現れる。
モダン寄りの洋風建築に、わずかに和の繊細さを加えた佇まい。
……凛々花が生まれ育った家。
石畳のアプローチを抜け、玄関へ。
バッグから鍵を取り出し、二度回して重いドアを押し開ける。
玄関のセンサーが反応し、照明がぱっと灯った。
白い光に照らされた広い空間は、いつものようにしんと静まり返っている。
「ただいま…」
返事はなく、響くのは自分の声だけ。
それが凛々花にとっての“いつもの日常”。
けれど今夜だけは――
胸の奥に、小さな空白が広がっている気がした。
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