117話 風が止むとき
11月中旬の土曜日。
朝から空はどんより曇り、時折吹き抜ける風は肌を刺すように冷たい。冬の気配が近づいていた。
この日、メイの休日。
梓と会う約束があり、カフェ・ラフォーレ リーヴルスへと続く公園の小径を歩いていた。
いつも通うこの道も、今ではすっかり秋の装い。落ち葉を踏むたびに「サクッ、サクッ」と乾いた音が響く。毎日のように歩いてきたからこそ、わずかな季節の移ろいにも気づける。そんな時間が、メイには少し心地よかった。
ふいに冷たい風が頬を撫でる。
「寒っ!」
思わず声が漏れ、Pコートの襟を立てた。学生時代から着続けているグレーのコート。流行とは縁がないけれど、なんだかんだで毎年袖を通してしまうお気に入りだ。マフラーを鼻まで引き上げながら、ぽつりとつぶやく。
「……今日は、麓高原より寒いんじゃない?」
つい一昨日まで詩音と過ごしたキャンプを思い出す。
あんなに疲れたはずなのに、不思議とまた行きたくなる──キャンプってそういうものなんだろうか。
荷物を下ろし、テントもタープも干して、洗濯や片付けに追われ……その日の夜は泥のように眠った。けれど翌朝には、もう次のキャンプのことを考えている。
自然と、メイの口元に小さな笑みが浮かんでいた。
しばらく歩くと、ラフォーレの建物が見えてきた。
待ち合わせの時間より、まだ一時間も早い。けれど、それにはちょっとした理由があった。
昨日、仕事の合間にふと立ち寄った本棚のエリアで、一冊の本を見つけたのだ。
タイトルは『テントの窓から こんにちは』。
いくつかのキャンプ場を紹介してはいるけれど、ただのガイド本ではない。著者が実際に足を運び、写真を撮り、そのときの空気や気持ちを短い文章で添えている──そんなフォトエッセイだった。
なんとなく心を惹かれてしまって。
梓と会う前に、もう少しページをめくってみたい。
そう思って、今日は早めに足を運んできたのだ。
ーーー
カランコロン——。
店内に入ると、レジカウンターにはカフェスタッフの高見沙織がにこやかに立っていた。
「あら、メイちゃん。おはよう。……今日はお仕事?」
「ううん、今日はお客さん。梓ちゃんとここで待ち合わせなの」
「梓ちゃん……ああ、あのバイクの子ね」
そう、と頷きながらホットコーヒーを注文する。
「……詩音は?」
「来てるよ。いま、クリスマスイベントの打ち合わせ中。奥で店長たちと話してる」
「そっかぁ。もうクリスマスの話なんだね」
「早いよね〜」
バイブベルを受け取ると、沙織が「ゆっくりしてってね〜」と笑顔を添えてくれる。メイは軽く会釈を返した。
店内を見渡せば、昼どきを過ぎているせいか、お客さんはまばら。
「あ、空いてる……」
カウンター席の一番奥——スタッフの間では「C10」と呼ばれる席。目の前は駐車場だけれど、少し左に視線を移すと公園の緑が窓越しに広がる。座る角度によっては、森の中にいるような気分になれるのが心地よくて、メイのお気に入りの席だ。けれど人気があるせいで、たいてい誰かが先に座っている。
「ちょっとラッキーかも」
そう胸の内でつぶやきながら、トートバッグを足元のカゴに置き、Pコートを脱ぐ。ちょうどその時、バイブベルが震えた。
受け取りカウンターに行くと、アルバイトのくるみが満面の笑みで立っていた。
「これ、メイさんのだったんですね。お待たせしました〜」
「ありがとう、くるみちゃん」
トレイを受け取り、C10の席に戻る。
「さてと……」
待ち合わせまで、まだ一時間ほど。
(よし、ゆっくり読めるぞ)
コーヒーをテーブルに置くと、メイはそっと本棚エリアへと足を向けた。
フォトエッセイ『テントの窓から こんにちは』は、想像以上に面白かった。
キャンプ場の紹介をしながらも、著者が本当にキャンプを楽しんでいる気持ちが、そのまま写真と短い言葉に散りばめられている。
『青沢キャンプ場。小川のすぐそばにテントを張ったら、夜はせせらぎが気になって眠れず。でもホタルを見つけたから、ぜんぶ帳消し』
『風ヶ原高原キャンプサイト。標高が高く眺めは最高。けど風に煽られてテントが一度崩壊。設営方向って大事、という学び』
そんなふうに、失敗談もユーモラスに書かれていて、ページをめくるたびに思わず笑みがこぼれる。まるで自分も一緒に体験しているみたいだ。
「ふふっ……」
気がつけば、コーヒーに手を伸ばすのも忘れて、夢中でページを追っていた。
ーーー
ひと息ついて、少し冷めたコーヒーを口に運ぶ。
ふと店内を見回すと、受け取りカウンターに見慣れた後ろ姿があった。
オリーブ色のコートにロングスカート。ふんわりとした空気をまとった佇まい。
「あ、凛々花ちゃん……」
振り向いた彼女は、慣れた動きでいつものソファ席へ。
その途中でこちらに気づくと、いったん足を止めて、こちらに向かってにこっと手招きをした。
誘われるように、メイもソファ席へ。
「メイちゃん、この前はお土産ありがとう」
「あ、南部茶ラテね。美味しかった?」
凛々花はトートバッグをごそごそ探り、取り出したのは——
「これ!」
赤い覆面マスク。謎のご当地ヒーロー。
「……あぁ、そっちね」
凛々花はためらいもなく頭からバサッとかぶると、にこにこと言った。
「これ、落ち着くんだよ。あったかいし」
よっぽど気に入ってくれたみたいだね……。
(詩音のお土産センス、おそるべし……)
「今日は読書?」
赤い覆面マスク姿の凛々花が問いかけてくる。なんともシュールな光景に、メイは思わず吹き出しそうになりながら答えた。
「あ、それもだけど……梓ちゃんと会う約束してるの」
「ふーん、梓ちゃんかぁ」
マスク越しで表情は見えないのに、にこにこしているのが伝わってくる。そのことが、なんとも不思議だった。
「今度ね、ソロキャンプに行こうと思って……」
「ソロキャンプ?」
「うん、ひとりで行くキャンプ。ほら、梓ちゃんってキャンプの達人って感じでしょ。だから、いろいろ聞いてみたくて」
「この前のキャンプの写真……よかったよ」
「あ、詩音と行ったときの?」
「うん。風が笑いながら吹き抜けてた。……つむじ風かな、あれ」
「つむじ風かぁ……たしかにドタバタしてたけど」
頭をぽりぽりと掻くメイ。
「でも、夜はね。温帯低気圧に変わった、っていうか……」
メイが言葉を探しながら苦笑いする。
「やっぱり凛々花ちゃんみたいには説明できないや」
「焚き火のときは、風もやさしく、メイちゃんと詩音ちゃんを抱き寄せてたもんね」
——赤いマスクが、かすかに微笑んだような気がした。
「今度、凛々花ちゃんも一緒に行こうよ。キャンプ」
赤いマスクが小さく横に傾く。
「……楽しそう」
その声がふわりと落ちたちょうどそのとき、奥の控え室のドアが開き、詩音が姿を見せた。
店内を何気なく見回した詩音に、メイは小さく手を上げた。
視線が合うと、詩音はぱっと笑顔になって早足で駆け寄ってくる。
「来てたんだぁ〜、いらっしゃい!」
そして、凛々花の覆面マスク姿を見て、思わず声をあげた。
「おぉ……なんか強そう……」
「詩音の選んだ覆面マスク、すごく気に入ってくれたみたいだよ」
「それは良かった!これ見つけたとき、ピピッとインスタレーションが浮かんで……」
「……インスピレーションでしょ」
「あ、それそれ!ピピッとくるやつ!」
メイがクスッと笑うと、
凛々花もマスクを外してにっこり笑った。
「詩音ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして〜。……って、そうそう!」
急に背筋を伸ばし、改まる詩音。
「メイちゃん、凛々花ちゃん、これは事件です!!」
「どうしたの、いきなり」
「クリスマスイベントの目玉が決まったんだよ!」
詩音は身をかがめ、ひそひそと顔を寄せてくる。メイも同じように顔を寄せ、凛々花も一拍遅れて耳を近づけた。
「なんと……あの写真集のカメラマンさんのサイン会、やるんだってーー!」
一気に表情を輝かせる詩音。
「えっ、『風のあとを、歩く』の?」
「そうそうそう!本物がここに来るんだよ!」
勢いよく立ち上がり、両手をぎゅっと握りしめる。
「どうしよう、どうする?どうしよう!」
はしゃぐ詩音に、つられて笑顔になるメイ。
「よかったね、詩音。
……凛々花ちゃんも好きだったもんね、あの写真集」
そう言って凛々花を覗き込むと、彼女は笑みを浮かべたまま固まっていた。
「……リアクション、薄っ!」
思わず苦笑するメイ。
けれど、胸の奥にふと「なんだか変だな」という違和感がよぎる。
「メイちゃん!色紙、買わなくちゃだよね!」
詩音の声が、その思いをかき消した。
その時、エントランスのベルが鳴った——。
カランコロン——。
べージュのダウンジャケット姿の梓が、エントランスから入ってくるのが見えた。
「あ、梓ちゃんだ」
振り返った詩音が声を上げると、メイがすかさず言った。
「今日ね、待ち合わせしてたんだ。梓ちゃんと」
「あらま〜、おデートですかぁ〜?」
イタズラっぽく笑いながら梓の方へ向かう詩音。
「そんなのじゃないから!」
思わず反論するメイの声が、彼女の背中を追いかける。
「まったく……」
小さくつぶやいて隣を見ると、凛々花はにこっと笑みを浮かべたまま、固まっていた。
「凛々花ちゃん……大丈夫?」
「……あ、うん。大丈夫」
よっぽどサイン会に驚いたのかな。
……でも。
胸の奥に、またあの小さな違和感がかすめたとき——。
「ふぅー……なんて寒いんだ、今日は」
片方の肩に掛けていたリュックを無造作に掛け直しながら、梓がメイと凛々花の座るソファ席へと歩いてきた。
「ごめんね、呼び出して」
「いや……ってか、凛々花も一緒なんだ」
梓がリュックをドスンとソファに置く。
「さっき、ここで会ったんだよ」
「こんにちは、梓ちゃん……」
凛々花が小さく微笑む。
「おお、じゃあここ座るぞ」
カーキ色のダウンを脱ぎ、梓は自然に凛々花の隣へ腰を下ろした。
「で、ソロキャンに行くんだって?……いつ?」
「え、あ、うん。まだ具体的ってわけじゃないんだけど……」
「場所は決めたの?」
「それなんだけどさ……」
そこまで言いかけたとき——。
「本、取ってくるね……」
凛々花がふいに立ち上がり、ぽつりとつぶやいた。
「あ、ごめん、凛々花ちゃん。本読みに来てたんだもんね」
メイが慌てて声をかける。
「じゃあ、席、変えるか」
梓も荷物をまとめて立ち上がる。
「大丈夫……だよ」
凛々花がぽつりと答える。
「ううん。邪魔になるし……また後でね」
メイもそう言って立ち上がった。
二人は少し離れたテーブル席へ移動する。
そんな二人を、凛々花は小さく手を振って見送り、そのままゆっくりと本棚エリアへ向かっていった。
ーーー
テーブル席に移ったころ、梓のバイブベルが震えた。
「コーヒー取ってくる」
立ち上がった梓が受け取りカウンターへ向かうと、そこには詩音の姿。何やら言葉を交わしていて……どうやら梓が軽く怒っているように見えた。
やがてコーヒーの乗ったトレイを片手に、梓が戻ってくる。
「何かあったの?」
「いや、あいつさ。『当店ではおデートは禁止になっております〜』とか言うから、一喝しといた」
そのモノマネ口調に、メイは思わずクスッと笑った。
梓はコーヒーを口に運びながら、ふと尋ねる。
「で、なんでまたソロキャン?」
「この前、詩音と二人で行って……すごく楽しくて」
「写真、楽しそうだったもんな」
「うん。帰ってきたら死にそうに疲れてたけど」
「分かるよ、それ。でも、そこまで含めてキャンプだからな」
「だよね……。でも、また行きたいって思って。その時、梓ちゃんのソロキャンの話を思い出したんだ」
「そんな話、したっけ?」
「うん。前に言ってたじゃない。“ひとりで生きてるって感じられる”って……」
「ああ、それか。……まあ、自分のことは自分で全部やるからな」
「それ、なんかいいなぁって。私もやってみたいなって思ったんだ」
「なるほどな。……それでソロキャンか。いいんじゃない?」
梓はそう言って、優しげに微笑んだ。
「で、場所とかは決めてないんだ」
「うん。まだ……」
「さっきの話だと、こじんまりしたサイトがいいかもな。麓高原みたいにパーッと開けたところじゃなくて。……麓里キャンプ場とか、田波湖キャンプ場とか」
「ちょっと待って……」
メイは慌ててスマホのメモ帳を開き、名前を打ち込んでいく。
そんな様子に、梓は「なんかメイらしいな」と思わず目を細めた。
「梓ちゃんは、どうやって決めてるの?キャンプ場」
「私は静かさだな。人が多いと、ソロの意味がなくなるから」
「へぇ〜、そうなんだ。梓ちゃんらしいね」
「そうか?」
少し照れくさそうに笑いながら、梓もスマホを取り出し、地図アプリを広げる。
「あとは当たりをつけて、ゴーグルマップで探してるかな」
「それと……私はバイクと一緒がいいから、乗り入れできるところを選んでる」
「あ、それいいな!私もプジョーと一緒に泊まりたいかも」
メイの目がきらりと輝いた。
「駐車場に置いて歩いていくのって、なんか寂しいしね」
「だろ?だからオートサイトの方がいい」
「……オートサイトって言うんだ」
メイは真剣な顔で、またメモ帳に打ち込む。
「それと、メイはまだキャンプ慣れてないから、設備が整ってるところの方が安心だと思う」
「うん、トイレとか綺麗だとうれしいし」
「最近はどこもそうなってきてるけどな」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑い合った。
——こうして、メイのソロキャン計画は静かに幕を開けようとしていた。
◇◇◇
奥の本棚エリア。
人気のない静かな棚のあいだで、凛々花はそっと立ち尽くしていた。
手にしているのは、あの写真集『風のあとを、歩く』。
表紙をじっと見つめる。
——撮影・文:カイ・イトウ。
そっとページを開く。
何度も、何度も見返した写真たち。
いつもなら語りかけてくれるはずなのに——。
この日だけは、一枚も、何も言葉を返してはくれなかった。
……凛々花のまわりで吹いていたはずの風が、ぴたりと止んでいた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!




