第111話 キャンプの朝はこんなです 〜デュオキャン Ⅸ〜
ドスン!
「うぇっ……!」
お腹にずしんと重みを感じて、メイは目を覚ました。
テントの中。隣に寝ていた詩音の足が、シュラフごとメイのお腹の上に乗っかっている。
「寝相、悪っ……」
腕を出してそっと足をどけると、刺すような冷気が入り込んでくる。
慌ててシュラフの中に腕を戻したものの、外の静けさが気になった。
スマホの表示は、朝の5時32分。
画面の隅には、メモしておいた『日の出 6:19』の文字。
テントのジッパーをそっと開ける。
タープの向こうに、ぼんやりと富士山のシルエットが浮かんでいた。
導かれるように、メイはまだ眠っている詩音の横を抜け出し、外へ出る。
ひんやりとした空気に思わず身を縮め、ダウンを羽織った。
空気は凛としていて、吐く息が白い。
「……トイレ、行こっと」
タープを通り抜け、草原中央トイレへと向かう。
広い世界は、まだ青く沈んだまま。
足元で、霜を踏むサクッという音だけが、この世のすべてのように響く。
東の空がかすかに白み始め、富士山の稜線が影絵みたいに浮かび上がっていた。
その稜線の向こうから、やわらかなオレンジ色がじわりとにじみ出している。
光はまだ弱く、闇と朝のあいだに溶け合うような静かな色だった。
メイは思わず足を止める。
夜明け前の世界に、自分ひとりだけが取り残されたみたいで、胸が高鳴る。
「……こういう時間、好きかも」
冷たい空気と静寂に包まれながら、メイは立ち尽くして、その青い世界を目に焼きつけた。
トイレから戻ると、富士山の輪郭がさっきよりもくっきりしていた。
出しっぱなしのローチェアに腰を下ろした瞬間――
冷たい感触に、「ひゃっ」と声が漏れる。
お尻に手を当てると、スウェットがしっとり濡れていた。
「……夜露の洗礼かぁ」
ちょっと苦笑しながらタオルで座面を拭き、ブランケットを膝に掛ける。
ケトルに水を注ぎ、シングルバーナーに火をつける。
小さな炎がケトルの底を舐め、やがて水面が揺れて、ほんのりと湯気が立ちのぼり始めた。
広いサイトは、まだしんと静まり返っている。
遠くでカラスの鳴き声がひとつ。
正面の富士山は、静かに少しずつ、その姿を浮かび上がらせていた。
「これ、詩音にも見せたいな……」
メイはテントを開けて、声をかける。
「詩音、朝だよ。日の出、もうすぐ」
「……もう食べられないよぉ……」
夢の中でも何かを頬張っているらしく、口元がもぐもぐ動いている。
その姿に、メイは思わずプッと吹き出した。
肩を揺さぶると、もぞもぞと目を開ける。
「……メイちゃん? なんでいるの……」
まだ夢と現実の境目をさまよっているような声。
「日の出だってば」
「あぁ……そうだった……」
シュラフから手を出そうとして、
「あれ? 動かない……」
と半泣きになる。
ジッパーを下ろした瞬間、「さむっ!」と叫ぶ詩音に、メイはつい笑ってしまった。
お湯が沸き、メイはコーヒーを二人分淹れる。
やがて、ダウンを羽織り、ブランケットを肩に掛けた詩音が、大きなあくびをしながら出てきた。
「おはよ、メイちゃん……」
ローチェアに腰を下ろした瞬間、ひやりとした顔をする。
「……なんか冷たい」
それでも動じず、手でささっと撫でるように払っただけで、もう一度腰を下ろした。
「タオルで拭いた方がいいよ」
「冷たいの、仲間だから……」
寝ぼけまなこのまま、しれっとした声で答える詩音に、メイは思わず吹き出す。
メイが苦笑しながらマグを差し出すと、詩音は両手で包み込み、
「……あったかいねぇ」
と吐息まじりに微笑んだ。
「詩音、ほら。あれ見て」
まだ半分夢の中にいるような詩音は、ゆっくりと顔を上げる。
夜明け前の空に、雄大な富士山の影が浮かび上がっていた。
その姿を目にした瞬間、詩音の瞳がぱっと輝きを帯びる。
「……何、これ……」
「詩音にも見てほしくて……」
一瞬、詩音は言葉をなくし、それから小さく笑った。
「起こしてくれて……感謝だよ」
二人はそれ以上言葉を交わさず、ただ刻々と変わっていく富士山の姿に見入った。
夜明けの富士山と、湯気の立つコーヒー。
それだけで、もう十分に贅沢な朝だった。
ーーー
二人で歯磨きセットを手に取り、草原中央トイレへ向かう。
冷たい水で口をすすいだとき、どこからか焚き火の匂いがふっと漂ってきた。
遠くで、カップの触れ合う小さな音がする。
キャンプ場の朝が少しずつ動き出しているのを感じる。
それでもまだ空気は静かで、吐く息は白く、目の前には変わらず雄大な富士山があった。
テントに戻ると、詩音が小さな声で言った。
「今朝はシンプルに、バターロールとスープでどう?」
「うん。昨日、絶対食べ過ぎだもんね」
メイがにっこり笑う。
湯気の立つカップを両手で包みながら、買ってきたままのロールパンをちぎって口に運ぶ。
それだけなのに、驚くほど美味しく感じられた。
「お外の朝食、なんか贅沢ぅ〜」
「ほんと。家で食べるより全然美味しい」
詩音がロールパンをスープにちょんと浸す。
「パン、スープにつけると美味しいよ」
「あ、それ私もよくやるやつ」
顔を見合わせ、ふたり同時に笑った。
温かいスープと、ちぎったパンだけの朝食に、不思議と心まで満たされていく。
ふと顔を上げると、太陽が富士山の稜線からゆっくりと顔を出し、草原が黄金色に染まりはじめていた。
白い息も、濡れた草も、すべてが朝の光にきらめいて見える。
「……まぶしい」
思わず目を細めながら、二人はその光に包まれた。
ーーー
朝食を終えて片付けながら、詩音がふと思い出したように聞いた。
「今日って、何時出発だっけ?」
「一応、9時の予定だよ」
「今は……7時ちょっとすぎかぁ」
「そろそろ着替えて、撤収始めなきゃかもね」
それぞれのテントに戻ったふたりは、着替えと支度を始めた。
詩音は「靴下どこだ〜」と狭いテント内でバタバタしながらも、ライトモカ色のニットセーターをすぽんとかぶり、黒スキニーを履いてしゃがんだり伸びをしたり――よし、ぴったり。
続いて、ポーチから日焼け止めを取り出し、慣れた手つきでさっと顔に伸ばす。
ファンデーションで肌を整え、ビューラーとマスカラでまつ毛をぱっちり仕上げた。
最後にリップをひと塗り。
鏡の中の自分に満足げに微笑むと、アイボリーのニット帽をかぶり、チェック柄のマフラーをくるりと巻いて、
「完成!」
と小さく声を弾ませた。
一方のメイは、ふぅ、とひと息ついてから、クルーネックのネイビーニットに袖を通す。
デニムを履き、腰をぐっと伸ばした。
もぞもぞと荷物の中から鏡を取り出し、軽くファンデーションをはたこうとして、ふと口にする。
「詩音が言ってたっけ……冬でも日焼け止めは必須だって」
少し面倒くさく思いながらも、下地代わりに日焼け止めをさっと塗っておく。
眉をなぞり、前に詩音からもらったリップをちょんと塗ると、思った以上に顔色が明るくなって、なんだか照れくさい。
「……こんなもんかな」
ジッパーを開けかけたとき、外から冷たい空気が流れ込み、手が止まる。
「やっぱ寒いかも……」
荷物を探り、ライトグレーのマフラーを首に巻きつける。
ほっとする温かさがじんわり広がった。
「よし、これで、たぶん完璧」
ひとりごちて外に出る。
ほぼ同時に、隣のテントのジッパーも開いた。
顔を上げたふたりは、思わず微笑み合う。
詩音は明るく可愛らしく、メイは落ち着いてすっきり。
なんともふたりらしい。
「メイちゃん、リップ似合ってる!」
詩音がにこにこと言うと、
「……恥ずかしいから、やめて」
メイはぷいと顔をそむける。
でも、ちょっとだけうれしくて、口元が自然にほころんだ。
◇◇◇
時刻は7時半。
「撤収、はじめるぞー!」
「おー!」
二人はタープ下のローチェアから片付け始めた。
詩音は座面をガッと外して、ポールをクルクル。
「……入らない」
不恰好に畳まれたチェアをバッグに押し込み、悲鳴をあげる。
「それ、太りすぎ」
メイは丁寧に巻いたチェアを、スポッと収納してみせる。
「ダイエットは苦手なんだよ〜」
「リバウンド早すぎでしょ!」
笑いながら、メイはテーブルをたたみ始めた。
ーーー
テントの中。
メイがシュラフを押し込みながら、声を上げた。
「これ、案外力仕事だよね!」
スタックバッグにギュウギュウと詰め込んでいく。
その隣では、詩音がインフレーターマットと格闘中。
「空気抜けない〜! このやろっ!」
ぐいぐいと膝で押し潰して転がしながら、なんとか小さくしていく。
ふらふらで荷物を抱えて出てきた詩音は、タープのロープにひっかかった。
「うわっ!」
シュラフとマットを放り投げ、両手を地面につく。
「セーフ! 転ばなかった!」
顔をあげると、詩音の投げたマットを、メイが抱えたまま呆然としていた。
「ナイスキャッチ! ……あれ? シュラフは?」
キョロキョロ探す二人。
「え! 神隠し!?」
「あ、車の下」
メイが指差した先、転がったシュラフを見て、詩音は大げさに両手を腰にあてる。
「この、恥ずかしがり屋さんめ!」
「いや、投げたのは詩音だから」
ーーー
次はタープ。
ポールのフックにかけたオイルランタンが、揺れもせずにぶら下がっている。
「無事にキャンプできたよ。ありがとう……」
ランタンを見ながら、メイが小さく呟いた。
「メイちゃん、ポール倒していいの?」
「先にロープ緩めてからね」
詩音に答えながら、ランタンを外してそっと箱の中へ戻す。
「倒すよー」
メイが声をかける。
「カビラー!」
「せーの!」
掛け声とともにポールが傾く。
「わ、わっ!」
タープがばさっと落ちてきて、詩音がすっぽり包まれる。
「また拉致られたぁぁ!」
「タープに好かれすぎでしょ」
メイは大爆笑した。
ーーー
最後に残ったテントは、夜露でぐっしょり濡れていた。
メイはきちんと畳もうとしたけれど、生地が重たくて滑って、どうにも収まりが悪い。
「……入らない」
ぽつりとつぶやく。
「ねぇメイちゃん、何回やっても無理だよ!」
隣では詩音が、全体重をかけて袋に押し込んでいる。
ぐいぐい、ぐいぐい。
でも、はみ出した布がぷわっと戻ってきて、ふたり同時にため息。
時計を見ると、もう8時50分になろうとしていた。
「……もう、袋に突っ込もう!」
メイが観念したように声を上げ、車から持ってきた70リットルの大きなビニール袋を広げる。
「え、テントがゴミ袋行き!?」
詩音が目を丸くする。
「帰って干すのもキャンプのうち、ってことで」
メイがテントをビニール袋に無理やり突っ込み、二人で袋をねじって口を縛った。
「テントさんたち、ごめんね……」
「帰ったら干して、ピカピカにしてあげよ」
ーーー
最後の荷物を積み込み、メイがリアハッチをバタンと閉める。
「よし、撤収完了!」
ふたりは左右に分かれてドアを開けた。
メイが急いで運転席に滑り込もうとしたとき、ふと気づく。
詩音が運転席のドアを開けたまま、ただ正面を見上げて立ち尽くしていた。
その視線の先――
朝日に照らされ、雄大にそびえる富士山。
思わず、メイも同じように見上げる。
なんだか胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「……なんか、あっという間だったね。私たちの初キャンプ」
「バタバタで、失敗もあったけどね……」
ふたりの間に、静かな沈黙が落ちる。
風の音と、鳥の声。
やわらかな朝の気配が流れていく。
「……でも、富士山ドーンも見れたし。なんか、楽しかったね」
詩音の声に、メイはゆっくりと頷いた。
「……うん、楽しかった」
ふたりは静かに、ただ富士山を見上げていた。
「……あっ! もう出ないとじゃない!?」
詩音がはっと気づく。
「うわっ、そうだった!」
「やばっ、9時まわってるよ!」
「ほんとだ……でも、まぁ、いいっしょ」
そう言ってメイがニコッと笑いかけ、詩音も笑い返した。
バタン、とドアを閉める音が重なる。
エンジンがかかり、低く響くエキゾーストが、朝の冷えた空気を震わせた。
プジョー208は、ゆっくりと動き出す。
ーーー
富士山を背に、麓高原キャンプ場の出口へと向かう。
「詩音、ちょっと、いい?」
「……あのね、メイちゃん」
ふたりの声が重なった。
「あ、メイちゃんから、話して」
「えっ……うん。ちょっと寄っていきたいとこがあって」
ハンドルを握りながらメイがちらりと横を見ると、詩音と目が合う。
詩音はにっこり微笑んで、こくりと頷いた。
「実は、私もなんだぁ」
◇◇◇
紺色のBMWが停まっている麓キャビンの前に、プジョーを進ませる。
車が止まったと同時に、タイミングよくガチャッとドアが開いた。
昨日、紙フィルターを分けてくれたあのお姉さんが、ちょうど外に出てきたところだった。
「おはようございます!」
ふたりは声を揃えて、ペコリと頭を下げる。
「あら、おはよう。ふたりそろって……どうしたの?」
お姉さんは目を細め、不思議そうに微笑む。
「昨日はドリップペーパー、ありがとうございました」
「おかげでコーヒーが飲めました!」
深々と頭を下げるふたりに、お姉さんは一瞬きょとんとし、それからふっと笑みをこぼした。
「まあ、それでわざわざ来てくれたの?」
「いえ……その……はい」
少し照れながら返す二人を、お姉さんはやさしい目で見つめる。
「ご丁寧に、ありがと」
お姉さんの声はやわらかく、ふたりの胸にじんわり響いた。
「もう帰るの?」
「はい。本栖湖から身延を回って帰ろうかと……」
「いいわね、身延……」
お姉さんは朝の冷たい空気を吸い込み、ふと遠くを見やる。
「お姉さんたちは?」
「私たちは連泊なの。明日まで」
「そうですか。キャンプ、楽しんでください」
メイがにこっと微笑みながら言うと、
「ありがとう。ドライブ、気をつけてね」
お姉さんも、やわらかく笑みを返した。
ふたりはもう一度ぺこりと頭を下げ、車に戻る。
動き出したプジョーのルームミラーの中で、お姉さんが軽く手を振っていた。
思わず、詩音は窓を開けて身を乗り出す。
「ありがとうございーす!」
その声に、お姉さんが少し驚いたように笑い返した。
自然と、メイと詩音の顔に微笑みが広がる。
車内は、なんとも言えないあたたかい空気で満たされていた。
ゆっくりと出口へ進むプジョー。
たくさんの思い出と、温かい出会いをくれた麓高原キャンプ場。
静かな威厳をたたえる富士山は、ふたりを優しく包み込むように、そこにそびえていた。
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