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第110話 おやすみ前のふたりごと 〜デュオキャン Ⅷ〜


時刻は夜9時を少し回ったころ。

温度計は3℃を指し、息を吐くたびに白くほどけていく。


湯たんぽをふたつ作り終えたメイと詩音は、歯ブラシセットとコップを手に、草原中央トイレへ向かった。

夜の空気は昼間よりもぐっと冷たく、頬に当たる風が少し刺すようだ。


見上げると、黒いキャンバスの上に星がぽつぽつと浮かぶ。

足元の小さなLEDランタンは柔らかな光を落とし、遠くにはいくつかのテントの灯りが揺れている。


その光景は、広い草原に小さな街が浮かんでいるようで、不思議なあたたかさを運んでくれた。


「…なんか、いいね」


「うん。昼間と全然違うね」


歯磨きを終え、戻る道すがら。

二人は吐く息を並べながら歩いた。


自分たちのテントが見えてくると、自然と足取りがゆっくりになる。


「そろそろ寝ますか〜」


「じゃあ、おやすみ〜」


軽く手を振り合い、湯たんぽを胸に抱えて、それぞれのテントのファスナーをそっと閉めた。



—— 詩音のテントでは。


「はぁ〜…これこれ」


メイク落としシートで頬や額をくるくると優しく拭き取る。

続いて、ふわっと香りの広がるボディシートで首元から腕、手のひらまでゆっくりと撫でるように拭いた。


「この香り、落ち着くんだよね〜」


足元では、湯たんぽがシェラフの中をじんわりと温めている。

ルームウェアに着替え、枕代わりのバスタオルを整え、ランタンの灯りの下でスマホを手に取る。


今日撮った写真をゆっくりとスクロールするたび、自然と口元に穏やかな笑みが浮かぶ。


「…うん、いい一日だったなぁ」



—— そのころ。

メイのテントでは…


「…あれ、ボディシートどこだっけ?」


ガサガサと荷物を漁り、見つけた途端にシェラフへ潜り込んでバサバサと拭きはじめる。


「……いたっ!」


湯たんぽを蹴飛ばし、小さく声を上げる。

ダウンを着たまま寝ようとするが「やっぱ暑い」と脱ぎかけ、そのままシェラフから半身が飛び出す。


ジッパーを閉めようとして「え?なんで…?」と独りごちては、少し格闘。

なんとも落ち着かない。


ランタンのスイッチを切ると、ふっと暗闇が押し寄せた。

すぐに、しんとした静寂も降りてくる。


その瞬間、タープがバサッと揺れ、続けてテントの壁がザザッと動いた。


「ひっ!」


メイは息を飲んだ。


「…テント、飛ばないよね?」


怖さと心細さが入り混じったような呟きが、闇の中に落ちる。


その時、外をライトが通り過ぎ、影が一瞬テント内に浮かんだ。

さらに数メートル先で光が止まり、人の気配がすぐそこに感じられる。


「ひえ〜、すぐそこに誰かいる!」


シェラフの中で身を縮めた、その瞬間――


「……メイちゃん、まだ起きてる?」


聞き慣れた、詩音のか細い声。


「なんだ…詩音かぁ〜」


メイはほっと胸を撫で下ろした。

「起きてるよ」


ファスナーをそっと開けると、詩音はランタンを手に不安そうに立っていた。


「どうしたの?」


「トイレ行きたいんだけど…なんかこわくて…」


「じゃあ、一緒に行こうか」


メイは自分もさっきビビっていたことを悟られないよう、平静を装ってダウンを羽織り、外へ出た。


冷たい夜気が頬に刺さる。

テントの中がどれだけ暖かかったか、改めて思い知る。


二人はランタンの灯りを頼りに草原中央トイレへ向かった。

明かりのついたテントはもうまばら。午後10時とは思えないほど静かだった。



トイレからの帰り道。吐く息は白くほどけ、空気は針のように冷たい。


そのとき、詩音がふいに足を止めた。


「……見て、メイちゃん」


メイは詩音の視線を追う。

顔を上げた先――そこには、雲ひとつない夜空いっぱいの星が広がっていた。


白、青、ときどき赤みを帯びた光が、びっしりと散りばめられている。

まるで、空そのものが静かに息をしているようだった。


さっき歯磨きのときに見た星よりもずっと濃く、ずっと近く見える。


「…すごい…」


メイは思わず息を呑んだ。


富士山の黒いシルエットが星空の下で静かに浮かんでいる。


「なんか…現実じゃないみたい」


「うん…写真じゃ絶対この感じは伝わらないよね」


しばらく足を止め、名残惜しそうに夜空を見上げてから、二人はそっと歩き出した。


夜露でしっとりとした草を踏むたび、シャリッと小さな音が返ってくる。

その音が、さっき見た星空の静けさをまだ引きずっているようだった。


メイのサイトに近づくと、外に置いた焚き火台と防風板が、月明かりを受けてぼんやりと光っている。

その柔らかい光景に、自然と足がまたゆるんだ。


「ねえ、メイちゃん」


「ん?」


「こういう時間って、贅沢だよね」


星と月の名残をまとった声だった。


「……そうだね」


メイの返事も、同じやわらかさを含んでいた。



テントの前で立ち止まり、メイがファスナーへ手を伸ばした、そのとき――


「……ねえ、メイちゃん」


「なに?」


呼び止めた詩音は、足先で地面をこすりながら、もじもじと視線を泳がせた。


「……メイちゃんのテントで、寝てもいい?」


言い終えたあと、気まずそうに小さく肩をすくめる。


「……いいけど」


返事は素っ気なくても、メイの表情はふんわりほころんでいた。


「やったぁ! 寝袋、持ってくる!」


詩音はパッと顔を明るくして、くるりと振り返ると、自分のテントへ駆けていった。

メイはその背中を見送りながら、急いで荷物を端へ寄せてスペースを作る。


ほどなくして、詩音がマットとシェラフを抱えて戻ってきた。

そのまま勢いよく、メイのテントにグイッと押し込む。


「狭っ!」


メイが思わず顔をしかめると、詩音はニコッと笑って言った。


「くっついてると、あったかそうじゃん」


二人はシェラフを並べ、肩が触れ合うほどの距離でそっと潜り込んだ。



「おやすみ〜」


ランタンが消え、テントの中はふっと暗闇に沈んだ。

しんとした空気の中、二人の寝息だけが微かに重なる。


数秒の静寂――そのあと。


「……ぷっ」


詩音の小さな吹き出す声。


「どうしたの、詩音?」


「ごめん……なんか、静かすぎてさ。おやすみ〜」


そう言いながら、まだ肩が小さく揺れている。


メイもつられて、思わず「ぷっ」と笑ってしまう。


「メイちゃんまで〜」


くすぐったい笑いが次第に膨らみ、

二人してケラケラと声を押し殺しながら笑い続ける。


やがて、笑いの余韻の中でメイが息を整えながらつぶやく。


「……ダメだ、なんか目が冴えちゃった」


「じゃあ、撮った写真見ようよ」


詩音が寝袋の中から手を伸ばし、ポンとランタンをつける。

柔らかな灯りがふたりの顔をほんのり照らした。


メイは体勢を変えて、詩音の肩にそっと寄り添うように画面を覗き込む。


「ここ…白糸の滝、すごかったね」


「階段もすごかったよ。足ガクガクだったし」


「富士宮やきそばも美味しかったね〜」


「この富士山、ヤバくない?」


詩音がスクロールするたびに、ぽつぽつと感想がこぼれる。

画面いっぱいに映るふたりのツーショットには、雲ひとつない青空と堂々とした富士山。


「メイちゃん、めっちゃうれしそう」


「詩音だって“テンション爆上がりです!”って顔してるよ」


「ふふっ……これ、みんなに見せようよ」


「うん、送っちゃお」


詩音はその写真をグループRainに送信した。


少しして、ピコン——。


梓:キャンプ楽しめ


「梓ちゃんらしいね。短いけど優しい」


メイがクスッと笑う。


続けてまたピコン。


凛々花:風、写ってるね


「……凛々花ちゃん、やっぱそういうとこ見るんだね」


「だね。相変わらずだ」


ふたりは笑いながら、

それぞれ「おやすみなさい」のスタンプをそっと送った。



詩音がスクロールを止め、もう一度お気に入りの写真を眺めていると――

隣のメイは、いつの間にかスースーと静かな寝息を立てていた。


「……そっか。今日はずっと運転してくれてたもんね」


小さく微笑み、詩音はメイの顔にかかっていた寝袋の端をそっと直す。


「おやすみ、メイちゃん」


ぽつりと囁くと、ランタンの灯りを指先で押し消した。


ふっと闇が降りてきて、テントの中はしんとした静けさに包まれる。

穏やかな風に運ばれる木立のざわめきが、かすかに耳へ届く。

詩音は寝袋にしっかり潜り込みながら、そっと息を吐いた。


外気は氷点の近くまで冷え込んでいる。

それなのに、テントの中はふたりの寝息が重なるように、どこかあたたかかった。


こうして、麓高原キャンプの一日は静かに幕を閉じた。



ここまで読んでくださってありがとうございます!

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