第109話 鍋と焚き火がつなぐ夜 〜デュオキャン Ⅶ〜
——夜は、まだこれからだった。
ししゃもを食べ終え、甘いサワーの缶が半分ほど空になったころ。
焚き火の炎は少し落ち着き、炭の赤い光がゆらゆらと揺れている。魚の香ばしい匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
「鍋もやっちゃおうよ」
「うん、準備しようか」
メイはタープ下の大きなテーブルに卓上コンロを出し、カチッと位置を整える。
詩音はクーラーバッグから次々に食材を取り出し、ミニテーブルの上に並べていく。
カット野菜の袋、キムチ、魚河岸揚げ、牛モツのパック……
夜の食卓が少しずつ形になっていく。
そして——
詩音が大きなトートバッグをごそごそ探り、両手で取り出したのは、しっかりした土鍋。
「ジャジャーン! 今日のスペシャルゲスト、土鍋ちゃんでーす!」
満面の笑みでそう宣言し、コンロの中央に土鍋をそっと置く。
コンッ、と陶器が金属の上で鳴る小さな音。詩音は愛おしそうに蓋をポン、と叩いた。
「メイちゃん、牛モツの下処理用にお湯沸かしてくれる?」
「クッカーでいいよね」
メイはペットボトルの水をクッカーに注ぎ、シングルバーナーの上へ。
火を点けると、青白い炎がクッカーの底を淡く照らした。
「じゃあ、こっちも火にかけるね」
詩音はストレートタイプのキムチ鍋つゆを土鍋へ注ぐ。
赤みがかったスープがゆらりと揺れ、コンロの火が底から照らし出す。
「寒いから少し辛めにするけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫。かなり冷えてきたしね」
詩音はコチュジャンとにんにくチューブを加え、菜箸でくるくる。
湯気と一緒に、ピリッとした香りがふわりと広がった。
「あとは沸騰待ちかな〜」
「ねえ、詩音。この牛モツさ、下処理済みって書いてあるけど」
「それでも臭み出ちゃうかもだから、もう一回湯通ししとこ。そっちの方が脂っこくならないんだよ」
「ほえ〜、そうなんだ」
「メイちゃん、あまり料理しないんだよね」
「あはは、レンチンばっかりだから」
「じゃあ今日は私が鍋奉行ね」
「はいはい、お奉行様」
コポコポと、クッカーのお湯が沸き始める。
「メイちゃん、牛モツ、湯通ししてくれる?」
「オッケー!」
「いや、そこはカビラでしょ!」
「はいはい、カビラ〜」
メイはモツのパックを開けて投入。
「さっとでいいからね! ザルはそこ!」
詩音はニラをトントン切りそろえ、まな板の上に鮮やかな緑の小山ができていく。
「ニラ、準備完了でーす!」
土鍋からは、ぐつぐつと泡の音。
蓋を開けると、赤いスープの表面に小さな油玉がキラリと浮かんでいる。
「うーん、いい感じ」
詩音はカット野菜の袋を手にしながら、きょろきょろ。
「メイちゃん、モツはどこ?」
クッカーの中でぐらぐら煮立つ牛モツを、膝を抱えてじっと眺めているメイ。
「ちょ、ちょっと待って! それ……!」
「え、なに?」
「旨み全部、お湯に引っ越ししちゃってるから!」
「……じゃあ、このお湯も鍋に入れればセーフ?」
「それはそれで違う!!」
ザルにあけると、モツはひと回り小さくなっていた。
「ちょっと縮んじゃったけど、まあいいか……」
そう言った途端、メイがカット野菜をドサッと全部土鍋へ。
「うわー! メイちゃん全部入れちゃったよ!」
「え? 野菜、焼くやつだっけ?」
「違うって、火の通り方とかあるから……ま、いっか」
詩音がモツを鍋に入れると、キムチとにんにくの香りが一気に立ちのぼる。
魚河岸揚げを見つけたメイが、なぜか焚き火の網の方へ歩いていく。
「え? メイちゃん、それ、どこ持ってくの?」
「ちょっとカリッとさせたら……」
「そういう料理じゃないから!!」
詩音があわててパックを回収し、そのまま魚河岸揚げと追いキムチを土鍋に投入。
スープがさらに赤く染まり、ことこと音を立てる。
「アク、とるね」
メイはお玉を手に取り、ガバーッとスープごとすくった。
「待ってーー! スープなくなるから! これ使って!」
詩音がアク取りを渡す。
「これ、便利だね〜」
メイはニコニコしながら、灰色の泡だけを上手にすくい取っていく。
「ふぅ〜……油断も隙もありゃしないわ」
詩音はニラを鍋に入れ、ごま油をひと回し。
ふわっと香ばしい匂いが立ちのぼった。
「うどん、入れちゃう?」
「いや、それ〆だから!!」
そんなドタバタを挟みつつも——
何とか鍋が出来上がった。
「牛モツキムチ鍋、完成でーーす!」
詩音が高らかに宣言する。
赤いスープの中、ぷりっとしたモツ、鮮やかなニラ、ふっくらした魚河岸揚げが、きれいなバランスで浮かんでいた。
詩音がちょっと味見して「案外いけるわ」。
「うん、いい感じ」とメイ。
「結果オーライだね、私たちの料理って」
タープの下、土鍋ののったテーブルを挟んで、ローチェアを並べ直す二人。
詩音がぐつぐつ煮立つ鍋をお玉ですくい、紙ボウルに取り分けていく。
赤く染まったスープの中に、ぷりっぷりのモツ、ニラ、魚河岸揚げ。
夜風に乗って、にんにくとキムチの香りがふわりと漂った。
メイが自分のボウルを覗き込み、小さくつぶやく。
「わぁ……お店のやつみたい」
「いただきまーす!」
メイは勢いよく箸を伸ばし、モツをぱくり。
「んっ……あっつ、あっつ!」
「だから気をつけてって言ったのに!」
「辛っ……でもこれ、めっちゃ美味しい!」
詩音も一口すすって、「うん、コチュジャン効いてるね。体ぽっかぽかになるやつ」
魚河岸揚げを噛んだ瞬間、熱々のスープがじゅわっと溢れる。
「熱っ! ……けど、うまっ!」
メイはほっぺをふくらませて、口を半開きにしながらハフハフ。
それでも、目だけは幸せそうに笑っていた。
「それ、口の中やけどコースだよ」
「……鍋あるあるだぁ〜」
シャキッとしたニラの食感に、メイが「これ正解だね〜」と頷く。
「ほら、汗出てきたでしょ?」
「ほんとだ……暑い!」
メイは首元をパタパタさせ、ついにダウンを脱ぎ捨てた。
「外は寒いのに、鍋パワー恐るべし」
「詩音も脱げば?」
「いや私、暑いけどまだいける」
「鍋奉行の意地だね」
湯気の向こうで、二人の笑い声が焚き火と混ざって夜に溶けていく。
モツも野菜もほとんどなくなった土鍋。
詩音がクーラーパックからソフト麺のうどんを取り出した。
「やっぱ〆はうどんだよね」
「さすがにお腹いっぱいかな……」
「え〜! じゃあ、やめる?」
「……食べたい」
メイは小さく、でもはっきり笑った。
「だよね〜! じゃあ一玉を半分こね!」
袋から出したうどんをそっと鍋に沈める。
ぐつぐつ煮えたうどんを、ふたりで分けながら、ふーふー冷まして食べる。
「ん〜、染みる!」
「これはこれで別腹かも」
夢中でうどんをすすっているうちに、詩音はふと気づく。
「……あれ? 焚き火、消えてない?」
「え、ホントに?」
メイが慌てて振り返ると、焚き火台には赤い炭がわずかに残るだけだった。
「完全に鍋に集中しすぎたね」
「あとでもう一回、火を起こそっか」
きれいに空になった土鍋。
「ごちそうさまでした〜」
ふたりの声が重なる。
「もう、お腹いっぱいだよ〜」
「でも、美味しかったね〜」
土鍋の湯気は消え、代わりに二人の口から白い息がほわっとこぼれる。
時刻は夜7時半。気温5度。
鍋で火照った二人の笑い声が、冷えた夜気に溶けていった。
◇◇◇
炎が消えかけた焚き火台の前。
メイが並べ直した薪の下に、着火剤をそっと置いて火を入れる。
ボワッと小さな炎が立ち上がり、夜気を押し返すように細い薪へ移っていく。
パチパチと小さな音を立てながら、炎はゆっくりと育っていった。
「コーヒー淹れてきたよ。あと、マシュマロも〜」
マグカップを二つと、マシュマロの袋を小脇に抱えて、詩音がメイの隣のローチェアに腰を下ろす。
「ありがとう」
メイはマグを両手で包み込み、ほっと息をついた。
コーヒーの香りが、冷えた夜空にやわらかく広がる。
「焚き火、学習の成果出たね」
「うん、一発点火だったよ」
メイはニコリと笑い、火ばさみで薪を少し動かす。炎がぱっと形を変えた。
詩音がマシュマロを割り箸に刺し、一本をメイに渡す。
ふたり並んで、マシュマロを炎にかざす。
甘い香りが、ふわりと漂った。
「これ、やりたかったんだよ〜」
「私も」
くるくる回していた詩音のマシュマロが、ポトリと焚き火に落ちる。
「あー!!」
「詩音、回しすぎだよ……」
そう言っている間に、メイのマシュマロがボッと燃え上がる。
「あー!!」
慌ててふぅーっと息を吹きかけ、火を消す。
「ふふっ、近すぎたね」
笑いながら、詩音は新しいマシュマロを刺し直す。
念願の、焚き火で焼きマシュマロ。
少し焦げた表面を割ると、中から白くとろけたマシュマロが顔を出す。
「でも、美味しい……」
詩音もパクリと頬張り、熱さに目を細めた。
「あつっ……でも、うん、美味しい」
ふと目が合い、ふたりクスッと笑う。
甘さと焚き火のぬくもりが、じんわりと胸の奥に広がっていった。
パチ、パチ……と薪のはぜる音。
揺れる橙の明かりが、ふたりの輪郭をやわらかく照らしては、また闇に溶けていく。
吸い込まれそうなやさしい炎は、胸の奥に沈んでいた小さな記憶を、そっと浮かび上がらせるようだった。
メイがぽつりと言う。
「詩音さぁ……初めて会ったときのこと、覚えてる?」
「え、うん……ラフォーレだったよね?」
「違うよ、もっと前。葛城書店で……」
「チッ、覚えてたかぁ」
詩音は苦笑しながら薪をコロリと転がす。
火の粉がふわっと夜空に舞った。
「あの時さ、ラフォーレのコラボの話聞いて、『どんな店長さんなんだろう』って見に行ったら、メイちゃんに不審者扱いされて……」
「不審者って自己申告したのは詩音だよ」
「あれ? そうだったっけ?」
メイは笑いながら首を振る。
「でも、その前にも会ってるんだよ」
「え? いつ?」
「葛城書店で自転車倒してたでしょ。ドミノみたいに」
詩音がカチンと固まる。
「……え? ……あ! 思い出した! 遠くでじーっと見てた子、いた! あれ、メイちゃんだったの!?」
「うん、私。だから不審者のときは二回目」
「うわー……黒歴史まるわかりじゃん」
ふたりの笑い声に、焚き火の音が重なる。
「でも、ちゃんと話したのはラフォーレだったよね。いきなり来て、こけて、資料ぶちまけたとき」
「うわ、やめて。黒歴史掘らないで」
「『すごいドジっ子が副主任なんだ……』って、ちょっと心配になったよ」
「私も心配だったよ」
メイは炎越しに詩音を見て、少しだけ声のトーンを落とす。
「でもね、詩音見ててわかったんだ。なんで副主任に選ばれたのかって」
焚き火がぱち、と小さく弾ける。
一呼吸置いて、メイが言葉を続ける。
「……詩音はさ、人を惹きつけるチカラがすごいんだよ」
炎の赤が瞳に映り、やわらかく揺れる。
「詩音の周りには、いつの間にか人の輪ができてる」
詩音の口元が、少しだけ緩む。
「おー、褒められた」
「それに——思ったより仕事できるし」
「思ったよりは余計だにー!」
そう言いながらも、その頬はほんのり赤かった。
炎が少し落ち着き、静かな間が訪れる。
「そういえばさ、森のうたうきつね展の準備してたとき——」
詩音が薪をコロッと転がすと、炎がふっと形を変えた。
「ふたりで作業してたときね、『なんか合うな〜』って、ピピっときたんだよ」
メイはしばらく黙って炎を見つめ、ゆっくり頷く。
「……私も、そんな感じしてたなぁ」
夜風がふたりのあいだを静かに通り抜け、焚き火の赤がゆらめく。
「詩音と会って、もうどのくらい?」
「ラフォーレの顔合わせが7月だったよね?」
「じゃあ、まだ4ヶ月なんだ……早いような、長いような」
「私はなんか、ずーっと前から知ってた気がする」
「でもさ、こうして詩音と一緒にキャンプ来るなんて、思わなかったなぁ」
「私も。キャンプ自体よく分かんなかったし。メイちゃんにゆるキャン勧められるまでは」
「そっか、それからだもんね、『富士山ドーン!』って言い出したの」
「そーだよ。責任取ってもらいましょうか」
「だからこうして二人で来てるし」
「おお、一本取られましたな、旦那」
「だれ、それ?」
ふたりはまた笑い、薪を軽く動かす。炎がふっと形を変えた。
「私もね、友達にゆるキャン勧められたんだよ」
「そうだったんだぁ」
「うん。それまでは、焚き火の動画見て『いいなぁ』って思うくらいで。
でも、ゆるキャン見て、『もしかして私にもできるかも』って思っちゃった」
「わかるなー、それ。見るとキャンプ行きたくなるもんね」
明日は、その“ゆるキャン聖地巡礼ドライブ”。
ふたりの会話は自然と、明日のコースの話で盛り上がっていく。
ふわっと、メイがあくびをした。
「メイちゃん、朝早くから運転だったもんね」
時刻は夜9時を少し回ったところ。
温度計は3度を指し、吐く息は一段と白さを増していた。
「かなり寒くなってきたし……」
「湯たんぽ作って休もうか」
「歯磨きもしなきゃね」
焚き火の炎は、ぱち……ぱち……と小さな音を立てながら、ゆっくりと赤い炭火へと変わっていく。
夜は静かに——
ふたりの“はじめてのキャンプの夜”を包み込みながら、更けていった。
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