眠れぬ夜に、再び
それから、数週間が経った。
季節はゆっくりと移ろいながら、王都にも春の華やかさが色濃くなってきていた。
花が咲き、空気がやわらぎ、鳥たちがにぎやかにさえずる日々。
けれど、私の胸の奥は、ずっと重いままだった。
――ついに、明日。
アーノルド殿下の誕生祝いの場で、正式に婚約が発表される。
それは、決められていたこと。
生まれた時から、当たり前のように用意されていた未来。
なのに、いざその瞬間が迫ってきた今、私は……どうしようもなく、こわかった。
(本当に……私は、このまま王太子妃になるんだ)
不安とも、絶望ともつかない感情が胸の奥を埋め尽くしていく。
そんな日々の中で――リアムは、一度も姿を見せなかった。
あの朝、「しばらく姿見せねぇ」と言い残して去って以来、
彼は本当に、私の前から姿を消した。
でも。
(……消えたはず、なのに)
契約の証――左手の甲にある印は、たまにひどく疼いた。
夜の静けさの中で、じんわりと熱を持つように。
けれど、それも長くは続かない。
不思議と、しばらくすると痛みは自然に引いていった。
(あれは、リアムが……)
ふと、そんな風に思ってしまう自分がいる。
彼がどこかで気づいて、魔法で痛みを鎮めてくれていたのでは――と。
(……そんなこと、あるはずないのに)
勝手な想像だ。
でも、それを否定するには、心がほんの少しだけ温かすぎた。
そんなことを思いながら、私は窓辺からゆっくりと振り返る。
すると、ちょうどそのとき――控えめなノックの音が響いた。
「失礼します、お嬢様。今日こそ、本当に最後の確認ですからね?」
ロージーが入ってくるなり、腕にかけたドレスをひらりと見せてきた。
その笑顔は、どこか意地悪そうで、でもあったかい。
「……ねえ、それ毎日言ってない?」
「言ってます。だって毎日、気になるところが出てくるんですもん。明日だってのに、ほんと困ったお嬢様ですね」
「ちょっと! 私のせい!?」
「当たり前じゃないですか」
ロージーはふふっと笑って、テーブルに小物を並べ始めた。
「髪型もアクセサリーも、あとはバランス見るだけ。あーもう、可愛くなりすぎたら殿下が困るかも」
「また適当なこと言って……」
「本気ですけど? この顔、王都じゃ五指に入るレベルですからね?」
「誰調べよ、それ……」
二人でくすくす笑い合いながら、自然と空気がやわらいでいく。
まるで、本当の姉妹みたいに。
そして――だからこそ、私はロージーにだけは、心配をかけたくなかった。
けれど。
髪飾りを選んでいたロージーの手が、ふと止まる。
「……怖いんですか?」
「え……?」
私は思わず、鏡越しに彼女を見た。
ロージーは笑ってもいなかったし、怒ってもいなかった。
ただ、じっと――私の目を見ていた。
「殿下とのこと。明日のこと。……未来のこと」
その言葉は、まるで全部、見透かしてるみたいだった。
「……ちょっとだけ、ね」
私は小さく答えると、視線を鏡の外にそらした。
手の甲に、そっと視線を落とす。
(……契約の印。もう痛まないけど、まだ……何かが残ってる)
「私……このまま、王太子妃になっていいのかなって、時々思うの。
私が選ばれた理由も、ちゃんとわかってないし……」
ぽつぽつと、こぼれるように言葉が出た。
それをロージーは、決して途中で遮らなかった。
やがて、そっと私の背中に手を添える。
「でもお嬢様は、お嬢様ですよ」
「……え?」
「誰に選ばれようと、誰に何を言われようと。
スフィア・フォレスターは、ちゃんと自分の足で立ってる。……私は、そう思ってます」
その言葉は、まるでお守りみたいに胸に落ちてきた。
「……ありがとう、ロージー」
「ふふっ。あとでお礼はお菓子でいいですよ?」
「はいはい。チョコ派だったっけ?」
「正解!」
いつもの調子に戻った彼女に、私もつられて小さく笑った。
* * *
その夜。明日を控えた私は、いつもより早めにベッドへと入っていた。
昼間の支度も無事に終え、ロージーにも背中を押してもらって――
本当は、安心して眠れるはずだった。
けれど、目を閉じてもしばらくは眠気が訪れなかった。
(……どうして、こんなに落ち着かないんだろう)
月明かりの差す静かな部屋。
何も変わらないはずなのに、胸の奥でざわざわと小さな波が立っている。
何度も寝返りを打って、ようやくまぶたが重くなってきた……そのときだった。
「……っ」
左手の甲に、突然じくりとした熱が走る。
(また……)
契約の印――ここしばらくは疼くことがあってもすぐに治まっていたのに、
今夜に限って、その痛みはどんどん強まっていく。
熱をもって、皮膚の内側からじんじんと響く。
私は布団を握りしめ、唇を噛みながら堪えた。
(なに、これ……いつもより……)
ただの疼きじゃない。
まるで、“何か”がこちらに触れてきているような――そんな感覚。
息が詰まりそうになるほどの痛みに、思わず起き上がろうとしたその瞬間。
――空気が、ふっと揺れた。
(……え?)
誰かが、ここにいる。
そう確信させられるほど、はっきりとした“気配”。
私は、ぎゅっと自分の胸元を押さえながら、そっと辺りを見回した。
窓は閉じている。扉も鍵をかけてあったはず。
けれど――確かに、いる。
月明かりの中、薄いカーテンが音もなく揺れる。
(……リアム?)
名前を呼びかけそうになった唇を、私は強く噛んで止めた。
夜の静けさの中で、私はその気配に目を凝らした。
そして――その気配は、あまりにも自然に、そこにいた。
「……何やってんだ、お前」
低くて少しだけ呆れたような声が、静寂を破る。
漆黒の髪とサファイアの瞳――間違いない、リアムだ。
「……リアム……」
「ったく、契約した相手がここまでウジウジしてると、こっちまで気分悪くなるんだよ」
呆れたように言いながら、彼はゆっくりと歩いてきて、
窓辺の椅子に勝手に腰を下ろす。
「……え?」
「お前の感情、こっちにも少しは流れ込んでくるって言ったよな。
で、今夜は特にひどかった。……我慢してやろうと思ったけど、無理だった」
リアムはため息をつきながら、手をひらひらと振った。
「まったく、こんなに贅沢でいい生活してて、何が不満なんだか。
俺だったら喜んで王太子妃になるね。……ま、アイツの妻ってのは願い下げだけど」
「……アーノルド殿下と……知り合い、なんですか?」
その言葉が自然と口から出ていた。
驚きと、ほんの少しの警戒――そして、どこかにあった期待。
けれど、リアムは即座に肩をすくめて、気だるそうに言った。
「一応、昔ちょっと関わってた。名前も顔も、まあ覚えてる。
でもな、“ああいう綺麗事の塊”みたいな奴は、今でも虫酸が走る。
光ばっかり見て、影の中身は見ようとしねぇんだ、アイツは」
その口調は、どこか過去を切り捨てるようでいて――ほんの少しだけ、寂しげだった。
そして、ふっと鼻で笑う。
「でも、そういうのが好かれるんだろ?
王子様ってやつは、いつの時代もな」
「……いつの時代も?」
ぽつりと呟いてから、私はふと疑問に思って口を開いた。
「リアムって……二十歳くらいじゃないんですか?」
その瞬間、彼の眉がぴくりと動いた。
まるで「本気か……?」とでも言いたげな目で、私をまじまじと見てくる。
「……やっぱり抜けてんな、お前。
俺が“魔法使い”だって話、忘れたのか?」
「えっ……あっ……」
言われて初めて、自分の発言がどれだけ無自覚だったかに気づく。
「見た目で判断すんな。俺はこれでも――五百年以上は生きてる」
「ご、ひゃく……!?」
思わず目を見開いた私に、リアムは小さく肩をすくめた。
「魔法使いってのは、長生きだからな。
いい意味でも、悪い意味でも……老いるのは遅い」
それは、淡々とした口ぶりだった。
けれど、その言葉の奥には――どこか、乾いた空気が滲んでいた。
「……生きる時間が長いほど、どうでもいいことばっかり増える。
大抵のことは飽きるし、忘れたいもんだけが……残ってく」
その声は静かに、夜の空気に溶けていった。
私は、何も言えなかった。
ただ、そっとリアムを見つめる。
彼はそれに気づいたのか、少しだけ目をそらして、
そして――ふいに、薄く笑った。
「……何黙ってんだ。
まあ、お前は精々、短い人生を足掻くんだな。俺には関係ないけど」
言い捨てるようなその声音は、どこか慌ただしくて。
リアムはそのまま窓辺に向かい、
月明かりの中、ひと吹きの風と共にその姿を消した。
残された部屋には、また静寂だけが戻ってきていた。
私は、左手の甲にそっと視線を落とす。
契約の印は、いつの間にか疼きを収めていた。
痛みも熱も、もうどこにもない。
そっと指先でなぞる。
冷たくも熱くもないその感触は、でも――なぜか、やさしかった。
(……不思議。あんなに冷たいことばかり言うのに)
ほんの少しだけ、心が軽くなっていた。
口には出せないけれど、胸の奥では確かにわかっていた。リアムのおかげ――きっと、それだけ。
誰に聞かせるわけでもない言葉を、そっと胸の中で呟いた。