令嬢と魔法使いの本当の始まり
朝の光が、うっすらとカーテン越しに差し込んでいた。
鳥のさえずりと、遠くで聞こえる使用人たちの足音。それらに混じって、どこか現実味のない夢の続きのような気配が、胸の奥に残っている。
私はゆっくりとまぶたを開けた。
「……リアム」
思わず、その名を口にしていた。
けれどそれは、自分の声なのにどこか遠く聞こえた。
手の甲を見る。
あれほど疼いていた“契約の印”は、今はもうすっかり馴染んでいて、赤みもない。
ただそこに――まるで最初から在ったかのように、静かに存在していた。
(……夢じゃ、なかったんだ)
私は軽くため息をついて、ベッドから身を起こした。
窓の外には、朝の陽射しがきらきらと差し込んでいる。
静かな朝。まるで昨夜の出来事がなかったかのような、いつも通りの世界。
だけど、私の中だけが、少しだけ変わってしまっていた。
そんなことを考えながら、私はゆっくりとベルを鳴らした。
間もなく扉がノックされ、いつも通りの笑顔と共にロージーが現れる。
「おはようございます、お嬢様。昨日はお疲れだったでしょう? お顔が少し……」
「え、そうかな? たぶん気のせいだよ」
笑って返したけれど、ロージーはじっと私の顔を見つめていた。
「何か、隠していませんか?」
「え?」
「いえ……なんとなく、です。でも、お嬢様って、すぐに顔に出る方ですから」
「そ、そんなことないと思うけど……」
思わず視線を逸らした私に、ロージーはふふっと笑う。
「何か困ったことがあれば、言ってくださいね。黙ってるの、つらくなりますから」
その言葉に、少しだけ胸がちくりとした。
(……言えないことがあるって、こんなに落ち着かないんだ)
ロージーには、何もかも話したくなってしまう。
でも今はまだ――話せない。
「ありがとう、ロージー。でも大丈夫。……たぶん」
笑顔を作ってそう言うと、ロージーはそれ以上は聞かずに、静かに頷いた。
身支度を終えてダイニングに入ると、すでに家族が朝食の席についていた。
「おはよう、スフィア」
最初にそう声をかけてきたのは父だった。いつも通りの落ち着いた笑顔で、私を迎えてくれる。
「昨日はアーノルド殿下と夕食だったらしいな。どうだった?」
続いて穏やかに問いかけてきたのは、長兄のアレクシス。彼らしい静かな気遣いが、心に静かに染みこんでいく。
「スフィア、遅いぞ〜! ご飯、冷める前に来なきゃダメじゃん!」
さらに、にこにこと笑いながら軽口を叩くのは次兄のエミル。相変わらず朝から元気だ。
父と母、そしてアレクシスとエミル――いつもと変わらない朝の光景。
温かくて、少しにぎやかで、それなのに私はほんの少しだけ居心地の悪さを覚えていた。
「……楽しかったよ。殿下はとてもお優しい方だし」
私はそう答えて、笑った。
嘘ではない。でも、胸の奥には、霞のような重さが残っていた。
母が嬉しそうに手を打つ。
「まあ、それは良かったわ! そうそう、誕生祝いの場で婚約発表をするって話、もう聞いてる?」
「……うん。昨日、殿下から教えてもらった」
「さすが殿下。段取りも完璧だな」
アレクシスがカップを置きながら、静かにうなずく。
「スフィアも、ちゃんとドレス選びしておかないとな!」
エミルはパンにジャムを塗りながら、笑ってそう言った。
家族は皆、純粋に喜んでくれていた。
それが分かるからこそ、私は余計に、黙って笑っていることしかできなかった。
(……私だけが、心から喜べていないなんて)
誰も悪くないのに。
私のこの気持ちが、誰にも知られませんように――
そう願いながら、私は手の甲をそっと撫でた。
朝食を終えて自室へ戻ると、見慣れた空間に、なぜかまったく見慣れない姿がひとつ。
――リアムさんが、ソファでくつろいでいた。
「…………え?」
ドアを閉めかけた私の手が止まる。
彼は脚を組んで、まるでここが自分の部屋であるかのような顔で紅茶を啜っていた。
どこから持ってきたのか、湯気までちゃんと立っている。
「……あんまり驚かないな。案外すぐ慣れるかもな、お前」
くつろいだ様子でカップを置きながら、リアムさんがぼそりと呟いた。
「……何してるんですか?」
「聞き忘れたことがあってな。ついでに、茶も淹れてみた」
「……誰の部屋だと思ってるんですか?」
「だから、今は俺が話してんだろ。話くらい聞け」
私が言い返す前に、彼はごく当たり前のように話し始める。
「お前にかけられてる呪い――かけた相手に、心当たりはあるか?」
唐突な問いだった。
けれど、それは確かに、避けて通れない話だった。
「……ないです。思い当たる人も、恨まれるようなことをした覚えも……」
「そうか」
リアムさんの視線は、まっすぐ私を見据えたまま、微かに鋭さを帯びる。
「でも、少なくとも“理由”はある。呪いってのは、たいてい“動機”ありきだ。
お前の存在が気に入らない、目障り、消えてほしい――そういう感情が根にある」
「…………」
私は、目を伏せた。
「魔力が……ないのに、公爵家の娘で……」
声が自然と小さくなる。喉に何かが引っかかるような感じがして、言葉がうまく出てこなかった。
「王太子妃候補に選ばれて……それを、よく思っていない人は……きっと、たくさんいます」
私の言葉に、部屋の空気がふっと沈んだ気がした。
けれど、彼はあくまで無表情のまま、ふん、と短く鼻を鳴らす。
「……そういうの、あんまり真に受けない方がいいぞ」
「え……?」
顔を上げた私に向けて、彼はわずかに肩をすくめて言った。
「“可哀想な私”みたいな顔してるけど、魔力がなくても妃候補に選ばれてる時点で、お前にそれ以上の何かがあるんだろ。
それでも文句言われるなんて、ただの妬みか、政治のゴタゴタだろ」
「…………」
何も言い返せなかった。
それが正論だって、どこかでわかっているから。
でも、だからといって――心が痛まないわけじゃなかった。
「お前の呪いの出どころがそっち絡みなら……ますます面倒だな」
リアムさんはそう言って立ち上がると、特に名残惜しそうな様子もなく、軽く伸びをした。
「とりあえず、もう少し調べる必要があるな。
お前が無事なうちは、俺の命も保証されるしな」
その言い方はあまりに軽くて、私の不安も痛みも、ただの“副作用”みたいに聞こえた。
(……この人は、私のことをなんとも思ってない)
だけど――なぜか、それがほんの少しだけ、胸の奥で寂しく響いた。
リアムさんは軽くあくびをしながら、部屋の窓辺へと向かう。
「……そろそろ帰る。誰かに気づかれたら、面倒だからな」
そう言って背を向けた彼の姿に、私はなぜか咄嗟に声をかけていた。
「……あのっ、リアムさん――」
ぴたり、と彼の足が止まる。
次の瞬間、彼はわずかに肩を震わせて振り返った。
「……“さん”付け、やめろ。鬱陶しい」
「え……?」
「……そういうの、好きじゃない。馴れ馴れしいよりタチが悪い」
冷たい声が、乾いた空気に落ちる。
「……ご、ごめんなさい」
思わず、反射的に謝ってしまった。
けれどその瞬間――リアムさんの表情が、ほんのわずかに歪んだ。
「……そういうのだよ」
「え……?」
「自分が謝れば済むとか、我慢すれば丸く収まるとか――
そういう顔されるの、イライラする」
その声には、はっきりとした苛立ちがあった。
けれど、それが私に向けられたものなのか、それとも――
「……もういい。しばらく姿見せねぇ」
そう言い捨てかけた彼は、ふとこちらに視線だけを向けた。
「……まあ、死なないように気をつけろよ。契約してんだから、巻き込まれたら面倒だ」
それは心配とも警告ともつかない、ひどくぶっきらぼうな言い方だった。
けれど――ほんの少しだけ、その声の奥に“本心”が滲んでいるような気がした。
風がひとつ吹き。
次の瞬間、リアムさんの姿はもう、そこにはなかった。
残された部屋には、ほんの少しだけ冷たい空気が残っている。
私はそっと、左手の甲に視線を落とした。
そこには――何事もなかったかのように、契約の印が静かに浮かんでいた。
そっと指先でなぞる。
もう痛みはない。けれど、この印は確かに“繋がり”の証だった。
(……面倒だって、言ってたのに)
彼は、呪いの話をして、助けられると言って、契約までしてくれた。
(それでも、私を見捨てなかった)
どうしてなのかは、わからない。
でも、どこかで――その理由を、ちゃんと知りたいと思ってしまった。
「……リアム」
名前を、心の中でそっと呼んだ。
それだけで、胸の奥にほんのり温かいものが残る。
窓の外には、風に揺れる朝の光。
小さな誓いは、静かに、確かに、そこに息づいていた。
これが、私とリアムの本当の始まりだった――。