表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/18

令嬢と魔法使いの本当の始まり

 


 朝の光が、うっすらとカーテン越しに差し込んでいた。

 鳥のさえずりと、遠くで聞こえる使用人たちの足音。それらに混じって、どこか現実味のない夢の続きのような気配が、胸の奥に残っている。


 私はゆっくりとまぶたを開けた。



「……リアム」


 思わず、その名を口にしていた。

 けれどそれは、自分の声なのにどこか遠く聞こえた。


 手の甲を見る。

 あれほど疼いていた“契約の印”は、今はもうすっかり馴染んでいて、赤みもない。

 ただそこに――まるで最初から在ったかのように、静かに存在していた。



(……夢じゃ、なかったんだ)


 私は軽くため息をついて、ベッドから身を起こした。


 窓の外には、朝の陽射しがきらきらと差し込んでいる。

 静かな朝。まるで昨夜の出来事がなかったかのような、いつも通りの世界。


 だけど、私の中だけが、少しだけ変わってしまっていた。



 そんなことを考えながら、私はゆっくりとベルを鳴らした。


 間もなく扉がノックされ、いつも通りの笑顔と共にロージーが現れる。


「おはようございます、お嬢様。昨日はお疲れだったでしょう? お顔が少し……」


「え、そうかな? たぶん気のせいだよ」


 笑って返したけれど、ロージーはじっと私の顔を見つめていた。


「何か、隠していませんか?」


「え?」


「いえ……なんとなく、です。でも、お嬢様って、すぐに顔に出る方ですから」


「そ、そんなことないと思うけど……」


 思わず視線を逸らした私に、ロージーはふふっと笑う。


「何か困ったことがあれば、言ってくださいね。黙ってるの、つらくなりますから」


 その言葉に、少しだけ胸がちくりとした。


(……言えないことがあるって、こんなに落ち着かないんだ)


 ロージーには、何もかも話したくなってしまう。

 でも今はまだ――話せない。


「ありがとう、ロージー。でも大丈夫。……たぶん」


 笑顔を作ってそう言うと、ロージーはそれ以上は聞かずに、静かに頷いた。




 身支度を終えてダイニングに入ると、すでに家族が朝食の席についていた。


「おはよう、スフィア」


 最初にそう声をかけてきたのは父だった。いつも通りの落ち着いた笑顔で、私を迎えてくれる。


「昨日はアーノルド殿下と夕食だったらしいな。どうだった?」


 続いて穏やかに問いかけてきたのは、長兄のアレクシス。彼らしい静かな気遣いが、心に静かに染みこんでいく。


「スフィア、遅いぞ〜! ご飯、冷める前に来なきゃダメじゃん!」


 さらに、にこにこと笑いながら軽口を叩くのは次兄のエミル。相変わらず朝から元気だ。


 父と母、そしてアレクシスとエミル――いつもと変わらない朝の光景。

 温かくて、少しにぎやかで、それなのに私はほんの少しだけ居心地の悪さを覚えていた。


「……楽しかったよ。殿下はとてもお優しい方だし」


 私はそう答えて、笑った。

 嘘ではない。でも、胸の奥には、霞のような重さが残っていた。


 母が嬉しそうに手を打つ。


「まあ、それは良かったわ! そうそう、誕生祝いの場で婚約発表をするって話、もう聞いてる?」


「……うん。昨日、殿下から教えてもらった」


「さすが殿下。段取りも完璧だな」


 アレクシスがカップを置きながら、静かにうなずく。


「スフィアも、ちゃんとドレス選びしておかないとな!」


 エミルはパンにジャムを塗りながら、笑ってそう言った。


 家族は皆、純粋に喜んでくれていた。

 それが分かるからこそ、私は余計に、黙って笑っていることしかできなかった。


(……私だけが、心から喜べていないなんて)


 誰も悪くないのに。

 私のこの気持ちが、誰にも知られませんように――

 そう願いながら、私は手の甲をそっと撫でた。



 朝食を終えて自室へ戻ると、見慣れた空間に、なぜかまったく見慣れない姿がひとつ。


 ――リアムさんが、ソファでくつろいでいた。



「…………え?」


 ドアを閉めかけた私の手が止まる。


 彼は脚を組んで、まるでここが自分の部屋であるかのような顔で紅茶を啜っていた。

 どこから持ってきたのか、湯気までちゃんと立っている。


「……あんまり驚かないな。案外すぐ慣れるかもな、お前」


 くつろいだ様子でカップを置きながら、リアムさんがぼそりと呟いた。


「……何してるんですか?」


「聞き忘れたことがあってな。ついでに、茶も淹れてみた」


「……誰の部屋だと思ってるんですか?」


「だから、今は俺が話してんだろ。話くらい聞け」


 私が言い返す前に、彼はごく当たり前のように話し始める。


「お前にかけられてる呪い――かけた相手に、心当たりはあるか?」


 唐突な問いだった。

 けれど、それは確かに、避けて通れない話だった。


「……ないです。思い当たる人も、恨まれるようなことをした覚えも……」


「そうか」


 リアムさんの視線は、まっすぐ私を見据えたまま、微かに鋭さを帯びる。


「でも、少なくとも“理由”はある。呪いってのは、たいてい“動機”ありきだ。

 お前の存在が気に入らない、目障り、消えてほしい――そういう感情が根にある」


「…………」


 私は、目を伏せた。


「魔力が……ないのに、公爵家の娘で……」


 声が自然と小さくなる。喉に何かが引っかかるような感じがして、言葉がうまく出てこなかった。


「王太子妃候補に選ばれて……それを、よく思っていない人は……きっと、たくさんいます」


 私の言葉に、部屋の空気がふっと沈んだ気がした。


 けれど、彼はあくまで無表情のまま、ふん、と短く鼻を鳴らす。


「……そういうの、あんまり真に受けない方がいいぞ」


「え……?」


 顔を上げた私に向けて、彼はわずかに肩をすくめて言った。


「“可哀想な私”みたいな顔してるけど、魔力がなくても妃候補に選ばれてる時点で、お前にそれ以上の何かがあるんだろ。

 それでも文句言われるなんて、ただの妬みか、政治のゴタゴタだろ」


「…………」


 何も言い返せなかった。

 それが正論だって、どこかでわかっているから。


 でも、だからといって――心が痛まないわけじゃなかった。


「お前の呪いの出どころがそっち絡みなら……ますます面倒だな」


 リアムさんはそう言って立ち上がると、特に名残惜しそうな様子もなく、軽く伸びをした。


「とりあえず、もう少し調べる必要があるな。

 お前が無事なうちは、俺の命も保証されるしな」


 その言い方はあまりに軽くて、私の不安も痛みも、ただの“副作用”みたいに聞こえた。



(……この人は、私のことをなんとも思ってない)


 だけど――なぜか、それがほんの少しだけ、胸の奥で寂しく響いた。


 リアムさんは軽くあくびをしながら、部屋の窓辺へと向かう。


「……そろそろ帰る。誰かに気づかれたら、面倒だからな」


 そう言って背を向けた彼の姿に、私はなぜか咄嗟に声をかけていた。



「……あのっ、リアムさん――」


 ぴたり、と彼の足が止まる。

 次の瞬間、彼はわずかに肩を震わせて振り返った。


「……“さん”付け、やめろ。鬱陶しい」


「え……?」


「……そういうの、好きじゃない。馴れ馴れしいよりタチが悪い」


 冷たい声が、乾いた空気に落ちる。


「……ご、ごめんなさい」


 思わず、反射的に謝ってしまった。

 けれどその瞬間――リアムさんの表情が、ほんのわずかに歪んだ。


「……そういうのだよ」


「え……?」


「自分が謝れば済むとか、我慢すれば丸く収まるとか――

 そういう顔されるの、イライラする」


 その声には、はっきりとした苛立ちがあった。

 けれど、それが私に向けられたものなのか、それとも――


「……もういい。しばらく姿見せねぇ」


 そう言い捨てかけた彼は、ふとこちらに視線だけを向けた。


「……まあ、死なないように気をつけろよ。契約してんだから、巻き込まれたら面倒だ」


 それは心配とも警告ともつかない、ひどくぶっきらぼうな言い方だった。

 けれど――ほんの少しだけ、その声の奥に“本心”が滲んでいるような気がした。



 風がひとつ吹き。

 次の瞬間、リアムさんの姿はもう、そこにはなかった。


 残された部屋には、ほんの少しだけ冷たい空気が残っている。


 私はそっと、左手の甲に視線を落とした。

 そこには――何事もなかったかのように、契約の印が静かに浮かんでいた。


 そっと指先でなぞる。

 もう痛みはない。けれど、この印は確かに“繋がり”の証だった。



(……面倒だって、言ってたのに)


 彼は、呪いの話をして、助けられると言って、契約までしてくれた。


(それでも、私を見捨てなかった)



 どうしてなのかは、わからない。

 でも、どこかで――その理由を、ちゃんと知りたいと思ってしまった。


「……リアム」


 名前を、心の中でそっと呼んだ。

 それだけで、胸の奥にほんのり温かいものが残る。


 窓の外には、風に揺れる朝の光。

 小さな誓いは、静かに、確かに、そこに息づいていた。



 これが、私とリアムの本当の始まりだった――。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ