静けさの中で聞こえた名前
食後の時間、アーノルド殿下と二人きりで過ごす応接室には、静かな時間が流れていた。
「……それで、スフィア。父上とも相談して決めたんだけれど、
僕たちの婚約発表は、僕の誕生祝いの場で行うことになったよ」
やわらかな声音だった。けれどその言葉は、私の胸の奥にじんと重く響く。
「……はい。分かりました、殿下」
私は丁寧にうなずいて、笑顔を作った。
そうするのが、正しい令嬢の務めだとわかっていたから。
(自由な恋愛なんて、望んじゃいけないんだ)
本当は、誰かと心から笑い合って、恋をしてみたかった。
けれど私は公爵家の娘で、殿下は王太子。
私にその婚約を断る自由なんて、最初からなかった。
(……仕方のないこと。わかってる……つもり、なのに)
指先がほんの少し震えた。けれど、それを見せるわけにはいかなかった。
「ありがとう、スフィア。……それじゃ、今日はもう遅いし、君を屋敷まで送ろう」
「はい。ありがとうございます」
殿下の言葉にうなずいて、私は一礼した。
付き人に声をかけてくれた彼の背を追いながら、心のどこかで、ほんの少しだけ“このまま日常に戻れたら”と思った。
* * *
その夜。屋敷の自室に戻り、侍女のロージーに手伝ってもらいながら着替えを済ませた私は、ベッドに身を横たえた。
室内は静まり返り、薄いカーテン越しに月の光が揺れている。
けれど、目を閉じて間もなく――
「……っ、あ……!」
左手の甲に、突然鋭い痛みが走った。
びくりと体を起こして、寝台の上で手を見つめる。
印――昼間、名も知らぬ青年と交わした“契約”の証が、ほのかに赤く光っていた。
(これ……どうして……)
ズキズキとした熱を伴う疼きが、皮膚の奥から響いてくる。
火照るような感覚なのに、冷や汗がじわりと滲んだ。
(何? これって、契約のせい……?)
現実味のなかった昼間の出来事が、まざまざと蘇る。
彼の瞳、冷たい声音、そして――「命の半分、俺のものだ」と告げた言葉。
「……あれ、本当に……夢じゃなかったんだ」
誰にも言えない秘密が、今もこの手に焼きついている。
私は胸元を押さえながら、痛む印からそっと目をそらした。
印の疼きは、しばらく経っても収まらなかった。
うずくような痛みは、まるで皮膚の内側からじわじわと広がっていくようで、寝具の中にいても落ち着かない。
何度寝返りを打っても、目を閉じても、眠りの気配は遠ざかるばかりだった。
「……もう、無理……」
そっとため息を吐いて、私は寝台を抜け出した。
部屋の片隅にある窓辺まで歩いて、カーテンを押しのける。
月明かりに照らされた庭と、夜の静けさがそこには広がっていた。
そのままバルコニーへと出て、ひんやりとした風に髪をなびかせながら、私はそっと空を仰いだ。
そして――
「……まだ起きてるとは思わなかったな」
背後から聞こえたその声に、心臓が跳ねた。
慌てて振り返ると、そこには――
昼間と同じ、漆黒の髪とサファイアの瞳を持つ青年が立っていた。
「っ……あなた……!」
「痛むんだろ、契約の印」
彼は歩み寄るでもなく、バルコニーの欄干に寄りかかって、視線だけをこちらに向ける。
「……その様子じゃ、ろくに眠れてないな」
「な、なんで……ここに……?」
問いかけながら、私は自分の手をぎゅっと握りしめた。
疼きは確かにそこにある。でも、今の私はそれ以上に、彼の姿に――驚きと、少しの安心を感じていた。
「契約ってのはな、魔法的な繋がりだけじゃなくて、感覚も影響するんだよ。
お前の反応が強すぎて、こっちにも響いてきた」
「響いて……?」
「……だから確認に来ただけだ。別にお前に会いたくて来たわけじゃない」
ぶっきらぼうに言い放つその態度に、少しだけ、胸の奥がくすぐったくなる。
「……でも、来てくれたんですね」
「……お前、そういうところ甘いな」
そう言いつつも、彼はほんの少しだけ、目を細めてこちらを見た。
夜の空気に包まれながら、私たちはしばらく黙っていた。
でも、その静けさに耐えきれなくなって、私はそっと口を開く。
「……あの、昼間……契約のこと、教えてくれるって言ってましたよね」
「ああ。話す暇も、タイミングもなかったからな」
彼は軽く息を吐いて、視線を月へ向けた。
「お前の中にある“呪い”は、表面だけなら誰でも感知できる。でもその“核”――本当の原因は深くて、普通の魔術師じゃ手を出せない」
「……だから、契約を……?」
「そう。契約によって、お前の“内側”に干渉できるようにした。
命の一部を預かるってのは、ただの比喩じゃない。お前が無自覚に出す魔力や感情の揺れ、全部、俺の方にも響いてくる」
「……そんな……それって、すごく重いことじゃ……」
「重いに決まってんだろ。
ただのお人好しが命の契約なんか結ぶかよ。……だから言ったんだ、覚悟しろって」
彼の声には、昼間よりもずっと落ち着いた響きがあった。
皮肉っぽいけれど、本当は――ちゃんと、真剣に私のことを考えてくれているような、そんな声音。
「じゃあ……この印が疼くのも、私のせい、ですか?」
「ああ。お前の心が乱れれば、それだけ契約の印も反応する。
……今夜は、よほど動揺してたんだろ」
青年はそう言いながら、ちらと私の手の甲を見た。
そして――その瞳がわずかに細められる。
「……っ、これは……」
私も視線を落とす。
手の甲に浮かぶ契約の印は、異様なまでに赤く腫れ、熱を帯びていた。
まるで火傷のようにじんじんと疼いていて、皮膚の奥まで染み込んでいくような痛みがある。
けれど、それでも私は唇を噛んで言った。
「……痛い、けど……我慢、できます」
青年は一拍、黙りこんだあと、低く呟く。
「……ここまで強く反応するなんて、普通じゃない。
まるで……魔力の流れが根本からおかしいみたいだ」
「え……?」
不安になって彼の顔を見上げる。
青年は難しい表情で私の手を見つめたまま、考え込んでいた。
「なあ、ひとつ確認するが……
お前、魔力の流れはちゃんと自覚できてるんだろうな?」
その問いに、私はほんの一瞬だけ迷って――けれど、目をそらさずに答える。
「……それって、魔力があるかどうかって、関係あるんですか?」
青年の目が鋭く細められる。
「お前、まさか――」
「……私、魔力ないんです」
そう静かに告げた瞬間、青年の表情が固まった。
「……は?」
わずかに間があって、彼の眉が深く寄せられる。
「今の時代に、魔力がないやつなんて……絶滅したかと思ってたが」
その声には、驚きというより、呆れにも似た戸惑いが混じっていた。
「しかも、お前――貴族だろ? まさかとは思うが……」
彼は一歩、私に近づく。
その目が、私の顔をまじまじと見つめていた。
「……はい。魔力を持たない貴族は、今のところ、私だけです」
事実を淡々と告げる。何度も言い慣れてしまった台詞。
でも、胸のどこかがきゅっと締めつけられるようだった。
「そんなわけ……」
青年が低く息を吐いた。目をそらす気配もなく、ただじっと、私を見つめている。
「……ああ、なるほど。だからか」
「え……?」
「お前の契約の印が、異常なまでに反応してる理由。
体に魔力の通り道が存在しないから、全部ダイレクトに響いてる」
彼の言葉に、私は息を呑んだ。
そう、これまで誰にも理由がわからなかった痛みが、ようやく説明された気がした。
けれど――
「――そんな状態で、よく俺の契約を受けたな」
ぽつりと落とされたその言葉だけが、ほんの少し、優しさを含んでいた。
そうして彼――青年は、静かに歩み寄ってきた。
驚いて身を引きかけた私の左手を、そっと取る。
「え……」
触れられた瞬間、熱を持っていた印に、ひんやりとした魔力が流れ込んでくる。
それは水のような、けれど光のようにも感じられる、澄んだ力だった。
まぶたを閉じて、青年が短く詠じる。
「――≪癒しよ、命の輝きを宿せ≫」
その声が落ちると同時に、赤く腫れ上がっていた印がゆっくりと沈静化していった。
痛みも、熱も、少しずつ引いていく。
「ん。……もう、大丈夫だ」
彼が手を離す。
私はそっと手の甲を見て、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その言葉に、青年はほんの少しだけ、目を伏せた。
「……別に。
契約した相手に痛いっ泣き喚かれても、面倒なだけだ」
冷たく言い放つようにしてそう告げた彼は、くるりと背を向ける。
「今日はもう帰る。これ以上長居すると、気配を嗅ぎつけられる」
バルコニーの柵に手をかけたその背中に、私はふと声をかけた。
「……あのっ、名前……教えてもらってもいいですか?」
彼は立ち止まった。
一拍の沈黙のあと、振り返りもせずに、短く答える。
「――リアム」
その名は、夜の静けさに溶けていくようだった。
そして次の瞬間、風が吹き抜け――彼の姿はもう、どこにもなかった。