名前も知らない魔法使い
王宮の中庭には、淡い春の風が吹き抜けていた。
けれど私の心は、その風とは裏腹にざわざわと波立っている。
(……会いたくないな、まだ)
私は、エデルハルト王国の王太子妃候補――スフィア・フォレスター。
そして、今日この王宮を訪れたのは、婚約者である王太子アーノルド・エデルハルト殿下と食事をするためだった。
(でも……やっぱり、緊張しすぎて、胸が苦しくなる)
小さく溜め息をつきながら、私は回廊を抜けて中庭の奥へと足を運ぶ。
せめて、少しだけでも時間を稼ごう。そう思って歩いていた、まさにその時だった。
「――お前、それをどこでつけてきたんだ?」
突然、背後からかけられた声に、私はびくりと肩を震わせた。
「え……?」
振り返ると、そこには――見知らぬ青年が立っていた。
彼の髪は陽の光を吸い込むような深い漆黒。澄んだサファイアのような瞳が、まっすぐ私を射抜いてくる。
その姿は――思わず息を呑むほど整っていて、美しかった。
ただ綺麗なだけじゃない。どこか人間離れしたような静けさと鋭さがあって、目を逸らしたいのに、逸らせなかった。
(だれ……? この人、王宮の人じゃ……ない?)
王太子妃候補として、私はこの王宮に出入りする大半の人の顔を覚えている。けれど、この青年には見覚えがなかった。
「……それ、“呪い”だ。気づいてないのか?」
「呪い……?」
思わずその言葉を繰り返したけれど、私の声は風に掻き消されるほど小さかった。
胸の奥に、冷たいものが差し込んだような気がしたけれど、痛みも違和感もなくて――目の前の青年を凝視した。
(……呪いなんて、そんな……)
否定しようとした瞬間、青年はあっさりと言い放った。
「このまま放っておけば、数ヶ月もたない。死ぬぞ、お前」
「……え?」
何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。
けれど、彼の瞳は冗談も同情も浮かべず、ただ冷たく事実だけを突きつけてくる。
「まあ、気づかないならそれまでだ。
お前がどうなろうと俺には関係ない。……ただ、目障りなんだ。そんなもん抱えて俺の前をうろつかれるのは」
「………!」
心臓が一度、大きく跳ねた。言葉が喉につかえて、出てこない。
(なんなの、この人……どうして、そんなに冷たい目をしてるの?)
青年――彼はそんな私の動揺など気にも留めず、軽く嘆息した。
「“知らなかった”じゃ済まないぞ。死ぬ時は一瞬だ。……覚えとけ」
「……呪いを、解く方法は……ないんですか?」
ようやく絞り出した私の声は、ひどく弱々しくて情けなかった。
でも、それでも聞かなきゃいけないと思った。知らないままでいたら、本当に――“一瞬で死ぬ”かもしれないから。
けれど、青年はわずかに肩をすくめて、つまらなさそうに答える。
「普通の魔力持ちじゃ無理だな。そこそこの魔法使いでも歯が立たない。
解呪の手順を知ってたとしても、肝心の“核”に触れられないだろう」
まるで他人事のように、さらりと告げる口ぶり。
「……じゃあ……じゃあ、どうすれば……!」
私の声が震える。けれど、その問いに対する彼の答えは、あまりにも単純だった。
「俺なら、救える」
言い切ったその声音は、淡々としていて、ひどく自信に満ちていた。
「選べ。俺の力を借りるか、そのまま何も知らないまま死ぬか――お前の自由だ」
その目には、一切の情けも迷いも浮かんでいなかった。
ただ、冷たく、鋭く、真実だけを見据えている。
(この人は、本当に……何者?)
怖い。けれど、見過ごせない。
そう思った私は、気づけば、口を開いていた。
「……あなた、一体……何者なんですか?」
思いのほか小さな声だった。でも、彼はきちんとそれを聞き取ったようだった。
一瞬、彼のまなざしがこちらを鋭く見据える。
それから――ふっと、薄く笑った。
「……今は、ただの通りすがりの魔法使いだよ」
その言い方は、どこか飄々としていて、どこか嘘くさくて。
でも――言葉の奥に、重く沈んだ“本当”が隠されている気がした。
「名乗る価値があるなら、そのうち教えてやる。……生きてたら、な」
それだけを残して、彼は踵を返した。
去っていく背中は、あまりにもあっさりしていて――冷たいほどに、遠かった。
(このまま、何も言わずに見送るの?)
心の奥で、何かがざわめいた。
もし、あの人の言葉が本当なら……このままじゃ、私は本当に――
「……待ってください!」
気づけば、私は駆け寄って彼の袖を掴んでいた。
「私、まだ……死にたくなんてありません。
あなたが助けられるって言った。だったら……その方法を、教えてください」
そう訴える私を、彼はゆっくりと振り返った。
その瞳には、やっぱり冷たい光が宿っていたけれど――どこか、ほんの少しだけ、迷いが見えた気がした。
「……助けてほしいと頼むなら、それなりの代償を払ってもらう」
「……代償?」
「俺の力は“タダ”じゃない。
お前が生き延びたいと願うなら、その命の一部を、俺に“渡す”ことになる」
その声は淡々としていたけれど、意味は重かった。
「……それって、契約……ですか?」
「そうだ。契約を結ぶことで、お前の呪いの核心に干渉できる。
それが嫌なら……好きに死ね」
淡々と突き放すその口ぶりに、私は唇を噛んだ。
でも、決めなきゃいけない。
ここで踏み出さなきゃ、きっと私は……本当に、呪いに飲まれてしまう。
「……わかりました。契約、してください。
私、あなたの力を借ります」
そう言った私を、彼はじっと見下ろしていた。
その表情には、笑みとも嘲りともつかない微妙な色が浮かんでいる。
「……いいだろう。だったら、覚悟しろよ――“スフィア・フォレスター”」
その瞬間、胸の奥がひやりと凍る。
(……なんで、私の名前……?
さっき、名乗った覚えなんて――いや、あった?)
疑問が浮かんだ矢先、目の前の景色が、眩い光に包まれた。
「――っ!」
あまりに強い光に思わず目を閉じる。空気が震える。
まるで時間そのものが歪んだような、異質な感覚。
そして――ふいに、手の甲に温かな感触が落ちた。
はっとして目を開けると、彼が私の手を取っていた。
その唇が、そっと私の手の甲に触れた瞬間――
「……!」
じん、と熱が走る。
その紋様は、まるで私の皮膚の内側から浮かび上がってきたかのようだった。
「これで、お前の命は半分、俺のものだ。
――いい取引だったな」
浮かび上がった印を見つめながら、私は思わず口を開いた。
「これ……この契約って、一体どういう――」
「詳しい説明は、あとだ。……あんまり時間が――」
そう言いかけた彼が、ふいに顔を上げた。
その瞬間、空気がぴたりと張りつめる。
「……くそ。来やがったか」
ぼそりと吐き捨てるような声。何が起きたのかわからず、私は彼の視線を追う。
すると、回廊の向こうから――見覚えのある金の髪が揺れていた。
「アーノルド……殿下?」
姿を現したのは、正装に身を包んだ私の婚約者。
彼はこちらに気づいて、やわらかく笑いかけてくる。
けれどその笑顔とは対照的に、隣の青年の顔はわずかに強張っていた。
「……まずいな。ここで見つかると厄介だ」
「え……?」
困惑する私を残して、彼はくるりと背を向ける。
「説明は後だ。おとなしくしてろ、スフィア・フォレスター。
死にたくないなら、次に会うまで黙ってろ」
そう言い残すと――次の瞬間、風が吹き抜けた。
気づけば、彼の姿は跡形もなく消えていた。
「スフィア?」
優しげな声に、私ははっとして顔を上げた。
アーノルド殿下が、私のすぐそばまで歩み寄ってきていた。
「約束の時間になっても来ないから、探してたんだ。
まさか、こんなところにいるとは思わなかった」
その言葉に、私は一瞬、何かを忘れていたかのように目を瞬かせる。
(……約束? ああ、私……アーノルド殿下と、会う予定だったんだ)
けれど、それすらもどこか他人事のように感じてしまっていた。
さっきまでの出来事――名前も知らない青年とのやり取り。
契約の光、手の甲の印……それらすべてが、幻のように遠く感じられる。
(本当に……あれは現実だったの?)
指先に、まだ微かな熱が残っている気がするのに、心は追いついてこない。
「……ご、ごめんなさい、殿下! 私……!」
慌てて頭を下げると、アーノルド殿下はふっと微笑んで、静かに首を振った。
「気にしていないよ。無事ならそれでいい。
さあ、行こう。これ以上ここにいると、目立ってしまうからね」
その言葉に導かれるまま、私は彼と並んで歩き出す。
――まるで、何も起きなかった世界に、私だけが取り残されたみたいに。
けれど私は、左手の甲に、微かに残る熱と光を確かに感じていた。
(……あの人は、一体……)
問いは胸の中に沈んだまま、私はアーノルド殿下と共に、中庭を後にした。