男爵令嬢は塔の上のお姫様にはなれない
「誰かここから出してくれないかしら」
そう呟けば、誰かが助けてくれる。──ここが物語の中ならば。
しかし現実はそう甘くない。
リーファは小さな窓から外を眺めた。高い高い塔の上、遥か下を歩く人々はまるで豆粒のよう。
いつも忙しいのか、立ち止まる人はおらず、流れていく小さな人を見送るばかりだ。それでも窓の外を見るのはやめられない。唯一変わる景色は、生きていることを感じられるのはその小窓だけだから。
部屋の中に視線を戻すと、殺風景な石の部屋だ。変わり映えのしない、いつもの灰色の世界。
この狭い部屋に幽閉されてから四年経つ。そろそろあの事件はみんなの記憶から消えている頃かもしれない。きっと自分のこともすっかり忘れられているだろう。
あの夜会の日──婚約破棄騒動の日から、リーファはずっと捕えられていた。
第一王子エイドリアンがリーファを庇いつつ、自身の婚約者である公爵令嬢アンジェリカに向けて言い放った婚約破棄。その理由はリーファがアンジェリカから不当に嫌がらせを受けているからというものであったが、それはアンジェリカ自身によってリーファの自作自演だと暴かれてしまった。
弁解する間もなく捕らえられ、それからずっとこの部屋──独房に閉じ込められている。
エイドリアンを誑かし、その婚約者アンジェリカを陥れたことは紛れもなく、リーファの罪。
あの事件の後、リーファには何も残らなかった。
愛し合っていたはずの第一王子エイドリアンはリーファを見捨てたのか一度も会いにくることはなく、リーファを唆した第二王子派の重鎮にはあっさりと切り捨てられた。一日に一度食事を運んでくる使用人と何度も世間話をしてなんとか仕入れた情報によると、エイドリアンは元通りアンジェリカと結婚、第二王子は優秀ではあったもののエイドリアンには劣るようで、補助役をすることで丸く収まったようだった。
リーファが事件を起こさなかったとしても訪れたような、なんてことはない結末だ。
幸せになれるなんて、どうして思ってしまったのか。そんな浅はかな考えが、元々持っていた身の丈の幸せさえ奪っていった。
夢なんて見なければよかった。誰も信じなければよかったのに。
考える時間は限りなくあった。考えることでしか、この退屈な時間を紛らわすことができなくて、リーファはよく、もしもあの事件を起こさなかったとしたら、と考えた。
男爵令嬢である自分は、オルコット男爵位を持つ父が存命の間だけ貴族の名を名乗れる。魔導具の開発が認められ授けられた一代限りの貴族名だ。平民に近い令嬢を娶ってくれる貴族というと、婚姻による貴族間の繋がりに全く興味がないボンクラか、見目の良い女を囲う趣味を持つ男、はたまた誰も結婚したがらないお荷物の令息か。あとは同じ男爵家の息子。その辺りだろうかといつも結論づけた。
以前のリーファであれば、嫌だと一蹴していた。しかしそのどれであっても、今の自分よりは良い生活をしているに違いない。
第一王子であるエイドリアンを誑かした罪は、国家転覆を図った大罪として扱われた。
薄汚れてはいるが独房、擦り切れているが洗ってはくれる衣服、一日に一度の食事。半月に一度くらいは水あみが許された。どれも若い女性だからと配慮されたものだったが、ありがたいものだった。
残りの人生をこの狭い世界で過ごすことになるだろう。大罪人であり、もはや忘れかけられた存在の自分は、誰も助けに来てくれない。物語の主人公にはなれない。塔の上のお姫様ではないのだから。
◇◇◇
それから、やってきた、ある水あみの日──待ちに待った日だ。
小さな水風呂に浸かり、髪や顔にこびりついた汚れを丹念に洗った。独房は衛生状態も悪く、ストレスもあり、自慢だったピンクゴールドの髪は輝きを失いつつある。栄養も足りていない状況だから、豊満だった身体はすっかりと萎んでしまった。鏡は無いからわからないが、きっと水色の瞳は濁っているのだろう。
冷たい水に潜る。そうすれば幾分か頭が冴える気がした。
捕らわれてから何度も思う。誰も助けに来てくれない。物語の主人公ではない自分は、塔の上のお姫様にはなれないのだから。
ある時から、ずっとそんな考えが頭から離れなかった。そして思い至る。
──塔の上のお姫様になれなくったいいじゃない。主人公じゃなくたっていいじゃない。誰も助けに来てくれないなら、自分でどうにかするしかないじゃない。
少しでも綺麗な格好で外に出たいと思っていたから、決行日は今日。
何も計画なんてなかった。ただ外に出たいと思った。罪を重ねることになるのかもしれない。それでも、だ。このまま忘れられたまま独房で一生を過ごすのは耐えられなかった。
私が大罪を犯したというなら、自分を唆した第二王子派も、そして自分に愛を囁いたエイドリアンだって、きっと罪。
ずっと大人しくしていた甲斐があった。水あみの見張りは、ただの使用人の女の子。ごめんなさいと思いながら隙をついて逃げ出していた。
濡れた頭に囚人服。目立ちすぎる格好を隠すために、植木の影を通りながら、使用人の生活スペースを目指していた。警備は少なく、紛れ込みやすいと思ったからだ。流石に四年では間取りは変わっておらず、記憶を頼りに難なくたどり着いた。干してある使用人服を手に取ってさっと着替えた。
乾いてはいないが構わない。
「まあ髪も濡れてるし、ちょうどいいかしら」
着替えて、囚人服を茂みに隠した。手を広げてくるりと回る。
久しぶりの外の空気が美味しかった。穏やかな日光を浴びて、木の匂いがして、少し暖かな風が吹く。当たり前だった日常に、幸せを感じたところだった。
低音で、声を掛けられたのは。
「そこで、何をしている?」
「っひゃあ!?」
驚いた声に驚いたのか、その騎士は少したじろいだ。その顔を見て、リーファは息を呑む。
忘れもしない。その顔は、リーファを捕らえた男だった。
「な……!」
不審な様子にその騎士も気づいたようだった。
「なんで、君がこんなところに……逃げ出したのか?」
驚きすぎて否定するのも忘れてしまった。
勢いのまま、口は滑る。
「いいじゃない! みんな私のことなんて忘れてるんだから! 第一王子様だって第二王子様だって、婚約者様だって、もう自分の好きなように生きてる! あの事件なんてまるでなかったみたいに! 私以外に罰を受けた人はいた? いないでしょう? どうして私が、ただの令嬢だった私が全ての罪を背負う必要があるの。私の罪の分は、十分反省したつもり。私だってもう、好きに生きたっていいじゃない!」
叫んで、目から涙が落ちた。
捕まってから一度も流したことはなかった。緊張で涙も出なかったのかもしれない。また独房に戻されるかと思うと、悔しくて悲しかった。外はこんなにも幸せな場所だと感じたところだったのに。
騎士はハンカチを取り出して手渡してくれた。
同情してもらえたのかと気が緩んだ瞬間、顔を寄せられ、目の前で囁かれた。
「──絵を。絵を描かせてもらえないか。ここから出る手助けをしよう」
そんな悪魔のような囁きに涙も引っ込んだのだ。
◇◇◇
ソファに足を投げ出して、背もたれにゆったりと身体を沈めた。
顔は動かしていいと言うので、遠慮なく、騎士の男を眺めていた。向こうも見ているのだからお互い様。
珍しい黒髪に、優しげな緑色の瞳が悪戯っぽく細められる姿は、かなりの格好良さだと思うけれど。
「えっと、本当にこのままでいいの」
「構わない」
「…………脱ぐ?」
「脱がない」
場を和まそうとしたが、彼は一つも笑ってくれなかった。
騎士の男は、アルノーと言うらしい。他には何も教えてくれなかった。
城の警備をしていて、城の外で一人で暮らしていて、絵が趣味で。なぜかリーファを逃がしてくれた、少しおかしい共犯者。
「罪人の絵を描きたい、ってどんな神経なのかしら」
誰もが平等に手に入れられる特権──若ささえ、独房の四年間で失われてしまった。輝きが消えた髪、貧相な身体、淀んだ瞳。そんな姿でいいから描かせてくれとは本当に変わり者だ。
「……まあ、罪人を描きたいという訳ではなくて、描きたいと思った君が罪人だったと言うのが正しいね」
「罪人にしたのは、あなたでしょ?」
「それは違う。俺は指示されたから捕まえただけで、捕まえる前から罪人だったよ、君は」
言いながら少し眉を顰める姿が気に入った。
自分の言葉に反応して、会話してくれる。少し罪悪感がある様子を見せられれば、絵のモデルなんていくらでもできそうだった。
絵を描くには時間がかかるようで、灰色の小さい部屋からは比べるまでもなく良い部屋を貸してくれた。少しでも血色を戻そうと食事も出してくれる。綺麗な衣服に身を包んで、これ以上を望むのはおこがましいほどの待遇だ。夢ではないかと頬をつねることもしばしば。痛い頬はリーファに現実だと教えてくれる。部屋の隅っこで、涙を拭うこともあった。
何日か過ごした後、今度はアルノーが心配になった。罪人を逃したうえ、衣食住を提供して匿って、アルノーに影響はないのだろうか。
しかしアルノー本人は、匿った次の日にふらりと出勤し、ひと月の休暇を申請して帰ってきている。
「ね、大丈夫なの」
「何が」
「だって、私は脱走した大罪人よ? 匿っていいわけないし、ましてあなたは私のことを知ってる。騎士の仕事はいいの? どうして休んでるの」
「質問ばかりだなぁ。自分のことを覚えてる人間なんていないって、君が言ったんだよ。自分のことなんて忘れ去れられてるって。だから、大丈夫だろ。誰も知らない君のことが気に入って、モデルをしてもらう代わりに家にいてもらって、君の絵を描いてるだけなんだから」
鼻で笑うアルノーを見て安心した。安心するためにこれまでに何度も同じ話を繰り返していた。
それを彼もわかっているのだろう、いつも呆れたように笑ってくれる。優しい人だと思う。
そんな生活が三週間ほど続いたある夜のことだ。
「夜分に失礼します──」
ノックと共に開かれた扉から、城の騎士が数名入ってきた。
「おい、勝手に入るな」
「申し訳ございません。火急の用でして、陛下からも許可を得ておりますゆえ──もう夜も遅いですから、単刀直入に。大罪人リーファ・オルコットを引き渡していただきたい。黒髪の騎士が、使用人を連れて城を出たところを見たとの証言があります」
部屋の中にいても聞こえた。その使用人がリーファであることを、そしてアルノーの元にいることを、確信している物言いだ。
息を呑んだリーファだったが、徐々に冷静になる。いつか来る日が来ただけだ。
絵はもうすぐ描き上がりそうだった。
逃がしてもらった恩人の彼にこれ以上の迷惑はかけられない。絵の完成と共に去ろうとは思っていた。
しかし捜査の手の方が早かったようだ。
だから言ったじゃない、と小さく溜息を吐いた。悪いことは見つかるのだ。それは、第一王子殿下の婚約者に嫌がらせされていたと自作自演をした、そうして大罪人にまで身を落とした自分が一番わかっている。
リーファは人間らしい生活のおかげで少し戻った体力に感謝して、もたれていたソファから身を起こした。裸足のまま部屋から出て、するりと騎士たちの前に顔を見せた。
「よくここがわかったわね。その人は何も知らないの。ちょっと家にいさせてもらっただけ。もう夜も遅いのだから、喚くのはやめてくれない?」
気だるげに髪を掻き上げると、聞き覚えのある声がした。
「リーファ……! よくも逃げ出したな!」
「……あら。エイドリアン様、こんなところにまで、わざわざ。お久しぶりですね、ふふ、お会いしたかったわ」
塔の上には一度も現れなかった第一王子エイドリアンが騎士の一人に扮していた。
四年経ってなお、彼の美しさは変わらなかった。リーファが愛したそのままの姿を目に留めて、薄く笑った。
「まあ相変わらず素敵なお姿ですね。惚れ惚れしますわ。……見てくださいませんか? 私なんてこの四年ですっかり老いてしまいました。自慢の髪も、ほら、このとおり」
輝きを失った髪を指で弄びながら対峙する。過去の自分と完全に決別するために。
「エイドリアン様、ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。この度はご結婚おめでとうございます。良かったですね、アンジェリカ様に見限られなくて。この国もますます繁栄のことでしょう。心優しいアンジェリカ様が支えてくださりますもの。私も嬉しいですわ」
「……リーファ」
「ええ、わかってますわ。塔には一度も会いに来てくださいませんでしたが、きっとお忙しかったのでしょう。塔を出ればすぐに会えるのでしたら、四年も我慢しませんでしたのに」
エイドリアンの美貌を見ても心にときめきは感じられなかった。それにほっとする。
過去に縛られず、ちゃんと前を向けていることを実感できた。
「夜会の騒動──婚約破棄事件における当事者であり証人ですからね、私は。私以外は、口をつぐめばよろしかった。私を捨てて、醜いものに蓋をして、全て無かったことにすれば良かったのですから。私が塔から出てきて、焦りました?」
眉を寄せるエイドリアンを真っ直ぐ見つめる。
他の騎士たちは、思い描いていた反応とは違うリーファに少しの戸惑いを見せていた。
「皆様も考えればわかるはず。ただ、考えれば深みに嵌るから、考えないようにしているだけで。……男爵家の娘に、王子様をたぶらかすことができましょうか。自分の力だけでそれができましょうか。本当に小娘が一人で、国家転覆を狙い、王子様に愛を囁いたのでしょうか」
「やめろ、何を、言い出すんだ」
「当事者の私が真相を話せば、あっという間に疑惑になり、広がるでしょうね。男爵家の娘が拒んでも無関係に愛を囁いたのはエイドリアン様で、それが都合よかった第二王子派の方々は関係を深めるためにしきりに王宮に招待し、好待遇にいたいけな少女が信じ始めたころ、甘い言葉を囁いて、唆して」
「リーファ……それは違う、違うんだ」
形ばかりの否定の言葉を笑って受け止めながら、口はつぐまない。
居合わせる騎士たちの戸惑いが大きくなるのを感じて止められなかった。
語る真実に、アルノーは、どう思うだろうか。巻き込んでしまって申し訳ないとは思いながら、アルノーには真実を知ってほしいとも思った。
「けれどエイドリアン様も王子様。国のことを思うのであればアンジェリカ様と結婚することが正しいとわかっていらっしゃった。第二王子派の方々も婚約者様には勝てないと確信した途端に私は不要になった。私一人、罪を負わせ、口を塞げれば丸く収まるのですから、私が罪人になることはどちらにも旨みがあるお話。──これでは国家転覆を図ったのは誰だということになりましょう。だから私が塔から出た瞬間に、手を打った。塔にいる間は知らんふりでしたのに、ね」
知らず震えていた手に、アルノーの手が添えられた。
昂る感情に気づいて、少し反省する。王子の前でも落ち着いているアルノーの手は温かく心地よかった。
「いや、しかし、罪人のリーファが何を言ったところで信じる者はいないだろうな。ははっ、今もどうやら男を誑かしているようだし。さあ諦めて塔に戻れ。生かしてやっていることがせめてもの温情だというのに全く」
焦っているくせに、いつまでも自分を下に見るエイドリアンに嫌気が差した。
アルノーを侮辱するような言葉に怒ってもいた。
一息吐いて、エイドリアンを見据える。いつまでもエイドリアンに恋するリーファではないと伝えたつもりだったが、足りなかったのかもしれない。戻れと言われて戻るほど、馬鹿でもお人好しでもない。
「私は男爵家の娘。お父様が男爵位を賜った理由は、魔道具の開発よ。もちろん知っているわよね? 魔道具は必要だから、第一人者であるお父様は安全だろうと思っていたわ。けれどあなたたちは私の部屋や家を探したはず。何か私の罪状を覆すような証拠が残っていると困りますからね」
でも見つからなかったでしょう? とリーファは笑った。
「お父様も決して逆らわなかったでしょうから、隅々まで探せたはず。だけど、そんなところに置いておくわけないじゃない。私を唆した、第二王子派である重鎮の言葉を。ああ、ちゃんと名前も残っているわ。名乗るところから記録したの。私が作った、声を保存できる魔道具に。嫌がる私に愛を囁くエイドリアン様の声もあるわ。今頃はそうね……信頼できる人のところに届いていると思うわ。私の脱走が公になって、私がもう一度捕まることになれば、この証拠を広めてほしいってお願いしてあるの」
「君が、作っただと?」
「ええ、そうですの。私、リーファ・オルコットは魔道具を作れますわ。令嬢の身分ではお仕事がしにくいですので公にはしておりませんが、もちろんお父様の影響で」
「そんなこと、オルコット男爵は言っていなかったぞ!?」
「なぜ罪人の実父の言葉を信用なさったのです? ああ、もしかして嘘発見器でも使用されました? アレは父がお遊びで作ったもの。色々と抜け道がありまして、実用は不向きなんです」
「……くっ」
「どうします? ばら撒きましょうか? 証拠」
忌々しく顔を歪めたエイドリアンに、昔のように可愛らしくお願いする。
昔との違いを見せつけつつ、殊勝な態度を見せたかった。
「──多くを望むわけじゃないの。私を連れ戻さないで欲しいだけ。リーファの名前が必要なら、あげるわ。私は別の名前で生きていく」
「誰もいない独房に名前をつけろと?」
「いいでしょ、そのくらい。私は四年間、罪を被ったわ。あなたたちの分も。それともあなたたちも罪を償いたくなった? だったら一緒に囚われましょう。証拠も出せるもの、一緒に罪人になりましょうよ。話す相手がいるなら、それほど退屈しないで済むでしょうから大歓迎よ」
にこりと微笑めば、エイドリアンは大きな舌打ちを残し、踵を返した。
脅しが効いたのか、真摯な思いが伝わったのか、きつく睨みながら「約束は守れよ」とだけ言い捨て、帰っていく。
遠ざかる数人の背中を見送って、へなへなと崩れ落ちるリーファの身体は、隣にあった力強い腕が支えてくれた。
見上げるとアルノーは心底不思議そうに首を傾げていて、笑ってしまった。
「…………なあ、証拠、あるのか?」
「気づいちゃった? 本当は無いの。あったら、お父様が真っ先に提出してくれていると思うわ」
「本当に無茶をする。まあ、かっこいい君も悪くなかったが」
「ありがとう。嬉しいわ。あと少しだもの、絵が完成するまでは絶対に引き伸ばそうと思ってたの。私を逃がしてくれた恩はちゃんと返さないとね。思いのほか上手くいったみたいでよかったわ」
このままずっと見逃してくれるといいが、そこまで甘くはないだろう。簡単な口約束だ。いつ反故にされるかもわからない。名前を取られた上で、闇に紛れて消されることだってありうるが、絵を完成させるまでの時間くらいは確保できたのではないだろうか。
こんなボロボロの身体が恩返しになるとは思えないけれど、それでいいと言ってくれる彼の優しさに応えたかった。
「……良かったの、名前」
「ええ、いいのよ。罪を犯したのは事実。名前と一緒に罪を葬れるなら、葬りたいの。それで私は生まれ変わる」
あまりに純粋にエイドリアンに絆され、重鎮に利用され、王子の婚約者であるアンジェリカ様を陥れようと画策したリーファ。今ではもう、愚かだったとしか思えない。
こんな自分は、お姫様にはなれないと、牢の中で何度も考えた。
けれど。
「よかった……思いつきでもあんな塔を抜け出してきて、アルノーに会えて」
塔には誰も助けに来てくれなかった。待っていても何も変わらなかった。
しかし、一歩踏み出した先に、受け止めてくれる人がいた。抱き止めてくれる人がいた自分は。
「……私、お姫様かもしれないわ」
「ん?」
「なんでもない。アルノーがいてくれて良かったって話」
「別に俺がいなくたって、あれだけまるで証拠があるかのように振る舞える君は、自分でどうにかしただろう?」
「それでも、よ」
愛し合っていたはずのエイドリアンは一度も会いにこなかった。リーファを唆した第二王子派の重鎮には即座に切り捨てられた。
大罪人に成り下がった自分を受け入れてくれたという事実が、自分を救ってくれた。
それがリーファの心に沁みる。
絵はもうすぐ完成する。
この家を去っても、ずっとアルノーのことを忘れることはないだろう。
許されるなら、自分の絵が大事にされてほしいと願う。
「なあリーファ、このままここで暮らしたら? あの王子たちも君がどこにいるのかわかっていた方が安心するだろう」
確かに、行方をくらませた方が警戒はされるだろうが、アルノーの迷惑にはなりたくない。
魅力的な提案だったが、断ることにする。
大罪人の悪女らしく、色っぽく微笑んで見せた。
「そうねえ、プロポーズしてくれるなら考えてあげてもいいけれど」
「くっくっ、悪女みたいだ。わかったわかった、それは今度ちゃんとあらためて」
「え?」
軽く流されて冗談っぽく終わるはず。
リーファの戸惑った様子にもアルノーは素知らぬ顔をして顎に手を当てた。
「とりあえず名前を考えないとな。リーファはもう使えないから……リラ、でどうだ? 君の髪の色のような、可愛い花の名前。リラ•シュティールだ」
「……シュティール?」
この国の公爵家の名前。
シュティール家と聞いて、知らない人間はいない。
王家に拮抗する歴史を持ち、王を支え、導き、だからこそ意見することもできる。
今も宰相を務めているのは確かシュティール家。
「あ。言ってなかったっけ。俺はそこの次男だよ。聞いたことないか?」
能力はあるくせに、いやあるからこそ飽き性で、ふらふらとしてほとんど家にいない。見目はいいから女性の家を渡り歩いているのではないかと噂の。
「ええ!? あの遊び人の!?」
「あ、それは昔の噂。最近は諦められて、家から勘当された放蕩息子って噂になってるね。ずっとこんな小さな家で絵を描いてるだけなんだが。城の騎士なんかもしながら」
変わり者の男だと思っていれば、公爵家ときた。
不思議なことにリーファは驚かなかった。エイドリアンと対峙した時に物怖じしなかったことも、簡単に騎士の仕事を休んでしまえることも、大罪人を匿うことさえ些事のようだったことも、公爵家だということで納得できてしまった。
「今はあの王子を追い返した。約束通り、独房にはリーファがいるように見せかけてくれるかもしれない。ただ、身の安全は確保できていないだろ? そっと消されたとしても誰にもわからない。それは俺が困る。まだまだ絵だって描きたいからな。だから君が今選べるのは、俺と結婚するか、シュティール家の養子になるかの二択だね。シュティールなら君を守れる。俺としては、結婚してくれた方が嬉しいね。どう?」
「……どうって……」
目を瞬いて言葉を失うと、アルノーは悪戯げに目を細めて笑う。
「本当は、城の警備も暇つぶしに始めたことだったからこんなに長く続けるつもりはなかったんだ。だが君を捕まえた時、近くで見た君の髪に、俺は心を奪われたんだよ。なんて美しいんだって。絵を描けたらどんなにいいだろうって、君がいる塔を眺めるのが日課になってしまった。だから辞められなくて」
「そんなこと……」
「もちろん君のことは知ってたさ、王子を誑かす悪女だって有名だったからね。ああ、そう思うと、もしかしたら君を想う他の男たちと同じだったのかもしれないな。まあ、それで気になって調べたりもした。そうすると調べれば調べるほど、人物像が噂とは食い違ってくるだろう? 楽しくなって、気づいたら君のことばかり考えてた。──そんな時に目の前に君が現れた」
いつになく雄弁なアルノーの顔を思わず見つめてしまう。
目を合わせて話してくれる姿は嘘には見えない。
「どんなに驚いたかどんなに嬉しかったか、わかる? 本当にモデルだけ頼むつもりだったんだ。絵を描いている間だけでも、君のそばにいられるなら、と。──だけどプロポーズしたら、これからも一緒にいてくれると言うだろう?」
さすが女性の家を渡り歩くと噂されることはある。
その美貌で柔らかに微笑むのは反則ではないだろうか。
「だからさ、俺と結婚してくれないか」
「……え?」
「ちょっとぼんやりしないでよ。プロポーズだよ」
「…………プロポーズ」
上手く働かない頭のまま繰り返して、その後リーファはこれでもかと目を見開いた。
「プロポーズ……!!!!!?」
くつくつと喉を鳴らすアルノーが憎らしい。
慌てて「なんで!? すぐ飽きるんじゃないの!?」と小さな反論をしてみるものの、彼は一切揺るがなかった。
「この四年間忘れたことはなかったんだ。君と話していたこの数週間は夢のようだったよ。まあ騙されたと思って。俺は君を愛せる自信があるし、君もいつか俺を愛してくれればいい。待てる自信も、なんなら君が俺を愛してくれる自信もある」
「……すごい自信ね」
「まあね。俺と結婚すれば、オルコット男爵とも会わせてやれるし、公爵家の一員になれるし、退屈はさせないって約束する。望みとあれば、あの憎らしい第一王子に仕返しもできる。いいことばかりだと思うなあ?」
「…………すでに婚約者がいたりしないでしょうね」
「しないね。俺は『諦められて勘当された放蕩息子』だよ」
悪戯っぽい顔を見せたアルノーに思わず笑って、リーファ──改め、リラはあったかくなる心のままに、差し出された手を取ったのだった。
その後、シュティール公爵家はオルコット男爵家と共同で次々と新しい魔導具を開発し、この国に欠かせない存在となる。王ですら強く言えない立場の確立した上で、リラを連れ回した。
何度も訪れた王宮の中では特に、誰もが見惚れる美貌のリラを目に留めると、遠い記憶にあるピンクゴールドの髪の乙女がチラついたのか、顔をしかめる者が多かった。ただ言及は許されなかったため、誰もがその口をつぐむ。
その中で、アルノーとリラの二人は幸せそうに笑い合っていたそうだ。
おしまい




