第9章
それから一年ほどが過ぎて、再び六月がやってきた。わたしは今も自分の手首の傷痕を見る度、随分馬鹿なことをしたものだと、そう感じる。あの時、もし和久が偶然、わたしのアパートへやってこなかったら――発見がもう少し遅れていたら――死んでいたかもしれないと医者は言った。
わたしが運ばれたのは救急病院だったわけだけど、その時の担当医師の冷たさときたら、わたしには今も忘れられないものがある。交通事故などの場合は仕方ないかもしれないが、こういう感傷的な自殺未遂は実にはた迷惑だと、そう言っているかのような診察態度だった。もちろん、医者にだって腹の虫の居所が悪い時くらいあるだろう。でもこういう場合は患者の心の内を慮ってせめて優しいふりくらいしろよ、わたしはそう思った。
看護師たちが「失恋なんじゃないかしらねえ」なんて、わたしが寝ているものと思って噂話をしているのも気にくわなかったし、わたしは翌日にはその病院を退院することにした。そして再び友彦さんと和久の家に厄介になることになったわけだ。
仕事のほうは、三か月くらい休んでから、再び復帰した。でも誰も何も言わなかった。友彦さんが「ちょっと体の調子を崩してね」なんて説明してくれていたらしいけれど、今にして思えば手首を切る前から、わたしの様子は傍から見ていても少しおかしかったと思う。体は骸骨のように痩せ細り、目はどこか虚ろでぼんやりとし、それでいながら接客だけは異様なほど明るかった。
三か月休んで再び職場に戻った時、ようやくこれで平常復帰ができたと、わたしはそう感じた。誰も特に「病気はどう?」なんて聞くこともなく、すべてが以前と同じままだった。たぶん、わたしはその時生まれて初めて、世間一般の赤の他人の優しさというものを身に沁みて感じたような気がする。何故って、精神というか心というか、魂にまだ血がこびりついているような時――わざわざ「血がついてますよ」なんていう指摘を受けたい人は、誰もいないだろうからだ。
綾香はその後、オペラを見にいった時に知りあった、イタリア人の精神科医と結婚することになった。アルバン・ベルクのオペラ『ルル』――綾香は本当はその時、当時つきあっていた大学の教授とそのオペラを見にいく予定だったのだけれど、彼のひとり息子が交通事故にあったとかで、急遽ひとりで見にいくことになってしまったのだ。その綾香の通う大学の教授とは不倫だったので、綾香はその日『ルル』を見ながら、「そろそろ別れ時かしらねえ」なんてことを考えていたらしい。
そしてオペラが終わった時には、仏文科の教授と別れる決意をしていたわけだが、彼が座る予定だった席をひとつ置いたところに座っていた髭もじゃらの外国人が、突然綾香に話しかけてきたというわけだ。
「お嬢さん、ちょっとよろしいですか?」と、その晩年のヘミングウェイを彷彿とさせる髭もじゃら男は流暢な日本語で言った。「あなたはこのオペラにでてくる『ルル』にそっくりだ。ようするに、男を破滅に導くファム・ファタール(運命の女)というわけですな。ところであなたはルー・サロメという女性を知っていますか?ニーチェがプロポーズをしたことで有名な女性なのですが」
「一応、知ってますけど」と、綾香は男の慇懃無礼さに腹を立てながら答えた。「でも、初対面のあなたにそんなことを言われる筋合いはないと思います」
「まあ、そう怒らずに。もっとも、怒った顔もキュートですけどね」
綾香はそのあと、このイタリア男の軽いノリにつきあわされて、一緒に食事をしにいくことになったという。だがその時、ススキノにある某イタリアレストランのテーブルの一角は、修羅場と化したらしい。
「あなたは男のことをみんな馬鹿だと思っている、そうでしょう?」
名前をジュゼッペ・グェルネルディというその四十三歳の男は、貴腐ワインの芳香を楽しみながら、まず最初にそう言った。
「だったらなんなの?第一、男なんて本当にみんな馬鹿ばっかりよ。どんなに少なく見積もっても、全人類の約90%以上はね」
「ふむ」と男は頷き、「このワインはトカイ産なんですよ」そう言って綾香にもワインを勧めた。
「じゃあ、あなたは残りの10%の男と結婚すればいいわけだ。実をいうとわたしは、数少ないその10%に当たる男であると、そう自負しています。どうですか?ひとつわたしと賭けをしてみませんか?」
「賭け?」
ワインや貝料理がどんなに美味しくても、騙されるものかとばかり、綾香は男を睨めつけた。
「そうです。もしあなたがわたしのことを全人類の90%を占める馬鹿男と認定したら、その時はわたしの負け。でも残りの数少ない10%の側の人間であると認めたら――賭けはわたしの勝ちです。そしてわたしは景品として、あなたの身柄をいただきます」
「人を物扱いしないでよ。第一、わたしが勝ったら何をくれるわけ?ヴィトンのバッグかシャネルのスーツでも買ってくれるの?そんなのあんまり一方的じゃない。メリットなんてなんにもないわ」
「ありますとも」と、あまりに日本語が流暢すぎて、どこか胡散臭く感じられるイタリア男は言った。「本当に本物の恋を知ることができるというメリットがね」
その後、ふたりの間には奇妙な火花が散り、世界の文学・哲学・芸術全般について、一時間ばかり熾烈なやりとりが続いたという。
「ユキオ・ミシマの代表作は?」
「一般的なところで言うと『潮騒』や『金閣寺』ですか。でもわたしは個人的に、彼の書いたものの中では『豊饒の海』が一番好きですね」
「江戸時代の画家、尾形光琳の残した国宝」
「『燕子花図屏風』、『紅白梅図屏風』」
「仏教の五戒」
「不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒」
……といった具合に。そして綾香は最後に、彼が日本人ではなくイタリア人であることを考慮して――このジュゼッペ・グェルネルディという男の申し入れを受けることにしたのだった。