第七章
友彦さんが言っていたように、わたしが理一郎の前で裸になるようになったのは、自然の流れとしてある意味当然のことだった。彼の強い眼差しに促されたというよりも、自分でそうしたいと思った気持ちのほうが強い。そして彼はいずれそうなることがわかっていて――何も言わずに黙ったまま、ただその時がくるのを待っていたというわけだ。
もちろん、最初のうちは照れや恥じらいのようなものはあった。でもだんだんそれが当たり前のようになっていき、モディリアーニの『座る裸婦』や『腕を広げて横たわる裸婦』にも似たポーズをとるのに、なんのためらいも感じないどころか、時々疲れて、そのまま眠ってしまうことさえあるくらいだった。
本当ならもうちょっと、官能小説的に「彼の熱い視線がわたしの肌の上を滑るたび、甘い官能の疼きと悦びが……」とでも書きたいところだけれど、理一郎の瞳には眼差しで犯すようなところはまったくなかったのだから、彼の芸術家としてのプロ根性はなかなかのものだったといっていいのではないかと思う。
よく晴れた、気温が三十度近くにもなったその真夏日、わたしはガウン一枚だけを着て水車小屋の外へでると、理一郎の案内で、林の奥、小川の流れるほとりの草むらの上で横になった。そしてガウンを脱ぐと靴を蹴っ飛ばすようにして脇へやった。
頭上には大きなハルニレの樹が葉をさやさやと風にそよがせ、小川はさらさら歌い、あたりにはピンクや紫のルピナスが群れをなして咲いていて、とても美しかった。空を見上げると帆を膨らませたような白い船が幾艘も航行していくのが見える――わたしは自然とひとつになる喜びを感じて、その時初めて強い官能性に目覚めたように、うっとりと夢見心地になった。
理一郎はイーゼルにキャンバスを置くと、珍しく丹念に下絵から描きはじめている。これまではずっと一発描きのように油絵の具をそのままキャンバスにのせていたのに、いつもとはまるで勝手が違うようだった。そしてわたしは彼が「これが本命だ」と言っていたのを思いだして――にわかに、自然の与える官能美の世界から、現実へと引き戻されるのを感じた。
(ということはつまり、この絵が完成したらわたしと理一郎は……)
そのまま別れるか、もっと先の段階へ進むかの決断をしなければならなくなるだろう。もっと先の段階?どうして今それを考えなくてはいけないのだろう?今この瞬間こそが永遠そのもののように美しいのに?
わたしはその日、珍しくじっと理一郎の顔を見つめながら草むらの上に横たわっていた。でも彼の眼差しはわたしの視線とはほとんど交わることなく、もっとその奥にあるものを凝視しているかのように、すべての問いかけに答えるのを拒否していた。いつもなら、「何か聞きたいことでもあるのかい?」と、そう言ってくれるのに。
そのまま、二時間ほどが経過しただろうか。気がついたらわたしはそよ風の中にひそむ睡魔の手に委ねられて、快い眠りの中にいた。シシリー=メアリー=バーカーが描いたような花の精が、ルピナスの花の横に立っているのが見える……いいや、そんなまさか!と思った時、目が覚めた。
「お疲れさま」
見上げると、隣に理一郎がいつもの黒い僧服姿で座っていた。わたしは体の上にかかっていたガウンを着ると、たたたっと走っていって大きなキャンバスの前にまわった。顔の表情など、細かいところはまだ描かれていなかったけれど、それは今のところ彼の肉体の目が捉えたそのままを描いているようだった。これまではいつも、背景には本来そこにないもの――たとえば、宗教書の詰まった本棚や、鸚鵡のいる鳥篭、季節外れの花が活けられた花瓶など――が描きこまれていることが多かったから。あるいは実際には同じポーズをとったわけではないのに、わたしが胸を隠すようにして開いた本を読んでいたりだとか――半分、理一郎の面白半分の空想が混ざっている場合がほとんどだったのだ。
「この絵は、描きあげるまでにかなり時間がかかるよ。どんなに早くても最低一か月くらいはね。夏が終わる前までにはなんとかと思ってるんだけど」
「そう」と、わたしはほっとしたように微笑んだ。一夏の恋で終わるかどうかは、その時にまた考えればいいことだと思った。「それよりお腹すいちゃった。敷物しいて、お弁当にしない?理一郎もお腹すいたでしょ?」
「もちろん」
彼は待ってました、というように手を擦りあわせながら頷いている。実をいうと今日は少しおかずに力を入れてきたのだ。理一郎の好きな手作りざんぎやエビフライにオムレツなど、その他食後のドーナツに至るまで、ちょっと面倒だったけど、スーパーの惣菜のお世話にはなるたけならない品揃えだった。
「幸せだねえ」
食後にお茶をすすりながら、理一郎はしみじみしたようにそう言った。これが和久あたりなら、「何じじむさいこと言ってんのよ」とでも言って小突いてやるところだけど、彼があんまり幸せそうに目を細めているのを見て、わたしはただ同意することしかできなかった。
「理一郎の食欲には、本当に呆れちゃわね。重箱二段分平らげておいて、よく十個もドーナツがお腹に入るもんだわ」
「そうやってバランスをとってるんだよ」そう言って理一郎は笑った。「僕は一週間くらいなら、断食しても平気な人間なんだけど、そのかわり食べられる時には食べないと損だって、そう思ってるんだ」
「それは女の人もってこと?」
理一郎がびっくりしたように隣のわたしのことを振り返る。そしていかにも愉快そうに声を上げて笑った。
「凄いこと聞くね、仮にも聖職者に向かって。前にも言っただろう。僕は小鳥の心臓だから、女の人とセックスなんかしたら、そのまま腹上死だよ」
「はぐらかさないで」わたしは珍しく真剣になって言った。「このガウンだって――袖を通したのは何も、わたしが初めてってわけじゃないんでしょう?べつにいいのよ、それならそれで。その女の人がどんな人だったのかなんて聞かない。でも理一郎の口からは、嘘だけは絶対聞きたくないの」
「参ったな」
君はそんなことを聞く娘じゃないと思っていたのに、という眼差しで見つめられて、一瞬わたしは怯んだけれど、負けるもんかと思って強く彼のことを見つめ返した。
「そのガウンはね、僕のだよ。時々僕は修道院の宿舎へは戻らずに、あそこで絵を描いて夜を過ごすんだ。そうだ、今度――あの絵が完成する頃にでも」と、そう言って理一郎はイーゼルに立て掛けられたキャンバスのほうを見た。現実の世界で肉体を持つわたしよりも、絵の中のわたしのほうが大切だ、とでもいうように。「一度、泊まりにおいで。そうしたら僕がどういう人間か、よくわかると思うから」
「……本当にいいの?」
わたしはためらいがちに、すぐ隣の彼のことを見上げた。
「もちろん。もし今ここで、契約書にサインをするつもりがあるならね」
「契約書?」と、わたしは鸚鵡返しに聞いた。
「わたしはあなたに首から下を許しますっていう、契約書のサイン」
あ、とわたしが思う間もなく理一郎はわたしの唇にそれを重ねていた。軽く唇と唇が触れあっただけの、神聖な口接け。
「それじゃあ、そろそろ続きにとりかかろうか」
理一郎は薄汚れた絵の具だらけのスモッグを手にすると、僧服の上からそれを着て、再びキャンバスの前に立った。そのあとわたしは、生まれて初めての甘いキスの余韻にぼうっと浸っていたので、眠気が差すようなこともまったくなく、あっという間に時間は過ぎていった。