第6章
わたしはその週から次の木曜日まで、仕事中、どことなくぼーっとしていた。よくある恋愛初期の症状である。シフトの関係でその週は六日間連続出勤することになっていたせいもあり、なおのこと理一郎への想いは募っていった。
(あいつ、心臓病だなんて言ってたけど、本当はそんなに大したことないんじゃないかしら。それともその逆で、ああいう形でしか性的に女と関われないから――禁欲的なエロティシズムの発露とかいうやつで、画業にとり組んでるのかしらねえ)
わたしはその日入荷してきたグラビアアイドルの写真集を数えて伝票をチェックした。そしてエロ本関係の雑誌が並ぶ棚の上のほうに、<新刊>の札と一緒にそれらを陳列した。
「おまえ何ぼーっとしてんだよ。女がこんなエロエロコーナーでぼーっとしてたら、客が変に思うだろうが」
「仕様がないでしょ。仕事だもん」わたしはさらにぼーっとしたまま、和久にそう答えた。よくよく考えてみたら今日は土曜日だ。どうりで真っ昼間からこいつがいるわけだ。
「おまえ馬鹿?それ水島サヤカの写真集じゃん。一冊でも売ったらヤバいことになるって。今出版社を相手どって訴訟を起こしてんだろ」
「あ、本当だ」
「あ、本当だじゃねえよ」と言いつつ、ダンボールに水島サヤカの写真集を和久は戻している。
「ほら、伝票と一緒にご丁寧に回収のお願いの手紙まで入ってるだろ。よく見ろよ」
そうだった、忘れてたと思い、わたしは和久が気づいてくれたことに素直に感謝した。
「でもさあ、ぱらぱらっと中身見て思ったけど、ここまでキワドい写真撮ったんならさ、思いきって出しちゃったほうがよかったんじゃないかって、そう思わない?そのほうが女優としての株も上がったんじゃないかって、そんな気がするんだけど」
「さあね。でも記者会見で涙ながらに訴えてただろ。『女として複雑なものが……』とかなんとか。まあ、確かに俺にはわからんわ。こんな紐で縛りーの、ヘアだしーのしてカメラ目線で何枚も写真撮らせる女の気持ちっつうのは」
「でもこういうのにお世話になってるわけでしょ、あんたも」
「バーカ。俺をそこらの男と一緒にすんなって。こんな何人の男と寝てるかわかんないような女の写真見て、一体なにが楽しいんだよ」
「さようでございますか」
わたしは軽く肩を竦めると、バックヤードのほうに水島サヤカの写真集を持っていった。まあ確かに、和久の言っていたことも一理あるのかもしれない、とは思う。でもそう言っても見ずにはいられないというのが人間の心理……というか男性の心理ではないかとわたしは思うのだけど。
(まあ、あいつは海の向こうのハリウッド女優と二次元のアニメキャラ専門だからなあ)
時々女の子からも電話がかかってきたりして、長話したり、どうやら恋愛の相談に乗ってあげているらしい、なんていうこともあるみたいだから、心配なんて全然してはいないけど。
「おまえ、なんか最近綺麗になったんじゃねえ?もしかして誰か好きな奴でもいんの?」
「何いってんのよ」
わたしは本が山積みになっている狭いバックヤードで、返本する本の伝票を書きながら、次々にダンボールにそれを詰めていった。
「それより真面目に仕事しなさいよ。あんた時々返本作業しながら漫画の本とか読んでるでしょ。みんな知ってるけど、店長の息子だからと思って何も言わないだけなんだからね」
「へいへい。たださ、本当に好きな奴とかできたら、教えてほしいと思ってね。由架理がどういうタイプの男を好きになるかとか、俺すげえ興味あるし」
「すげえ興味ね」と、わたしは軽く肩を竦めて溜息を着いた。もし理一郎が、時々客の中にいる、こそこそしたような低姿勢でエロ本を買っていくような、わかりやすい男だったとしたら――わたしも軽い自慢がてら、和久に彼のことを話していたかもしれない。でも、わたしは理一郎のことを誰かに話したりするのが怖かった。よくわからないけれど、彼のモデルになっているという秘密を一度誰かに喋ってしまったとしたら――次にあの水車小屋へいった時、そこには誰もおらず、壁にかかった絵もイーゼルなどの画材も何もかも消えてなくなっているのではないかと、そんな不安な予感めいた気持ちが胸を締めつけるのだった。
わたしが実際に恋をして綺麗になったかどうかはともかくとして、和久が男がいるのではないかとあやしんだのも無理はない。和久はわたしが休みの時はしょっちゅう、暇だったらメシ作りにきてくれと電話してくるのだけれど、ここのところずっと、休日は留守電になっていることがほとんどだったからだ。
綾香とは毎日のようにメールで連絡しあっていたけれど、「遊びにいこう!」と誘われても、わたしは仕事や叔父と和久の家の世話を理由に断ることが多くなった。それでも金曜や土曜の夜に、仕事が退けたあとでススキノへ飲みにいったりは時々していたけれど――わたしは彼女にも、適当に言葉を濁して、友彦おじさんの他に好きな人ができた、という話しかしてはいなかった。
「もうちょっと上を向いて……そう。僕のほうは見なくていい。そのままの姿勢を保ってくれたら、あとはいつもみたいに適当に何か喋っていいよ」
どうも理一郎にはわたしの背中の痣に特別な思い入れというか、拘りのようなものがあるらしく、全裸になるようになってからもとるポーズは後ろ向きのものが多かった。確かにわたしは胸だってそんなに大きくないし、中肉中背の、「まあ一応は女らしいね」という程度の凹凸しかしていないと、自分でもそうは思う。わたしとしてもべつに特別、芸術家の神聖な眼差しでもってのみ自分の裸を見られることに異存があるというわけではないし、突然ムラムラときた彼に押し倒されたいと想像しているわけでもなかった。
ただ不思議なのは、ずっとこのままの関係で、理一郎のほうは平気なのだろうかということだった。わたしは依然として彼について何も知らなかったし――いつまで今のような関係を続けられるものなのかもわからなかった。第一、修道院の誰かに裸の女をモデルに絵を描いているなんていうことが知れたら、大変なことになるのではないだろうか?
「なに?何か聞きたいことがあるんなら、遠慮せずになんでも聞くといいよ。君らしくもないな。先週はあんなにべらべらひとりで喋り続けていたのに」
「あれはただの照れ隠しだってば。わかってるくせに」わたしはソファの上に寝そべったまま、重ねた両腕の上に顎をのせたポーズで、そう答えた。「裸で体育座りをしている女なんて、どう考えても間抜けじゃない」
「でもあの絵は君も気に入っていただろう?」
黒の僧服の上に白いスモッグのようなものを着ている彼は、なんだかいかにもインチキ聖職者といった感じだった。
「まあね。ところで聞きたいんだけど、理一郎ってどういう女がタイプなの?わたしがあんたくらいの顔立ちしてたら、それなりに結構モテたと思うし――ユーミンの歌じゃないけど、「守ってあげたい」なんていう女の人が何人か、これまでにいたんじゃないの?」
わたしはそっと探りを入れるみたいに、さり気なくそう聞いてみた。
「女になんか、守られたくもないよ」と、彼は珍しくも嫌悪感をあらわにして、絵筆を荒々しく水差しの中に突っこんでいる。「第一、もてたことなんか一度もないな。今はまだましになったほうだけど、いつも青白い顔をした、体育の授業は常に見学してるような男、一体誰が好きになる?」
「ふうん。それじゃあ、こんなふうに考えてみたことはない?もし自分が健康な体をしていたとしたら、今ごろ女なんかよりどりみどりの千人切りだったのになあ、とか。わたし、時々考えるのよ。自分がもし男で結構イケてる容姿してたら、ナンパしまくってやりまくってたんじゃないかって。それである日、嫉妬に狂った女の人に刺されて、松田優作みたいに「なんじゃ、こりゃあ」って叫んで死ぬの。そういうの、ハードボイルドで素敵だと思わない?」
「素敵かどうかはわからないけどね」と、理一郎は笑いをこらえるようにくっくっと喉を鳴らしている。「ユカリの話すことはいつも面白いよ。モデルなんかやめて、漫才師にでもなったほうがいいんじゃないか?」
「そうねえ。それで美人の相方にブスネタで突っこまれるのね。でもそれって、実際は結構キツいのよ。「わたしなんてどうせブスだし」みたいに表明するのって実は、そう言うことによって自分をガードするためだもの。「わたしは自分の身の程をわきまえていて、勘違いなぞしておりません」って、他の人に一度わかっておいてもらうと、人間関係のほうも結構うまくいくことが多いのよ。特に同性の場合」
「なるほどね。でもユカリはブスじゃないから、もうそんなことを言うのはよしたほうがいい。君はいい人間だよ。だから、悪い人間の言うことには耳を傾けないほうがいいと思う。じゃないと魂が堕落して、結局はそういう人間と同じレベルになってしまうからね」
――そのあと、暫くの間わたしは押し黙ったままでいた。ここ一か月くらい休みのたびにここへきていて思うのは、彼が魂の話ばかりするということだった。一に魂、二に魂、三四が虚無で、五に魂……うまく説明するのは難しいけれど、とにかくそんな感じだった。全体に、肉体性というものが欠如しているというか、精神性が現実性から乖離しているというか、彼にとっては今五感で感じられるこの世界よりも、絵の中での世界のほうが、よほどリアリスティックなものであるらしかった。
「来週、もし晴れたら」と、下着を身に着けはじめたわたしのほうへは目もくれずに、理一郎は絵筆を動かしながら言った。顔の表情のほうは、キャンバスに隠れていて見えない。
「屋外でモデルになってほしいんだけど、いいかな?これで大体、習作の域は出たと思うから、次が本番というか、本命ということになると思うんだ。自然の中で裸になるのは嫌?」
「べつに、いいんじゃない」わたしは自分の本当の気持ちを押し隠すように、努めて冷静さを装おうとした。「どうせこのあたりに、人なんてこないでしょ。時々、修道院のほうから風にのって賛美歌を歌う声が聞こえてくるけど……それ以外で人の気配みたいなものを感じたことは一度もないものね。それでもここへくる途中、誰かと会ったらどうしようって、ちょっとどきどきしたりはするんだけど」
「まあ、修道院の誰かと顔を合わせたからって、どうということはないよ。畑や家畜小屋なんかは、修道院の裏の敷地にあるから、表門からの出入りというのは意外に少ないんだ。ユカリはもしかしたら何か誤解してるかもしれないけど、ここの修道院の暮らしはそう苛酷なものではないんだよ。ただ単にキリスト教の教えについては原始的だというだけで、それ以外では結構自由もきくしね。今日は祈りに専念したいと言えば、祈祷室にある個室で一日中瞑想と称してぼんやりしていることもできる。キリスト教的精神に支えられた個人主義というのか西欧主義というのか、誰かが自分より働いていないといったようなことが原因で揉めたりすることは、まずない」
「へえ……」
わたしは筆をおいて椅子から立ち上がった理一郎のことをじっと見つめた。いかにも精神的な顔立ちをしているというか、中性的で、あまり日本人らしくない顔をしている。フランス人かイタリア人の血でも四分の一くらい混ざっているんじゃないかというような。
「どうかした?」
「ううん、べつに」と、一瞬彼に見とれていた自分を、ごまかすようにわたしは首を振った。「いつもお弁当をむしゃむしゃ食べてるから、よほど粗末な食事しかしてないんだろうなあって思ってたもんだから。なんか少し、安心した」
「もちろん、毎食豪華絢爛とはいかないけどね」理一郎は肩を竦めながら笑った。「第一、ユカリの作る料理があまりにも美味しすぎるんだよ。もし君が僕以外の人間と結婚したら、僕は嫉妬のあまり、相手の男を殺してしまうかもしれない。食べ物の恨みっていうのはおそろしいからね」
わたしは笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。それで、彼のそばに近づいていくと、ブーシェの『ソファーに横たわる裸婦』のようなポーズをとっている自分を、鏡の世界をのぞきこむような気持ちで眺めた。
「うーん。素晴らしい出来映えだとは思うけど、やっぱりちょっと美化しすぎよ。理一郎はたぶん……物に対する見方があんまり美しすぎて、醜いものが視界に入ってこないんじゃない?これは肉体的な現実の眼差しで見たわたしの姿じゃないと思う。もしかしたら理一郎の心の目には、こういうふうに映っているのかもしれないけど」
「心の目じゃなくて、魂の目だよ」と、理一郎は訂正した。「物質界で起こることはすべて、それ以前に霊的世界で起こってからこちら側にもたらされるんだ。だからたぶん三年か五年もすれば――ユカリは絵のとおりの女になっているだろう。それまで僕もなんとか長生きしたいものだと思うよ、本当に」
わたしは隣の理一郎のことを、心配そうな眼差しでじっと見上げた。彼の心臓のあたりに手をあて、それからその鼓動の音を確かめるように、顔と耳をそっと押しあてる。
「冗談を言ってるんじゃないわよね?わたし最初、あなたがからかってるんじゃないかって思ったのよ。でも本当に……現実に、あなたは医者からそうあまり長くは生きられないと言われている。そうなのね?」
「そうだよ」と、理一郎は力強くわたしのことを抱きしめながら肯定した。「というより、ここまで成長したこと自体が奇跡だと言われてる。<神は癒し人>という証しを、僕はこれまで何度人にしたかわからないくらいだ。ユカリはヒーラーっていう言葉を知ってる?」
「うん。何かで聞いたことある」わたしは自分の記憶をつま繰りながら、絵の具の匂いの染みこんだ男の胸に頬をすり寄せた。「その人が病人の患部に手をかざして祈ったりすると、病気が直っちゃうんでしょ。そういう牧師さんがいるっていう話を、本か何かで読んだような気がする」
「僕はカトリックだから神父だけどね」と、理一郎はわたしの頭の上に顎をのせながら笑った。「小さい時から、僕にはその能力があった……といっても、誰でも全員治るというわけじゃないけどね。その病気で死ぬことが定まっているような人のことは直せないんだ。それに、ちょっとした骨折のような場合でも、癒せる人と癒せない人がいる。それが何故なのかは僕にもわからない。おかげで僕は神童扱いされて、カトリック教会のほうにも重宝がられたけど、皮肉なことにはね、自分の病気だけはどうしても癒せなかったんだ」
「意地悪なのね、神さまって」わたしはキリスト教の神というより――いるのかいないのかわからない、汎神論的な存在の神に向かって、突如怒りを感じた。「でもきっと理一郎は長生きするわ。だってあなたはわたし以上に……ずっといい人間だもの」
「本当に、そう思うの?」
彼がそう言ってわたしの体を離した時、冷たい悪魔のような微笑みが、理一郎の顔には浮かんでいた。それはこれまで一度も見たことのないような、別の男の顔だった。
「え、ええ……」
なんとなく気まずくなって、わたしはそのままさりげなく彼から離れると、陶器の水差しを引っくり返しそうになりながら、隣の部屋にショルダーバッグをとりいった。そして鞄の中から櫛をとりだして何度か髪を梳かしてから、水車小屋をでようとした。
「それじゃあ、また来週ね」
アトリエのほうをのぞきこんで、わたしが最後にそう声をかけた時、理一郎はいつもの彼に戻っていた。西日の差しこむ窓辺から振り返った彼の顔は、優しい、たとえて言うなら野生動物の鹿かうさぎかリスのような、あどけない汚れのなさで満ちていて、思わずわたしは眩しくなったくらいだった。