表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

第4章

「僕がどうして君を、絵のモデルに選んだかって?」

 次の週の月曜日、今度はわたしはソファの上に寝そべりながら、モデルの仕事をしていた……いや、ノーギャラなのだから、仕事というのはおかしいかもしれない。第一、モデルなんていっても、一ミリも動いてはいけないとか、そういう厳密さは全然求められなかったし、ただなまけもののようにぐうたらーっと横になり、アマチュア画家と世間話をしていただけともいえる。

「わたしの友達にね、物凄い美人の女の子がいるのよ。たぶんその子のほうが……黛さんにいい絵を描かせるんじゃないかって、そんな気がするの。たぶん、わたしのほうから頼めばオーケーしてくれると思うし、どうかなって思って」

 数秒、間があった。わたしは彼が自分のことをじっと見つめていることに気づき、うつぶせになった姿勢から身を起こした。

「その娘、処女?」

 真顔でなんてこと聞くんだろうな、このエセ神父と思いつつも、わたしは恥じらいも何もなく開き直って答えた。

「ううん、違うけど……っていうことはつまり、わたしが処女だったっていうのが、黛さんがわたしをモデルに選んだ理由ってこと?でもこう言っちゃなんだけど、それならもっと美人の処女を選べばよかったのよ」

「まあ、美の基準は人それぞれだから」と、再び創作を開始しながら黛は言った。「僕は自分も含めて人間っていう生き物が嫌いだし、特に女が嫌いなんだ。だから絵の中に生身の人間を描いたことはこれまで一度もない。いや、修道士たちの肖像画なんかは何度か描いてるけど……女の人で描いてみたいと思った人は、君が初めてだ。僕はあの本屋で初めて君のことを見た時、人間じゃないと思ったから」

「なあに、それ」あまりの言い種に、かえってわたしはおかしくてたまらなくなった。

「そりゃあわたし、人に言われたことはあるわよ。マイケル・ジャクソンの『スリラー』のバックで踊ってたことあるでしょ?とかね。でもみんな冗談よ。あなたみたいに真顔でそんなこと言ったりしないもんよ、普通は」

「僕は真面目に言っている」と、彼はわたしに眼差しで命令しながら言った。姿勢を崩しすぎるなということだ。「君に初めて会った時――僕はちょうど、画集の種類の豊富さに驚いているところだった。札幌の一番大きな本屋でさえ仕入れてないだろうっていう美術書なんかが、結構多くあったからね。そして君はその本屋の店主らしき六十がらみの男と、何やら笑いあいながらダンボールの箱を運んでいるところだった。結束機が壊れたから、手で紐を結ばなくちゃいけないとかなんとか言ってたっけ……その時、すぐに感じたんだ。この娘は人間じゃないって」

「だーかーらー」と、いかにもだるそうにわたしは聞いた。流石にそろそろ、うつぶせになっているのも飽きてきて、足をばたばたとばたつかせる。「わたしのどこが人間じゃないってのよ。確かにね、あなたの絵の中に登場している化け物のひとりみたいに思ったっていうんなら、まあわかんなくもないわよ。何しろわたし、スリラーのバックで踊ってたんだから」

「鋭いね」と、黛は長方形の大きなキャンバスに絵筆を走らせつつ、話を続けた。「僕はああした絵を、幻を視ることによって描くんだ。君も言ってたね。ヒエロニムス・ボスの地獄絵図を思わせるって。僕が思うには――ボスの『快楽の園』は、彼自身にもし絵の解釈を求めたとしても、本人にさえおそらく描いた理由なんてわかってなかったんじゃないかと思うんだ。すべては幻視だよ。そして描き手は自分の見えたとおりに描く……ただそれだけなんだ。僕自身もね、絵を完成させたあとで、じっとそれを眺めて、自分の描いた絵そのものに教えてもらうということがよくある。言ってみればまあ、いい絵を描くコツというのは、自分で描かないことだと言えるかもしれないな」

 わたしは退屈そうに頬杖をついたまま、うつぶせの姿勢をなんとかキープした。彼に才能のあることはよくわかるけど、それでも芸術家っていう人種はやっぱり、ちょっと頭がクレイジーなのだろうと思った。

「つまり僕はね……幻視の世界でしか見たことのない、感じたことのない女が、実際に目の前で肉を持って動いているのを見て、びっくり仰天したというわけなんだ。あの時に感じた驚きといったら、今もなんて言い表したらいいのか、わからないくらいだね。天使にハンマーで殴られたくらいの衝撃があったから」

「ふうん。世間一般じゃそういうの、一目惚れっていうのよ。でも黛さんはわたしに恋してるっていうわけじゃないし――なんか変じゃない?そんなの」

「それはどうかな」と、彼は自嘲するように笑った。「僕が君に恋していないだなんて、どうして君にわかる?もっとも、僕のほうではすぐにぴんときたけどね――君はあの本屋の、自分と三十は年が離れているだろう男が好きだ、そうなんだろう?」

 いきなり図星をさされたので、わたしは思わず彼のほうを振り返った。腕時計を見ると三時半だった。モデルをはじめて一時間半にもなる。流石にそろそろ背骨が痛くなってきた。

「そろそろ一度、休憩にしよう。といっても、コーヒーくらいしかご馳走できるものはないんだけどね――絵のほうは大体、あとはこれでなんとかなるよ。次の木曜日、君がまたきてくれるとしたら、その時までには完成しているだろう」

 わたしは彼が隣の部屋へいくと、そそくさとキャンバスのほうにまわり、今度は自分がどんなふうに描かれているかと興味津々だった。でもそこには写真にでも撮ったような、生々しい裸婦の姿があったので――流石のわたしも、これには絶句した。

「気に入った?」

 彼は紙コップにコーヒーを入れて持ってくると、そのひとつをわたしに手渡した。

「とってもね」と、わたしは皮肉をこめて言った。「なかなかの背中美人だと思うわ。でもこれじゃあ、モデルになった意味なんか全然ないんじゃない?背骨が痛くなった分だけ、損ってもんよ」

「いや、あのポーズには十分意味がある。少なくとも僕にとってはね――そうじゃなきゃ、流石に僕もここまでは描けないから」

「じゃあこれは、あなたがさっき言ってた幻視ってこと?もしそうなら、それはただの想像の産物よ。わたしの背中にはここに」と、わたしは左の肩甲骨の下あたりを指さした。

「赤い月のような形をした痣があるもの。それに肌のほうもこんなに白くて綺麗じゃないと思う――これじゃあまるで、アングルの『グランド・オダリスク』みたいだわ。あの絵はとても綺麗だけれど、実際にはあんな胴長の女の人、いるわけないでしょう?それとおんなじよ」

「あたり」と言って、彼はソファに腰かけると、またもや目で命令した。隣にきて座れってことだ。自分でも不思議だけれど、何故かいつも彼の瞳の言うことには逆らえなかった。

「僕のイメージとしては、同じ感じなんだ。それとさっきの君の質問だけれど、これは幻視というわけじゃないよ。もしこれが幻視だったとしたら――僕はモデルなんて必要としない。まだ習作の段階だからなんとも言えないけど、これは僕にとっては生まれて初めての実験みたいなものなんだ。向こうから、こちらの世界へ移行するためのね……僕自身、うまくいくといいと願っているんだが、どうなるのかはすべて君次第ということだ」

「どういう意味?」コーヒーを一口すすって、わたしは単刀直入に聞いた。「ようするに、わたしに脱げってこと?しかもノーギャラで?」

「まずいコーヒーで申し訳ない」彼は顔をしかめながら言った。確かに、コーヒーの味は苦かった。「そうだね。こんなまずいコーヒー一杯で脱いでくれっていうほうが虫がよすぎる。だから、君はそのままでいいんだ。かといって首から下は僕の妄想というわけでもないんだけど……どうも説明が難しいな。というより、僕自身本当は、君には僕の言いたいことが実はよくわかっていると思ってるんだけどね。どうだろう?」

「たぶん、わかってるんだと思うわ」と、わたしは言った。コーヒーの苦みで、舌が軽くしびれたみたいになった。「たとえば――わたしがミケランジェロのダビデ像を見ても、この男とどうにかなりたいなんて思わないのと似たようなものでしょ?いいわよ、べつに。脱いでも。どうせ人からお金もらえるほどの体っていうわけでもないし。なんかよくわからないけど、黛さんはようするにスランプっていうか、画家として新しい方向を模索してるとかっていうやつなんでしょ?たぶんわたし、そこらへんのことは勘違いしないと思う――わたしはあなたにとってはただの通過点なのね。次にもっと、美しい女の人を描くための」

「さあ、それはどうか」彼は窓辺までいくと、その下に黒い液体を撒き散らした。遠くのほうでギィーッギィーッとコゲラの鳴く声がしている。「僕はヴァイオリンの弓で、君はその弦だと言ったら、意味わかる?でも君は、あの本屋の店主のことが好きなわけだ。僕が思うには――彼よりも僕のほうがヴァイオリンを弾くのはうまいと思う。もっとも、両方とも試すっていうわけにはいかないから、すべては君次第なんだ。僕がいい絵を描けるのも、描けないのも」

 やっぱりこの男はちょっとおかしい、わたしはあらためてそう思った。変に世間ずれしていないというのか、なんというのか……たぶん本当なら「ロマンティストなのね、黛さんは」とでも言うべきなのかもしれないけれど、残念ながらわたしはそういうキャラではない。

「黛さんはなかなか、いいところを突いてると思う。でもあの本屋の店長はね、わたしの叔父にあたる人なのよ。確かに好きっていうのは本当だけど、あの人は……友彦さんはわたしのこと、ただの姪としか思ってないわ。わたしのほうでもそのいい関係を壊したくないから――ずっと平行線なの。永遠にね」

 理一郎は振り返らなかった。窓から裏の小川を眺め、ハンノキや葦にとまっているモズの姿をじっと眺めている……そしてわたしがショルダーバッグを肩にかけてアトリエからでていこうとすると、

「ユカリ」と言って、初めてわたしのことを名前で呼んだ。「次の木曜日、またここへきてくれる?べつに君が嫌なら、脱がなくてもいいから。それとモデル料も払うよ。この間、宗教画が一枚、結構な額で売れたんだ。そのほとんどはカトリック教会に寄付っていう形で渡したんだけど――司祭さまが少しは自分の懐に入れておくようにっていってくれたんだ。だから……」

「べつにわたし、お金が欲しくてここにくるんじゃないもの。それに、モデル料なんかもらったら、かえって逆にもっと真面目にやらなきゃとか色々思って、ぎこちなくなっちゃう。あと、次にくる時はお弁当か何か作ってくるわ。こう見えて実は結構うまいのよ」

 わたしはそのまま、彼の顔も見ずに水車小屋をでて、ひとりずんずん歩いていった。ピィーヨ、ピィーヨとナナカマドの樹でヒヨドリが鳴いている……ここの自然はなんだかまるで、彼の心そのものだという気がした。本屋にやってきた時の黛理一郎はもっと、存在感がなくて影が薄い感じだった。でもこうした自然に囲まれた中では、彼は存在感が濃く、あまり病弱な感じにも見えないのだ。これはただのわたしの直感だけど――東京のような都会へいったことが、彼の心臓の病気にはあまりよくなかったのではないかと、そんな気がする。ただでさえ貧血系の繊細そうな顔立ちをしているし、胴まわりなど、もしやわたしより細いのでは?という感じの男なのだ。思いきりエルボーを食らわせたら、真ん中からぽっきり折れてしまいそうな気のするほど。

「やだなあ。あんな男、できれば好きになりたくないよ」

 ポプラ並木を歩いていく途中で、わたしはひとり、そうごちた。確かに背はわたしより高かったし、顔だけ見ればわたしなどにはとても勿体ないくらいだったろう。彼は女が嫌いだと言っていたけれど、彼自身が女のような白い肌に長い睫毛、さくらんぼのような色の唇をしているのだ。今まで男ばかりの環境で、果たして何もなかったのだろうかと勘繰りたくなるくらい。

(――うーん。わたしのバイタリティであのか弱そうな男のことを守ってやれってか?心臓病だからセックスできないとか、そんなことはまあどうでもいいけど、それにしてもなあ、しかし……)

 などと思いつつもすでにもう、わたしは黛理一郎のことを好きになりかけていた。そしてその次の日、またたび堂に出勤して、事務所で友彦さんの顔を見た時に――はっきりとわかってしまった。自分の気持ちがすでにもう、友彦さんから理一郎のほうに移ってしまっているということに。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ