第2章
綾香とあたしは、中学校の三年間、同級生だった。彼女の姓は、彼女の両親が離婚するまで鬼島といい、名字が斎藤のあたしとは最初、五十音順で席が前と後ろだった。そしてそのあと掃除当番や班分けの時などにも同じグループになり、自然と互いに話す機会が増え、やがて親友になったというわけだ。
中学時代、綾香とわたしは影で他の女子たちから「レズなんじゃない?」と囁かれるくらい、仲が良かった。これは今でもそうなのかもしれないけれど、綾香はようするに同性の反感を買いやすいタイプの美少女だったので――わたしたちはふたり、クラスの中で孤島に住んでいるようなものだった。
無神経な男子たちからも、ブスの斎藤とマドンナ鬼島といった感じでよくからかいの対象にされたし、わたしたちはお互い以外、慰めあう相手のない者同士だったから、いやが上にも友情による結びつきは強いものになっていった。そんな中で、女子たちの何人かが自分たちのグループにわたしのことを引っぱりこみ、綾香のことをクラスで孤立させようとしたことがある。
「本当は斎藤さんだって、鬼島さんのこと嫌だと思ってるんじゃない?」
クラスで一番影響力のあるグループにいる、リーダー格の女子にそう言われた時、わたしはただ「べつに」と答えただけだった。そしてリンチのような包囲網の一角を崩して、図書委員の当番をしていた綾香のことを図書室まで迎えにいったのだった。帰り道でわたしは綾香に、そのことについては特段何も言わなかったけど――それでも彼女はどこかで気づいていたんじゃないかと思う。でもそれを言ったらわたしだって、「ブス」とか「ブタ」と言ってからかってくる男子たちから、彼女には随分守ってもらった。だからお互いさまといえばお互いさまだったのだ。
綾香が本人さえもあずかり知らぬ恋愛沙汰で、上級生からトイレに呼びだしを受けるほどの美少女だといっても――わたしは一度として彼女に嫉妬したということはない。それは今も同じだった。恋多き美しい彼女のことを、確かにとても羨ましいとは思う。でも嫉妬までしたということはなかった。これでもしわたしがもっと中途半端に可愛かったとしたら、もしかしたら自分でも苦しくなるくらい、わたしは綾香に対してどす黒い嫉妬の感情を抱いたのかもしれない。
今だって、一緒に街を歩いていると、どうしてあんな美人があんなブスと一緒に歩いているのだろうといったような、奇異の視線を向けられることはある。でもかえってそのくらいレベルが違いすぎると――羨望することはあっても、嫉妬するということはほとんどなくなってしまう。たとえばそれは、普通の一般人がスーパーモデルに粘着質の嫉妬の情を抱いたりしないのと同じようなものだ。彼女たちは自分たちとは住む世界の違う美の国のミューズなのだと思えば、誰も腹なんて立てたりはしないだろう。ようするに綾香は、わたしにとってそういう存在だった。
その上、彼女には同情してあまりある過去があった。彼女が中学三年生の終わり頃、地方議員であった父親が、汚職事件で捕まったのである。それは綾香の父親にしてみれば、善意で口利きをしたことではあったのだが、マスコミにすっぱ抜かれて議員を辞職するまでに追い詰められた。鬼島、というのは珍しい名字であるし、あの汚職事件を起こした鬼島龍之介の娘、ということにでもなれば、綾香が学校でいじめにあうかもわからないと心配した父親は、妻と離婚した。ゆえに、綾香の名字は今美原という。でも親子三人で仲良く暮らしているし、綾香が地元から引っ越して札幌の高校へ進学することになったのは寂しかったけど――事情が事情だから仕方のないことと、わたしは涙をこらえた。
しかし、美人というものには悲劇がつきものなのかどうか、綾香は進学した高校で、やはりいじめのようなものにあった。綾香の通っていた高校は市内でも指折りの進学校で、まわりは優等生ばかりの校風も比較的緩やかな、環境的にはいじめなど発生しにくい学校であるかのように、表面的には見えた。綾香自身もまた、そのことに安堵感を覚え、仲のよい友達ができたこともあり、これで一安心というように思った頃――彼女は友人のひとりに頼まれて、グループ交際のようなものをすることになった。ようするに、その友達の彼氏の友人と軽くつきあうようになったわけだ。そして何度か四人でデートを重ねたある時――綾香はその男ふたりに、電話で呼びだされた。綾香の友人を含めた三人で、ちょうど今盛り上がっているところなんだ、と彼らは言った。彼女は特になんの疑いも抱くことなく、よく四人でいったカラオケボックスへでかけていき――そこで、最初からそのことが目的だった彼らふたりにレイプされたのだった。
綾香が何よりも一番ショックだったのは、それが最初から彼女の友人自身の手によって巧妙に仕組まれた罠だったということだ。いわゆるデートレイプというものの範疇に含めていいのだろうと思う。また綾香にとってそのふたり組の男というのも、一見真面目そうで、信頼のおけるなかなかの好青年のように見えたことから――彼らが自分の本性を隠して演技をしていたとはとても思えないと綾香は言った――彼女は深く傷ついて、立ち直るのが難しい人間不信の沼へと沈みこんでいった。
でもそんな事件のあった時も、綾香からくる手紙はそう暗いものではなかった。今にして思えばそれは、表面的にだけうまくいっているように見せかけた、極めて上滑りな内容の手紙だったわけだけれど、彼女が本音を吐露するようになったのは、わたしの妹、麻亜子が自殺してからのことだった。
わたしたちは互いに互いの心を慰めあうかのように、それまで以上に頻繁に手紙のやりとりをし、電話では時折、何時間も涙ながらに話しあうことさえあった。綾香もわたしも、自分の人生に降りかかった悲劇について、体験を共有するための誰かが必要だった。そしてわたしたちが高校を卒業するという時――もう自分の両親とは暮らしたくないと言ったわたしに対して、綾香は一緒に暮らさないかと持ちかけた。もちろん、いくら彼女の家がお金持ちでも、流石にそこまで彼女の好意に甘えるわけにはいかないと思ったから、わたしは札幌で本屋を営む友彦おじさんに色々相談して、彼の家に身を寄せるということになったわけだ。
手紙では一度もそのことについて触れられてはいなかったけれど、綾香はわたしと手紙のやりとりをしている間も、援助交際をしてたくさんの男たちと寝ていた。それはお金のためではなく、受験勉強の気晴らしをするのにちょうどいい行為であったという。それに初体験がレイプだったという記憶と経験の重みから逃れるためにも、綾香には堕ちるところまで堕ちるという行為が必要でもあったのだ。そうして初めて、最初の体験の重さが徐々に軽くなっていき、男なんてどうせ似たりよったりの馬鹿ばかりなのだという一種悟りきった境地にまで到達することができたというわけだ――もちろん、それは彼女の年齢がまだ十九歳だということを考えれば、空恐ろしいことではある。
「でもね」と、それまでの自分の恋愛経験をすべて語り終えたあとで、綾香はこう付け加えた。
「それでも男の人に対してまるきり夢を持っていないっていうわけじゃないのよ。確かに由架理の好きな友彦おじさんみたいに、本当の意味でのいい男の人っていうのは存在してるんだと思う。でもそういう男に自分が出会って恋に落ちて結婚するなんていうふうにはとても思えないし、第一確率低すぎよ。それにいい男っていうのは大抵、すでに結婚ずみだったりするしね」
いい男はすでに結婚ずみ――確かにそれはそうなのかもしれない、とはわたしも思う。友彦おじさんだって、十年前に奥さんをガンで亡くしていなければ、今も妻帯者だったはずなわけだから。でも、そんなふうに考えるとわたしの気持ちは複雑だ。綾香の言うとおり、自分は今、とても恵まれた恋愛的環境に置かれているのかもしれない。目の上のタンコブ(和久)はいても、友彦さんはやもめおじさんだったし、若い肉体とやらを武器に迫りまくればおじさんだって、わたしのことを姪としてではなく、ひとりの女として見てくれるようになるかもしれない。
「あーあ、でもなあ……」と、思わずぼそりとわたしが呟いていると、レジに客がやってきた。
(――アルフォンス・ミュシャの画集かあ。なかなかいい趣味してるじゃん)
そう思ってわたしが目を上げると、そこにはここのところよくうちの本屋へやってくる、背の高い黒ずくめの男の姿があった。ちょっと人の目を引く容貌をしているので、彼が店内に現れると、わたしはついそちらに目をやってしまうことが多い。
何も、いかにも万引きしそうだとか、そういうあやしい雰囲気を彼が醸しだしていたからではなくて――なんとなくその男の人は全体に色素が薄いような印象なのだ。もし彼が今目の前で倒れたとしたら、間違いなく何か持病を抱えていて、発作が起きたのだろうとわたしは確信したに違いない。
「ありがとうございました」
釣銭を渡すと、彼は本を手に黙って店をでていこうとした。そしてドアの前で立ちどまり、雨催いの空を暫く見上げてから、もう一度レジ番をしながら伝票をチェックしているわたしの元へとやってきた。
「あのう……突然こんなことを言って、あやしまれるかもしれませんが」と、その男は大切な秘密でも打ち明けるように、小さな声でぼそぼそと囁くように言った。
「僕の絵のモデルをやってみるつもりはありませんか?」