義娘は悪役令嬢になりたいようです! 〜前妻の死後二日で侯爵夫人(未亡人)になってしまいました〜
わたしはマーガレット。
どこにでもいそうな赤毛に、青い瞳がチャームポイントの街娘である。
孤児スタートというなんとも運の悪い出だしだったけれども、割と顔立ちよく生まれたこともあって、手助けしてくれる人は多く、パン屋の売り子という職につくのも苦労しなかった。
粉をかけてくる男どもの露払いが多少面倒だったけれども、孤児院の院長先生ができた人だったため、さほど困ることもなく十八歳まで生き延びてきた。
十九歳になったある日、お金持ちの二十代後半の男性に見そめられ、お付き合いをすることになった。
彼の名前はギルバート。
なんだか聞いたことがある名前だなぁと思いながらも、よくある名前だったため、特には気にしなかった。
街でよく見るような服装をしていたけれども、滲み出る洗練された雰囲気は隠しきれていなくて、「どこのお坊ちゃんなの?」と聞いたことがある。
しがない商人の息子だと言う彼に、この恋は長くは続かなさそうだなぁと思いつつ、初めての恋人になんだかんだ浮かれていた。
だから、お腹に子供がいるとわかったとき、迷わず、幾らかのお金をもらった上で、一人で育てようと思った。
なんだか、喜んでくれる彼の顔が思い浮かばなかったのだ。
幸いなことに、手に職はあるし、店主に相談したら、店に住み込みでギリギリまで働いて、育休の後、子育てしながら働いていいと言ってもらえた。
「マギーは美人で愛嬌があるからね。マギーを追い出したんじゃ、うちはきっとお客さんに怒られて潰れちまうよ」
そう言って笑う店主夫婦に頭を下げ、まだ彼が喜ばないと決まったわけでもないのに、別れ話をしようと、デートの場所に向かった。
そうしたら、彼は意外なことに喜んでくれた。
「結婚しよう、マギー!」
「……ギル」
「ここに婚姻届がある。今日、プロポーズしようと思ってたんだ!」
わたしは、すごいタイミングだわと感動しながら、婚姻届にサインをした。彼もサインをした。だめだわ、感動しすぎて、涙で彼の文字がよく見えない。
そう思っていると、彼は驚きの事実を話し出したのだ。
「実は、私には妻がいてね」
はぁ?
という言葉を必死に飲み込み、先を促す。
あまりの話に、感動の涙も全て引っ込んだ。
一度思考を止め、それから再度叫び出しそうになったけれども、慌てて自分の口を塞いだ。ここで怒らせたら、全てを吐いてくれなくなるかもしれない。
「貴族の家の出でお高く止まっていてな。娘ができてからというもの、私に構ってくれないし、それは酷い女なんだ」
「はぁあ!?」
「えっ」
「あっ、え、ええと。娘さんは、おいくつで?」
「二歳」
この極悪クズ男……っ!!!
という言葉を必死に飲み込み、先を促す。
ここで怒らせたら、全てを吐いてくれなくなるかもしれない。
「それで、わたしはどうすれば」
「大丈夫、やることは変わらない! 結婚しよう!」
「はあ……?」
「実は、妻は二日前に亡くなったんだ! 何を気にすることもない、大手を振って君と結婚できる!」
目眩がする。
目の前の男は何を言っているのだろう。
「あの……産み月で、不倫がバレると思いますが」
「たった数ヶ月のことだ! 早産だと言うことにすればいい!」
「えぇ……」
ドン引きのわたしに、男は有頂天だ。
わたしは、どんどん血の気が引いていくのを感じる。
落ち着けわたし。とりあえず、状況確認だ。
「……ちなみに、あなたの本名は?」
「ギルバート=ギルベルト」
「……………………隣の領地の、ギルベルト侯爵?」
「よく知ってるな! さすが、私のマギーだ!」
自慢げな顔で抱きつかれ、わたしは気絶した。
―◇―◆―◇―
夢の中で、わたしは不思議な体験をしていた。
小さな、四歳くらいの金髪碧眼の女の子が、わたしを呼んでいるのだ。
「マギー!」
あれは誰かしら。
そうだそうだ、キャサリンだ。
わたしの可愛い娘。
「マギー。キャシーは、マギーがいい」
あら、そうなの?
「テレーザ叔母さんは、わるい人だから、だめ〜。キリクおじいちゃまとケイト叔母さんは、だめな人だから、だめ〜」
ふふふ。だめな人だからだめなの?
「笑ったら、め!」
ごめんねー。
でも、わたしでいいの? パパとママは?
「おかあちゃまとおとうちゃまは、いなくなったの」
そうなの?
「うん」
でも、困ったわ。わたし、逃げようと思っているのよ。
「め! めーなの! キャシーといなきゃ、めーなの!」
そうなの?
でも、どうしたらいいのかしら。
「家令のジェフリーは、だめ〜。執事のフレディがいいよ。あと、ギレム大おじちゃまとー、チェスターおじちゃんとー。ヒュー!」
執事のフレディ?
ギレム大おじさんと、チェスター……困ったわ、だんだん覚えられなくなってきたわ。
「眠い〜」
ええ!?
ね、キャサリン。待って……。
―◇―◆―◇―
気がついたときには、ギルベルト侯爵家の客間だった。
奇妙な夢を見たなぁとゆっくりと体を起こすと、枕元には医師と看護師がいた。
「特にお腹の子には影響はないでしょう」
冷たくそう言い放つ侯爵家付きの医師に、わたしは恐縮しながら頭を下げる。
医師も看護師も皆、喪服を着ており、葬儀の最中であることが計り知れた。
自分の男を見る目のなさ、あまりの彼の人非人ぶりに慄いていると、バタバタと廊下をかける音がして、なんだかかしこまった格好の男の人達が室内に入ってきた。
おそらく、使用人たちの中でも上位者なのだろう。執事というやつなのかもしれない。
ベッドの上にいたわたしは、突然入室してきた男たちに、身を縮ませて毛布を引き寄せる。
しかし、彼らは何かに焦った様子で、女性であるわたしへの配慮はみせなかった。
「旦那様が亡くなられました」
目を見開くわたしに、男は続ける。
「馬車の衝突事故で」
「……そ、そんな、まさか」
「あなたとの婚姻届を提出した直後に」
「…………………………………………………………はぁ?」
平民らしく、砕けた言葉で唖然とするわたしに、五十代後半の男は――家令のジェフリーは、青い顔で告げた。
「今日からあなたが、ギルベルト侯爵代理です」
このとき、気絶しなかった自分を、わたしは褒めてあげたい。
―◇―◆―◇―
侍女にいざなわれ、とりあえず喪服に着替えをしたわたしは、改めて家令のジェフリー達と話をすることとなった。
とはいえ、正直、話し合いをする元気はない。
血の気は引いているし、何を言われたのかまだ頭が受け入れてくれない。
大体、侯爵代理ってなんだ。
わたし、今日の午前中まで、ただのパン屋の手伝いだったんだけど……しかも妊婦。
ていうか、あの男――ギルバートは、本当に何をしでかしてくれているのだ。
あの婚姻届、この流れで本当に出すかな?
ふざけないでほしい。
しかもその後に死ぬとか、訳がわからない。
わたしの心には、夫(?)の死を悼む気持ちどころか、憎しみと怒りしか生じない。
「わたしはどうすればいいですか」
困り果てたわたしは、とりあえず家令にそう尋ねてみた。
家令のジェフリーはじろりとわたしを品定めするように見た後、ふうと息を吐いた。
「あなたは本来なら、葬儀の喪主となります。しかし、前妻の死から二日後に婚姻して未亡人になったとなれば、親族達のやり玉にあがるでしょう。ですので、親族達の前に出る必要はありません」
「ジェフリー様!?」
「黙れ、フレディ。マーガレット様は妊婦だ。ギルバート閣下の子を宿しておられる。嫡男かもしれん、精神的に負荷をかけて流れでもしたらどうする」
フレディと呼ばれた執事は、唇を噛んで一歩下がる。
彼は、五十代のジェフリーと違い、もう少し若く見える。三十代後半ぐらいだろうか。こげ茶色の髪が親しみやすい、柔和で真面目そうな顔つきをしている。
それを見たわたしは、夢の中で言われたことを思い出した。
『家令のジェフリーは、だめ〜。執事のフレディがいいよ』
「……あの~」
「なんでしょうか」
「その……フレディって方の意見を聞いてもいいですか? あなたは、どうしたらいいと思いますか?」
驚いて目を見張っているジェフリーとフレディに、わたしは続ける。
「わたしは、しがないパン屋の手伝いです。平民ですし、なんなら孤児ですし、どうしたらいいのか全然分からないんです。だから、選択肢は多いに越したことはありません」
「選択肢……」
「わたし、今日にいたるまで、ギルバートが侯爵だなんて知りませんでした。正直、何も知らなかったことにして、ここを出て行くのもいいかなと」
「――それは困る!」
叫んだ家令のジェフリーに、わたしもフレディも驚いて顔を向けると、ジェフリーはしまったという顔をして咳ばらいをした。
「困ります。あなたは侯爵閣下の子を宿しておられるのだから」
「……それも、あなたには本当か分からないでしょう? こうなると、真実を知っているのは、わたしだけだわ」
「それでも、あなたはギルベルト侯爵夫人です!」
ジェフリーはそう言いながらも、苛立ちを浮かべる。
わたしは、なんとなく嫌な気持ちになった。
とんだ飛び入りとはいえ、わたしは彼の言うことに従うのであれば、未来の彼の主人のはずだ。この態度はいただけないのではないだろうか。
『家令のジェフリーは、だめ〜』
(なるほど……。家令は、わたしが言うとおりにならないから、苛立ってる。わたしを傀儡にして自由にしたいのか、何か隠しごとあるのか、はたまた両方なのかしら)
「フレディさん」
わたしがフレディを促すと、フレディは家令の燃え尽きんばかりの目からさっと顔を逸らしながら、しかしはっきりと述べた。
「私は、親族の皆様に顔を見せた方がいいと思います」
ためらっている彼に、わたしは話を続けるよう、頷いた。
「葬儀後に、これからこの侯爵家をどうするべきか、親族で話し合いがもたれます。次の侯爵は二歳のキャサリンお嬢様で、その親権者はマーガレット様です。しかし、お二人とも、この侯爵領を支えるには、その……あまりにも若く、力が不足していらっしゃる」
不足している、のところで、フレディがちらりとわたしの方を見た。
わたしは、もう一度頷いた。
もっともな意見だ。わたしはパン屋しかしたことがない。割と本当に、荷が重い。失礼とか思わないから、忌憚なき意見を述べてほしい。
問題なさそうにしているわたしに安心したのか、フレディはほっと息を吐いて、続きを述べた。
「だから、マーガレット様の後見人を誰にするのかで、おそらく相当もめます。その場に、マーガレット様もいらっしゃった方がいいでしょう。今後を決める重要な場です」
「そうして、妊婦に負担をかけるというのか、お前は」
「ですが」
「マーガレット様。申し訳ありませんが、平民で、唐突にこの場に連れてこられたあなた様には、こういった親族会議での機微は分からないでしょう。我々にお任せください。後見人が付いたら、挨拶に向かわせますよ」
なんでも任せていいと言う家令ジェフリー。
その場に参加すべきだというフレディ。
正直、前者に甘えてしまいたい。
けれども、わたしはおなかの子を守らなければならないのだ。
それに……。
『マギー。キャシーは、マギーがいい』
『おかあちゃまとおとうちゃまは、いなくなったの』
まだ会ったことのない、二歳の義娘。
二歳だから、夢の中のように流暢に喋ったりはしないはずだ。だから、あれはわたしの夢で、ただの妄想だと思う。
だけど、両親を失った二歳の彼女のために、出来る限りいい環境を整えてあげたい。
「……わたし、親族会議の場に出ます」
わたしがそう告げると、家令は「マーガレット様!」と怒りの声をあげ、執事のフレディは目を見開いている。
「でも、その前にやりたいことがあります。お二人にも協力してほしいのですが……お願いできますか?」
そう言って頭を下げるわたしに、二人は――怒りの声をあげた家令のジェフリーでさえ――目を丸くした。
―◇―◆―◇―
翌日、親族会議が開かれた。
チェルシー=ギルベルト侯爵夫人が亡くなった三日後のことだ。
会議の場に集まったのは、ギルベルト侯爵家ゆかりの親族達と、チェルシーの実家であるチェンバレン侯爵家ゆかりの親族達。
元々ギルベルト夫人の葬式に集まっていた彼らに対し、ギルベルト侯爵家の家令ジェフリーから、改めてギルベルト侯爵の訃報が告げられた。
事前に知っていたとはいえ、騒つく親族達に、さらに家令は酷な事実を伝える。
「ギルバート=ギルベルト侯爵は、昨日、不慮の事故に遭われる前に、再婚なさっておいでです。そのため、亡き侯爵夫人及び亡き侯爵閣下の葬儀における喪主は、マーガレット=ギルベルト侯爵夫人となります」
親族達は騒ついた。
そして、家令の隣にいる、赤毛の美女に気がついた。
燃えるような赤い髪に、透き通るような青色の瞳が美しい、二十歳頃の若い女。美しさの中に可愛らしさもあり、手の届きそうなその存在は、否応なく彼らの目を奪う。しかも、喪服だというのに、いや、だからこそなのか、その大きな瞳を少し瞬くだけで、色気が滲み出るようだ。
おそらくあれが、マーガレット=ギルベルト夫人なのだろう。
遠縁の親族達は思った。
前妻の死後二日に再婚。しかも、その日のうちに夫は死んでいる。後妻に残ったのは、地位と権力のみ。
妖艶かつ愛らしさのある、赤毛の美女。
マーガレット=ギルベルトというこの後妻は、とんでもない悪女なのでは?
彼らの目は、亡き侯爵夫妻の親兄弟姉妹に向けられる。
この疑念を発するべきは、遠縁の彼らではなく、近しい親族であると思ったからだ。
しかし、目線の先にいる前侯爵らの態度は落ち着いたものだった。
それに不満を抱いた遠縁の親族達から、声が上がった。
「……何故ですか」
「うん?」
「あなた方は――キ、キリク前侯爵閣下は、それでいいのですか! こんな、前妻の死後二日で妻になったような女に、由緒ある侯爵家を任せても!」
そうだそうだと賛同の声が上がる中、しかしキリク前侯爵は動かなかった。
ぶすくれたような顔をして黙っている彼に、親族達は気がついた。
いつも居丈高で、感情的で、御し難い浪費家である彼が、この表情で黙っている理由は、一つしかない。
「おや、キリク兄さん。ここで叫ばないとは、四十五歳を超えてようやく分別が身についたようですね」
発言したのは、キリク前侯爵の双子の弟ギレムだった。
ギレムは、苦虫を噛み潰したような双子の兄の顔を見ると、整えたあごひげに触り、満足そうな笑みを浮かべる。
その後、笑みを消したギレムは、真剣な表情で一堂を見渡した。
「三日前の訃報。そして、昨日の訃報について……経緯はともかくとして、まずはお悔やみ申し上げる」
経緯はともかくとして、という言葉に、親族達はガックリと肩を落としている。
「そして、昨日の婚姻により、侯爵夫人となったばかりのマーガレット=ギルベルト夫人を紹介しよう。彼女は、二歳にして侯爵の地位を継ぐキャサリン=ギルベルトの義理の母として、侯爵代理の地位につく。――私と、ヒューバート=チェンバレンを後見者としてね」
大きく騒ついた会場の中、立ち上がったのは、黒髪の枯れ木のような男だった。
歳の頃は、二十代半ばだろうか。
「初めてお目にかかる方も多いと思う。私が、今名指しされた、ヒューバート=チェンバレンだ。亡くなったチェルシー=ギルベルト侯爵夫人の……弟、に当たる」
伶俐な目つきに、どこか病んだものを感じさせる、独特の雰囲気のある男だった。
迫力を感じさせるその佇まいに、親族達も思わず息を呑む。
目の前の男は亡き侯爵夫人の弟を名乗ったが、正直、金髪碧眼で華やかな女性であったチェルシー=ギルベルト侯爵夫人とは、似ても似つかない。
だが、風の噂で、ヒューバートを知る者もいた。
チェンバレン家の懐刀。鬼の采配力で事務を効率化させ、領地経営上の黒字の爆上げに努めてきた、エース官僚。別名、『効率の悪魔』。
動揺する遠縁の者達を置いて、ギレム=ギルベルトは話を続けた。
「皆知っているとおり、我が侯爵家は兄キリクの代で、大きくその財を失った。兄を私が引き取り、若いギルバートにギルベルト侯爵の地位を継がせたことは、皆の記憶にも新しい事件だろう」
弟ギレムの言葉に、キリク前侯爵は、さらにぶすくれた顔をする。
キリク=ギルベルト前侯爵は、ギルベルト侯爵家の財産を使い潰してしまうほどの大浪費家だったのだ。
一方、双子の弟のギレムは大商人に成り上がるまで、組織の経営手腕に富んだ人物であった。
できのいい双子の弟ギレムと常に比べられていた、劣等感だらけのキリク。
キリクの侯爵家経営は常に破綻していたけれども、プライドが高いキリクは、ギレムを常に侯爵家の経営から遠ざけていた。
そして、遠ざけることもままならないくらい破綻したところで、死ぬほど恩を売りつけながら、ギレムは兄キリクの身柄を回収したのだ。
今の生活があるのは弟ギレムのおかげなので、キリクはギレムが主導している事柄には口を出せない。
「それで、ギルベルト侯爵家のことだが。当然ながら、二歳のキャサリンには任せられない。とはいえ、前侯爵キリクに任せれば、二歳のキャサリンよりも侯爵家を破壊するだろう」
一瞬笑いが起きたが、キリク前侯爵が今にも血管をはち切れさせんばかりの目で周囲を睨みつけたので、一同は静まり返る。
「となると、私が出張るべきか悩んだところだが。――この麗しきギルベルト侯爵夫人から、提案があったのだ」
驚きの目を一身に受けたのは、赤毛の美女。
彼女は立ち上がると、親族一同に向かって、深々と頭を下げた。
「皆さま、初めまして。わたしはマーガレットと申します。この度のご訃報につき、まずはお悔やみ申し上げます」
顔を上げた彼女は、言葉を選ぶようにして、ゆっくりと話し始めた。
赤毛の彼女は、ギルバート=ギルベルト侯爵の恋人であったこと。
昨日、子どもができたと彼に告げたところ、結婚を申し込まれ、婚姻届を書いたこと。
その直後に、妻と娘がいることを告げられて、ドン引きして気絶したこと。
気がついたら、彼が勝手に婚姻届を教会に提出し、その直後に亡くなってしまったこと……。
唖然とする親族達に、赤毛の美女は告げる。
「考えたんです。今のわたしにできることは何か。何をしたらいいのか」
お腹をさすりながら、彼女は毅然と首を上げる。
「わたしにできることは、キャサリン様が間違いなく侯爵の地位を継ぐことができるようにすることです」
その言葉に、会場が騒めく。
誰ともなく、「お腹の子が、男の子でも?」という声が聞こえ、赤毛の美女は頷いた。
「それが、今まで侯爵家を支えてきた両家の皆さまへの礼儀であり、キャサリン様とお腹の子が諍いなく共にいられる道だと考えています。そして、そのために、お二方に協力を仰ぎました」
赤毛の美女が、両脇を見ると、ギレムとヒューバートが意を得たように頷いた。
大商人、ギレム=ギルベルトは言う。
「私が後援することで、彼女がこのギルベルト家に仇なすようなことはなくなるだろう」
効率の悪魔、ヒューバート=チェンバレンは言う。
「私が後援することで、チェンバレン家の血を引くキャサリン=ギルベルトこそが、ギルベルト侯爵家を継ぐ事実は揺らがなくなるだろう」
赤毛の美女、マーガレット=ギルベルト侯爵代理は言う。
「……そのことを、皆さまに信じていただきたいのです。そしてどうか、キャサリン様が大人になるまでの間、わたしを支えて欲しいと思っています。皆様の協力が必要です。お願いできませんでしょうか」
それだけ言うと、赤毛の美女は深々と頭を下げた。
亡き侯爵に騙されていた、悲劇の美女。
その背後には、大商人ギレム=ギルベルトに、効率の悪魔ヒューバート=チェンバレン。
しかも、未来のギルベルト侯爵はキャサリン=ギルベルトであると言い切っている……。
誰が、ということもなく、拍手が起こった。
そのまま、新しい侯爵夫人を暖かく迎えるような、柔らかい拍手で、会場は包まれた。
赤毛の美女は顔を上げ、きょとんとした表情をした。
しかし、その後、くしゃりと顔を歪めると、本当に嬉しそうに顔を綻ばせた。
その野薔薇が咲いたような笑顔に、ほうと見惚れたのは、男達だけではなかった。
―◇―◆―◇―
親族会議の後、わたしはソファに崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「マーガレット様!?」
「……緊張、しました。焦った。怖かった。緊張しましたぁ……」
クッションを抱えながらプルプル震えているわたしに、執事のフレディはほっと息を吐き、家令のジェフリーは、はぁとため息をついている。
その後ろでくつくつ笑っているのは、ギレムだった。
「いやはや。初めて人前で喋ったにしては、大したものだよ、お嬢さん」
「……ギレム様」
ギレムの嬉しそうな笑顔を、わたしは恨めしげに見上げる。
室内に入ってきたのは、ギレムだけではなく、チェスター=チェンバレン侯爵と、その弟ヒューバート=チェンバレンもいた。
相変わらず仏頂面をしている枯れ木の黒髪男に、ギレムとチェスターは興味深そうに目を細める。
「本当に、大したものだよ。事前に私だけでなく、よりによって、このヒューバートを絡めとるとはね。どんな魔術を使ったんだい」
「本当だよ。ギレム閣下のこともそうだが、このヒューバートは、兄の私の言うことでさえ、なかなか聞かないんだ。こんなふうに素直に後援者となるなんて、思いもよらなかった」
「魔術なんて……わたしは何も。ヒューバート様がお優しいだけですよ」
困ったようにへらりと笑うわたしに、ギレムとチェスター=チェンバレン侯爵は、面白いものを見つけた少年のような顔でヒューバート=チェンバレンを見る。
しかし、黒髪の枯れ木のような男は、目を逸らしただけで、特段それ以外の反応は見せない。
本当に、わたしは何もしていないのだ。
家令ジェフリー達に、親族関係の洗い出しをお願いし、根回しをしたいと告げただけ。
そして、状況を把握したうえで、夢の中の女の子が『いいよ』と言ってくれたこの三人の人物に、後援をお願いすることにしたのだ。
そうしたら、チェンバレン家からは意外なことに、チェスター=チェンバレン侯爵その人ではなく、弟のヒューバート=チェンバレンが後援者としての名乗りを上げてくれた。わたしとしては断る理由もないし、むしろ喜ばしいことでしかなかったため、そのまま後援をお願いしたのである。
しかし、「ヒューバート様が後援に」と伝えると、誰しもがギョッと目を剥く。
そんなに驚くようなことなのだろうか。
わたしがそう思案していると、無表情のヒューバートを見たギレムとチェスターが動揺しはじめた。
「……おい、これだけ色々言っても文句が出ないぞ、チェスターよ」
「そうですね。これは本格的に堕ちてますね」
「ヒューバート、お前、そんなにこの赤毛美女が好みだったのか?」
「何を言ってるんですか、ギレム様ったら。もう」
ギレムの野次に、わたしは飛び上がる。
本当に、とんでもないことを言わないでほしい。
ヒューバート様は、とてもわたしに対してフラットに対応してくださる、とてもありがたい方なのだから!
―◇―◆―◇―
同じ室内の中、執事のフレディは、実現することがないと思っていた光景を目の当たりにしていた。
顔を真っ赤にして照れている初々しい美女に、他人に厳しいことで有名なギレムとチェスター侯爵が、目尻を下げている。
ヒューバートは、その図を見て、面白くなさそうに仏頂面を下げている。
つまり、犬猿の仲であるギルベルト侯爵家とチェンバレン侯爵家、双方の要となる人物三人が、同じ陣営を作る者として、一堂に会しているのだ。
(この新侯爵夫人、本当にすごいぞ……)
✿ ✿
フレディは正直、昨日、この赤毛の美しき侯爵夫人が親族会議に出ると言い出したこと自体にも驚いていた。
平民のパン屋の手伝いで、しかも妊婦の彼女が、急に侯爵の愛人であったと告げられ、侯爵代理として動くことができるとは、とても思えなかったのだ。
しかし、彼女は毅然とした態度で、親族会議に出ると言った。
それだけでなく、彼女は、主要なメンバーに根回しをしたいので親族関係を教えて欲しいと言い出したのだ。
『……一応聞きますが。何故そのようなことを?』
そう尋ねた家令のジェフリーに、彼女は少し思案するようにした後、こう告げた。
『お知らせとかお願いって、一番最初に知っているべき人達が、他の大勢の人達と同じタイミングで知らされたら、嫌な気持ちになるでしょう? 逆に、先にこっそり教えてもらえたら、結構嬉しいですよね。だから、今回もそうすべきかと思いまして』
彼女曰く、孤児院やパン屋でもそうだったらしい。
親がおらず、精神的に不安定な子どもが多く、喧嘩に発展しやすかった孤児院。客商売のパン屋。
どこにいるときも、彼女はそうやって、人の気持ちをほぐそうと努めてきたのだと言う。
『新しいパンを出すときも、張り紙をする前に、来てくれたお客さんに「常連さんだから特別に」って先にお伝えすると、喜んで買っていってくれたりするじゃないですか。わたしも、そうやって先に教えてもらえたら嬉しくなっちゃいます』
『そんな面倒なことを、たかだかパン一つのために?』
ジェフリーの言葉に、彼女は目を丸くした。
『人にされて嬉しいことをするのって、普通のことじゃないんですか?』
✿ ✿
あのとき、執事フレディは心の中で白旗をあげたのだ。
この新侯爵夫人を支えていきたいと思った。
その方がきっと、この侯爵家の状態が変わるんじゃないかと、――面白くなると、そう思ったのだ。
ちなみにその後、親族関係を洗い出す際も、彼女は聡かった。
キャサリンの地位を安定させるため、後援はチェンバレン侯爵家に頼もうと提案したフレディ達に、それだけでなく、ギルベルト家からの後援も必要だと言い切った。
『喧嘩してる子の片方とだけ仲良くしたら、揉めちゃうわ』
そう言って、彼女はそれをそのまま、今この部屋にいる彼らに伝えたのだ。
ギルベルト家とチェンバレン家、何よりも両家の培ってきたものために、両家の力が欲しいと真摯にお願いした。片方ではだめなのだと熱弁し、力を貸してほしいと必死に頭を下げた。
美女に率直に『あなたの力が必要だ』と言われ、悪い気のする者はいない。
その目的が、正義を掲げたものであるならば尚更だ。
最初、無言で厳しい目を向けていたギレム=ギルベルトは、彼女の様子を見て、ニヤリと笑った。
冷たい目を向けていたチェスター=チェンバレンも、妹の夫を寝取った相手に対する態度をやめ、支援する価値のある人材として、彼女を見るようになった。
そして、唯我独尊堅物頑固で有名な『効率の悪魔』、チェンバレン家の官僚ヒューバートは、自ら後援を名乗り出た。
新侯爵夫人は、その実直な性格、麗しい見た目、あとは何より愛嬌で、自身の後援者をもぎ取ったのである。
(それに、それだけじゃない。人選もよかった)
後援を頼む人材を選んだのは、他でもない、マーガレットなのだ。
彼女は、フレディ達からおおよその親族関係を聞き取った後、自ら、「えーっと、あー、その、わたし、この三人に声をかけたいと思うんですわ〜!?」と、大商人ギレム、前侯爵夫人の兄チェスター、そして、弟のヒューバートの名を挙げた。
普通であれば、前侯爵であるキリクに声をかけたがるだろう。
しかし、彼女は、どうしても前侯爵のキリクではなく、ギレム達に後援をお願いしたいと言い切ったのだ。
ものすごい慧眼の持ち主である。
ギルバート=ギルベルトを恋人に選んだところの判断はいただけないが、どうやら色恋が絡まなければ、この新侯爵夫人は人を見る目もあるらしい。
(なかなかどうして、やり手じゃないか)
ギルバート=ギルベルトとチェルシー=チェンバレンの婚姻によりよしみを結んだ両家。
そもそも、犬猿の仲であった二つの侯爵家の仲を融和させることが、ギルバートとチェルシーの婚姻の目的だったのだ。
だというのに、仲の冷え切った夫婦。
妻も夫も若くして死亡。
葬儀で発覚する、夫の不義。
どうなることかと思ったが、この新侯爵夫人なら、真実、二つの家の緩衝材になれるかもしれない。
何しろ、大商人ギレムと侯爵チェスター、それに官僚ヒューバート。
ギルベルト侯爵家とチェンバレン侯爵家、両家の要の三人が、こうして彼女を中心に、争うことなく集まっているのだから。
その様子を、フレディが、特に何もしていないというのにどこか誇らしげに見ていると、赤毛の麗しき新侯爵夫人が、フレディの方を見て、恥ずかしそうにおねだりをしてきた。
「あの……わたし、そろそろ、会いたいんです……。だめですか?」
―◇―◆―◇―
こうしてわたしは、ようやくこの家の主人にお眼通り願うことができたのだ。
金髪碧眼の、無邪気で可愛い、二歳の侯爵閣下である。
閣下は何故か、侯爵家の子どもとは思えない簡素な服に身を包んでいたけれども、もちもちのお肌とふわふわの金髪が魅力的な、大変な美幼女であった。
「……こんにちは?」
侍女が見守る中、積み木のおもちゃで遊んでいる彼女に、わたしは恐る恐る、声をかける。
後ろ姿は、夢で見た四歳くらいの女の子より、ひとまわりもふたまわりも小さい。
彼女は、わたしの声を聞くと、ぱっと振り返った。
わたしを認めると、溢れる笑顔を浮かべて、片手に積み木を持ったまま、てちてち歩いてくる二歳児の閣下。
彼女は、膝をついているわたしのところまでたどり着くと、わたしの方に嬉しそうに積み木を差し出した。
「マギ!」
目を丸くするわたしに、彼女は「まぎ! マギ!」と笑い声を挟みながら声をあげている。
わたしの背後で、家令達が侍女達に、「キャサリン様にマーガレット様のことを教えたのか?」「いえ、そんなまさか」と会話しているのが聞こえる。
わたしの名前を知っている様子の、閣下……。
「……あのとき、会ったのは、あなたなの?」
「ん!」
「……そう。……そっか……」
「えへへー」
素敵な笑顔の可愛い侯爵閣下は、それから小一時間、楽しそうにわたしにまとわりついてきた。
わたしの膝に勝手に座ってきたり、積み木による芸術作品の隣でジャンプし、作品が壊れて大泣きしたりと、色々な姿を見せてくれたのだ。
「キャシーちゃん」
「マギ。積み木……」
「またあとで一緒に作ろうね」
「うん……」
「あのね。わたしでいいのかな?」
わたしがそう尋ねると、侯爵閣下は、くりくりの碧い瞳をパチクリと瞬いた。
そして、「マギ!」と、力強く頷いてくれたのである。
―◇―◆―◇―
その日の夜、わたしはまたしても夢を見た。
「あっくやくれいっじょ! あっくやく! れーじょ!」
なんだか、近くで女の子の声が聞こえる……。
わたしが眠いながらになんとか身を起こすと、傍には、何か壁に映る動く絵を夢中で見ているキャサリンと、疲れ果てたように床にうずくまる黒髪ロングヘアの女性がいた。
なんだか、その女性は、見たことのない服装をしていた。
ニットに、上着、そしてスカート。とても凝った作りのようでいて、平民のような……足も膝から下が出ていて、もはや貧民のようだ。とはいえ、その繊細な造りを見ると、布地が用意できないが故の意匠とも思えない。
「あ、起きました?」
『……えと、あなたは』
「あー。私、卑弥呼って言います。苗字は色々変わるんで、名前で呼んでください。よろしくお願いします」
「あ、はい……マーガレット、です。よろしくお願いします」
床に這いつくばっていた女性、床で寝ていて起きたばかりのわたし。
お互いに、再度床に這いつくばるようにしておじぎをする。
『それで、これは……?』
ふわふわした真っ白い床と、晴れ渡った青い空。
綺麗で居心地のいい空間の中、いるのは私を含めて三人だけ。
うち一人は、動く絵に夢中で、こちらを見てもくれない。
「いや、本当によかったです。ようやくまともな保護者がきてくれて」
『はぁ……』
「ここだけの話、あなたの義理の娘さんね、夢見の魔女なんですよ」
『……はぁ……』
「あー、眉唾だと思ってますねぇ……」
反応の鈍いわたしに、卑弥呼さんは肩を落としている。
いや、申し訳ない。
なんというか、最近、こう、わたしに変なことを言う人が多すぎて、反応できなかったのだ。
なんだか疲れてしまって、正直、驚く気力もありません。
「ああー、分かりますよ。あなたはこの子の周りにいる数少ない常識人ですからねぇ」
心の声を読んでくる彼女に、わたしは眉をハの字に曲げる。
「おっと失礼。どうにも癖でね」
咳払いした後、卑弥呼さんは色々と教えてくれた。
何やら、彼女が言うには、夢見の魔女は、幼い頃は母親の夢の中で眠っていることが多いらしい。
だから、キャサリンも、初めは実母の夢の中で寝ていたんだそうだ。
「でもねぇ。この子の亡くなった母親、結構過激な人でねぇ」
キャサリンの亡き母親であるチェルシー=ギルベルト夫人は、ものすごくプライドが高く、非常に自己顕示欲が強い人だったらしい。
「彼女の夢の中さぁ。全て金塊でできてるし、空は虹色に輝き、常に彼女を褒め称える声が怒号みたいに鳴り響いていてね。あんなの私も初めて見たよぉ」
『それは、また……』
「まあそんなわけで、眠れなくなったあの子が、いろんな人の夢を放浪して泣き喚いていてね。夢見の魔女協会に苦情がきて、私が駆り出されて……私、いつ転生しても独身で、子育てしたことないのに……みんな酷いんですよぉ……」
なんとも疲れ果てた様子の彼女に、同情の目を向けていると、彼女ははぁとため息をついた。
転生とか夢見の魔女協会とか、色々と問題ワードを口にしている気がするけれども、面倒なのでとりあえず聞かなかったことにしておく。
「そのうち、その子の母親、痩せるし綺麗になれる!って、毒入りのおしろいを使い出してね……まさか死ぬまでやめないなんてねぇ……」
『………ん?』
「父親は浮気してるしさぁ。夢の中はある意味お花畑だったんだけど、流石に浮気中の父親の夢に子どもを放り込むのもねぇ」
『……………』
「とはいえ、私にだってどうしようもなくてさぁ。教育には悪いと思ってはいたんだけど、とりあえずあんなかんじで、いろんな人の夢を渡り歩きながら、あの子にアニメを見せて機嫌を取ってたわけよ」
『………………はぁ』
よく分からないが、動く映像を見ているキャサリンは、これ以上なく楽しそうだ。
ころころと楽しそうに笑っては、金髪に赤いドレスの女の子の絵が出るたびに、手を叩いて「あっくやくれーじょ!」と喜んでいる。
「そこであなたの登場です。ありがとう!」
『ええと』
「雲の上の青空空間。お昼寝に最適な立地。ぽかぽかあったかいし、あの子も気に入ったみたいです。救世主降臨! よかったよかった」
『は、はぁ』
「あっ、警戒していますね!? あの子はね、ちょっと未来視ができたり、結構なアニメオタクだったりしますが、普通の娘ですよ」
『普通とは』
「現実世界では二歳なので、夢の中の知識を受けとめるだけの脳が出来上がっていません。起きたらほとんどなんにも覚えてない、普通の娘です」
『本当に?』
「多分!」
『……はぁ』
何も言う元気のないわたしに、卑弥呼さんは胸を張っている。
「というわけで、この子をよろしくお願いします」
『……ええ?』
「お、ちょうど番組が終わりましたね。ほら、キャシーちゃん、こっちにおいで〜」
卑弥呼さんが声をかけると、呼ばれたキャサリンは、嬉しそうに立ち上がり、てちてちとわたしのところまで駆け寄ってきた。
「マギー! キャシーは、あっくやくれっじょになる!」
『………………………………ヒミコさん』
「あー、いや、その、えーと。起きたら普通の子です!」
「おーっほっほっほ! あく! そく! ざーっ!」
「そ、それはちょっと違うやつかなぁ!?」
きゃあきゃあはしゃぎながら走り回るキャサリンに、卑弥呼さんは慌ててツッコミを入れながら、彼女を追いかけている。
最終的に捕まってしまった逃亡娘は、卑弥呼さんに抱き上げられながら、キャッキャと笑顔で喜んでいた。
そして、その喜んでいる娘は、わたしに引き渡された。
「はい、あなたの娘ですよー」
『えぇ……』
「マギー! キャシーは、マギーがいいの!」
『そうなの?』
「そうなの!」
わたしの腕の中で、楽しそうにしている四歳児。
思い浮かべるのは、起きている時の、二歳のキャサリン……。
うーん、と十秒考えた後、わたしはふと、笑みをこぼした。
『まあいっか』
「マギー?」
『キャシーちゃん。これからよろしくね』
そう言うと、キャサリンは花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
あまりの愛らしさに、わたしが慄いていると、卑弥呼さんが涙を流しながらよかったよかったと呟いた。
「あーよかった。とりあえずこれで、未来がマシな方に収束しそうです。あなたにとってもね」
『マシな方?』
「直近だと、あなたがキャシーちゃんを拒絶して逃げようとしたところを家令ジェフリーに刺されたり」
『ジェフリーに!?』
「キャシーちゃんの母方の叔母のテレーザに毒入りのおしろいを盛られたり」
『ど、毒!』
「父方の叔母のケイトに侯爵家の財産の横領をなすりつけられて投獄されたり……」
『お、横領!!』
「ジェフリーは、だめ〜。テレーザ叔母さんは、悪い人だから、だめ〜。ケイト叔母さんは、だめな人だから、だめ〜」
『だめ〜!の意味、もしかして結構重いのかな!?』
「め〜!」
わたしの反応に、キャサリンはキャッキャと喜んでいる。
ここ、喜ぶところかな!?
「ま、私もまた一年後に来るんで、頑張ってください」
『一年後ぉ!?』
「私も忙しいんですよ! じゃあね、キャシーちゃん。元気でね!」
「ヒミー、またね〜」
『ちょっ、ヒミコさんー!?』
止める間もなく、あっという間に、卑弥呼さんは走り去っていってしまった。
残されたのは、唖然としたわたしと、手を振っているキャサリンである。
わたしがキャサリンを見ると、キャサリンは首を傾げてわたしの言葉を待っていた。
きゅるりと光る碧い瞳が、わたしを見つめている。
『……寝よっか』
「うん!」
義母は、夜、義娘を寝かせないといけないのである……。
―◇―◆―◇―
マーガレットの後援となったヒューバート=チェンバレン。
彼は、公にはしていないが、大国である隣国ヒースコート帝国の帝王の落とし子だ。
訳あって、幼少期にチェンバレン侯爵に預けられ、一家の息子として育てられた。
明るく朗らかな兄と違い、姉チェルシーと妹テレーザは性格に難があったけれども、両親と兄の愛を注がれ、ヒューバートは健全かつ健康な若者として育った。
ただし、そう思っているのは本人ばかりで、周りは彼のことを、「人を刺す攻撃力のある枯れ木」「領地経営の鬼神」「見た目が病みすぎてドラキュラ」「魔王の波動」と散々な言いようだった。
それでもヒューバートは、ちょっと黒髪が乱雑に扱われ、仕事に邁進しすぎて目の下のクマが取れなくて、眼光が鋭く、細身だけれども、ただそれだけのことで、自分は普通だと思っている。
それに、男も女も、なんだかんだ寄ってくる。
きっとこれが、自分が普通である証だ。なんの問題もない。
なお、兄にそう告げたところ、兄のチェスターは青ざめた顔で、「こだわりと事務処理能力が天元突破しすぎてて全然普通じゃないし……人が寄ってくるのは青白い病み系の色気に、病んでるフェチの有象無象が吸い寄せられているだけなのに……弟の自己肯定感の高さが怖い……」と、何かを小声で呟きながら震えていた。「よく聞こえないからもう一度」と笑顔で言うと、兄はその場から逃げていった。
そんなヒューバートには、好きなものがあった。
姪のキャサリンである。
正確には、ヒューバートは可愛いものと子どもが大好きなのだ。
「そんな病んでる顔つきでまさか」「誘拐犯の間違いでは」「ドラキュラが血を吸おうとしている」と言われるから公にしていないだけで、自室の秘密のクローゼットの中はメルヘンの塊だし、孤児院にも毎月寄付している。
そして、姪のキャサリン。
ヒューバートの怖い顔にめげず、いつでも「ヒュー!」と笑顔で迎えてくれるあの子は、空から舞い降りた天使なのだ。
ただ、貢物をしても、すぐに姉のチェルシーが換金してしまうのだけは悩みの種だった。だから、いつでもキャサリンは簡素ないでたちだ。仕方がないので、ヒューバートは基本的に、キャサリンには食べるものと簡素なおもちゃを貢いでいた。
そして、あのマーガレットという女。
彼女は、割と、悪くない!
キャサリンを大切にし、彼女のために尽くそうとする姿勢。しかも、今から子供を産む妊婦。大事だ。この世の正義のため、子ども達のため、ヒューバートは動かねばならない。
ただ一つ問題があるとしたら、マーガレットが一瞬でキャサリンに気に入られたことだ。
ヒューバートが「ヒュー!」と呼んでもらうには、相当な時間がかかったと言うのに!!!!!
……いや、違うな。嫉妬は物事の効率を下げる。
彼女はキャサリン相手に限らず、人たらしの才がある。そこに嫉妬するのではなく、学びを得るべきだろう。
今度からは、彼女を心の内で師と仰ぎ、彼女のやり方を真似しよう。
ほくそ笑むヒューバートは、気がついていなかった。
彼がこの日、初めて成人女性に興味を持ったことに、気がついていなかった。
そもそも、彼が兄と両親と子ども達以外の人間にこれほど興味を抱いたのは初めてのことであったのだが、そのことにも気がついていなかった。
ヒューバートは、浮かれているのだ。
何しろ、ヒューバートは今後、二歳の侯爵閣下や妊婦の侯爵代理の代わりに、ギルベルト侯爵家の侯爵業務を行うことになっている。これは、大商人ギレムよりも、官僚であるヒューバートの方が侯爵業に向いているだろうという、両者の判断によるものである。
要するに、これからヒューバートは、ギルベルト侯爵家に住む。
つまり、可愛い姪と、毎日楽しく遊べるのだ。
しかも、侯爵代理が姪の弟か妹を生んだら、その赤ちゃんとも一緒に過ごすことができるという夢のオプション付きである!
有頂天のヒューバートは、知らず知らずのうちに、「くっくっく……素晴らしい……素晴らしい計画だ……」たくらみ笑いを繰り返していた。
そんな自分の笑い声が周囲の使用人達に恐怖を与え、「闇の帝王」「ギルベルト侯爵家転覆を目論んでいる」「悪の権化」と言われていることに、気が付いていなかった。
そして、それだけでなく、悪役令嬢になりたい夢見の魔女キャサリンと、天然人たらしマーガレットに散々弄ばれる未来が近いことにも、全く気がついていないのだった。
~終わり~
ご愛読ありがとうございました!
この後、悪役令嬢になるためにキャサリンが王子様の夢に突撃して「こんにゃくぱっきんしてほしいの!」とおねだりして、王子様がこんにゃくを食べる練習を始めたり、
他所のご令嬢の夢で悪役令嬢アニメを大量布教して「わ、私、転生悪役令嬢なの…!?」と勘違いするご令嬢が大量発生したり、
大好きなヒューの大事なメルヘンクローゼットを大好きなマギーに暴露してヒューが部屋から出てこなくなったりと、
色々あるようです。
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